四
フランが離れていった後もしばらく、エイジは先ほどの不可解な発言について考え込んでいた。
水を流せ、とはどういう状況だろうか。
まさか、川に堤防でも作って、氾濫を起こすわけでもないだろう。
一体これから先に何が起こるというのか。
未来はいつだって不確定なものだが、人から示唆されると余計に不安になる。
不安が顔に出ていたのだろうか。
フランコがエイジに苦笑交じりに言った。
「そんなに心配そうにしてると、ハゲるぞ」
「誰がハゲるんですか! フッサフサですよ!」
「ははは、強がらなくて良いぞ」
「頭に火のついた炭を放り投げてやろうか……」
エイジは自分の髪の毛が気になって、触ってみたが、親戚一同、髪の毛には不安はないはずだ。
というよりも、不思議な事に鍛冶師は長生きでしかも生涯現役、ハゲ知らずという職人が非常に多いのだ。
中には八十や九十にもなって元気に金槌を振り下ろしている職人も珍しくない。
それは鍛冶師という常に暑い環境と、鉄の塊を振り下ろす肉体労働が関係しているのかもしれないが、詳しい因果関係は分からなかった。
鍛冶師で困るのは、レントゲンを撮ったときに肺が鉄粉で真っ白に写ってしまうことと、火を見続けて目をやられる職人が多いことぐらいだろう。
エイジはフランコを睨みつけたが、おかげで不安な気持ちは払拭できた。
別の心配の種も小さいながらも抱え込んでしまったが、ここは感謝しておくべきだろうか。
そんな風に思っていると、フランコが胡乱げな視線で、村長の家を見た。
「お前さんはフランに気を取られて気付かなかったようだが、もう一人来客があるようだぞ」
「誰でしょうか……?」
「先ほど忠告した要注意人物、リリルカ村の村長のガジールだ」
「今はどこに?」
「ボーナが相手をしているはずだ。挨拶をすればするで面倒なことになるし、しなければ挨拶もないのか、という話になるだろう。どちらを選ぶにしろ、用心はしておくことだ」
「かなり面倒な相手ですね。私、会いたくなくなってきました」
話を聞くだけで厄介な性格だと分かった。
げんなりしてしまう。
実際面倒なんだ、とフランコがため息を吐いた。
普段は理性的、理知的なところを重んじるフランコがこんなにも感情を表して、人の欠点を言うとは。
リリルカ村にもフランコは徴税に出向くはずで、その際にも苦労しているのだろう。
このままなんとかボーナが相手をしてくれないだろうか。
願いは叶わなかった。
どうやら、ガジールがエイジに顔合わせをしたいと要求したらしい。
村の子供がエイジにその話を伝えに来たとき、見つからなかったことにできないかな、と少し思った。
とはいえ、相手は招待客であり、エイジは今回の披露宴の主役だ。
当然そんな失礼なことは出来ないので、エイジは呼んでくれた村の子供に礼を言って、仕方がなくボーナのもとに向かう。
その歩みがゆっくりになってしまうのは、勘弁してもらうとしよう。
フランコはボーナがいるならば、と同道はしないことになった。
その裏に隠された心情が透けるようで、エイジは思わずフランコを睨んでしまった。
だが、フランコも自覚しているのだろう、気まずそうに目を逸らすだけだ。
初めて顔を合わせた、島の東西の対極に位置するリリルカ村の村長ガジール。
彼は一言で言うと、チビデブハゲの三拍子が揃った四十絡みの男だった。
普段から豪奢な生活をしているのだろうか。
全身に贅肉がついていて、必要最低限なカロリーしかとれていない島の人間では非常に珍しいタイプだった。
脂ぎった肌と、テカった頭は、見ていてあまり気持ちのよいものではない。
シエナ村の村長のボーナだって、最近では村が豊かになってきたが、そんなに贅沢な暮らしはしてない。
クッキー一つで村の戦略を変えようか、と考えてしまうような質素な暮らしだ。
ナツィオーニの領主は、暮らしこそ豊かだが、普段の活動が非常に活発だから、肥える様子はない。
だからこそ、ガジールの容姿はとても醜く目立った。
おまけに、歳を重ねるに連れてその人となりが顔に出るというが、ガジールはもしその説が本当だとすれば、かなりのいやらしい性格だろう。
エイジがボーナの家に訪れると、ガジールが誰何してきた。
「誰だい、お前さんは?」
「今回養子としてシエナ村のタニアと結婚することになったエイジです。あなたの名前は?」
エイジが問いただすと、ガジールが不快そうに顔を歪めた。
たるんだ腹が、ちょっとした動きとともにブルブルと震える。
ブルドッグのような顔から放たれた言葉は、くぐもって聞こえた。
「私がガジールだ。リリルカ村の村長だということぐらいは知っているな?」
「事前に招待する方の名前と経歴ぐらいは聞いていますから存じていますよ。この度は遠い所からわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「ふむ、本当に遠いところから来たわい。道は悪い、山は険しい、馬に乗るのもこれで腰が痛くなっていかん」
わざとらしくガジールが腰を叩くが、本当に災難だったのは、重たい体を乗せなければならない馬の方だったのではないだろうか。
わざわざ苦労を主張してくる姿に、橋があればもっと早く来れたんではないでしょうか、という皮肉を我慢するのに、グッと堪えなければならなかった。
エイジのそんな内心には、ガジールはまるで気が付かなかったらしい。
「しかし冴えない男だな。本当にこんな男が領主様に気に入られるなんてことがあるのかね」
「初対面で失礼なことを言う人ですね。少なくとも、太ってはいないし、身長もそれなりにはありますよ」
「ふん、知らんのか。恰幅が良い方が女にはモテるんだぞ?」
「エイジ、この男の口の悪さを気にしちゃいけないよ」
「おっと、悪い悪い。口が悪いのは生来の気質なんだ。許してくれ」
ボーナが口を挟んでフォローを入れるが、本当に気にしないほうが良さそうだ。
ガジールがにやけた笑いを浮かべて、形ばかりの謝罪をするが、あまりにも明け透けな態度に、気勢が削がれた。
それと、後で知った話だが、ガジールの恰幅に関する話はまんざら嘘ではないらしい。
肥えているというのは、見方を変えれば富の象徴だ。
性格の悪さは折り紙付きだが、少なくとも食べ物に不自由しないという魅力のアピールにはなるようだった。
「エイジは本当に腕の良い職人でね。この村でも大助かりさ」
「なんでも青銅ではない、鉄とかいう金属を使うそうだな。うちの村ではまだ回ってきてないんだ。融通してくれんか」
「時期が来れば考えましょう。今はまだシエナ村にも十分な量が回っていませんからね。他村に回すほどの余力はありません」
「ふん…………。みみっちいことを言う」
「こればっかりは、私に言われましてもね。私はしがない職人の一人ですよ。ボーナさんや養父の意見を聞かないことには、判断できませんから」
ボーナがどこがしがない職人だ、という視線を向けてきたが、エイジは努めて無視した。
それに、鉄器の価値は生産拠点を離れるごとに高くなるのだ。
交易とは中継点が増えるごとに、その価値はうなぎ登りに上昇していく。
ましてや交通網が整備されていない時代だ。
エイジが一番近くの村に交易として交換しているのはタル村だが、リリルカ村にたどり着く頃には、一体何倍、何十倍の価値に跳ね上がっているだろうか。
「まあ、それもそうか」
「そうですとも、ねえボーナさん?」
「うむ、その話は私と領主を交えて、また後日することにしよう」
そして、鉄製の道具を持つものと持たざるものとの格差は驚くほど開くことになる。
エイジは一言も暴言を吐かなかったし、暴力を振るうこともなかった。
しかし極めて理性的に、誰よりも残酷な対処を心に決めた。
知らぬはガジールばかりだ。
彼はいつの日か、自分のしでかしたことを後悔するだろうか、とエイジは思った。
「まあ、結婚おめでとうさん。奥さんの顔を早く見てみたいもんだ」
「とても美しい方ですからね、見ると驚きますよ」
「ふん、早速惚気か?」
「はい。披露宴間近ですからね。これくらいは許されるかと」
「……まあ、良い。顔を見るのを楽しみにしておこう。グフフ……」
どれだけ見たって、指一本触らせないが、まあ見るだけならば招待した手前、許さないといけないだろう。
とはいえ、エイジには一つ懸念があった。
もし、この男がタニアまで貶めるようなことを言えば、その時は果たして我慢できるのだろうか?
エイジには自分を抑えきる自信がなかった。
そうして、波乱を迎えながらも、招待客が一人ひとりと集まり、披露宴の日がやってきた。
次回、『披露宴』。
ナツィオーニとか、ワインでベロンベロンになった人とかが出る予定です。