九話下 とっても美味しいお菓子づくり
いよいよお菓子作りも佳境に入る。
エイジの指示に従って、タニアがボウルにバターを入れた。
最初の工程は、ホイッパーでバターを混ぜることだ。
「良いですか、作り方はとてもシンプルです。まず最初に、バターをこねます」
「よいしょ、よいしょっ。こねこねー」
「……あんた、もうちょっと落ち着きなよ」
「え、なんですかジェーンさん」
「……もう良いさ。頑張ってこねな」
「はい!」
これで本当に一児の母だろうか。
楽しそうに笑いながらホイッパーでボウルのバターを混ぜるタニアの姿に、エイジも、ジェーンと同じく呆れてしまう。
しかし、呆れながらも可愛らしいと思ってしまうのは、自分がタニアに魅了されているからなのだろう。
ある程度混ざったら、そこに甜菜糖を入れる。
「おっ、さっそく言ってた砂糖を入れるのか」
「ええ。バターが白っぽく色が変わるくらいまで、しっかりと混ぜ合わせます」
「こねこねー……って結構これしんどいですね」
「お菓子作りは体力がいりますからねえ」
パティシエはよく腱鞘炎になるらしい。
華やかな女性の仕事とイメージを持たれているが、実際には肉体労働が中心だ。
試食でカロリーオーバーになりやすいし、激務でもあり、華やかな表と違い、裏には厳しく地道な現実が待っている。
とはいえ、タニアも機械のない生活で鍛えられた身だ。
疲れを感じるのは、ただ単に慣れていない動作だからだろう。
はふぅ、と息を吐いて、汗ばんだ額を腕で拭う。
頬が血色の良い桜色に色づいている。
その仕草がとても色っぽかった。
ふぅ、っと息をついたあたりで、エイジは次に卵黄を投入する。
まだまだ混ぜるのはタニアの仕事だ。
白っぽくなっていたバターが、卵黄が入ることでほんの少しだけ黄色く染まる。
卵の色が白っぽいので、色味に変化の少ない。
「さて、そろそろ小麦粉を入れましょうか」
「ドバーって入れてください!」
「ダメですよ。ダマになるからちょっとずつ分けていれるんです」
「面倒だなあ……」
「料理は面倒なものですよ。文句を言わない。ていうか、調理が面倒なのはタニアさんもよく知ってるでしょう?」
「ぶーぶー! 面倒だからこそ、ちょっとでも簡単にできるようになりたいんじゃないですか!」
タニアが膨れていうが、それで失敗してしまっては元も子もない。
エイジはしっかりと、用意した小麦粉を三回に分けて、篩いにかけていく。
ボウルに小麦粉が白くパウダーされ、それをヘラを使って混ぜていく。
最初は水気が足りないから、簡単にはこねられない。
ボウルに押し付けるようにして、小麦粉全体に水分を染み渡らせる。
しっとりとしてきたら、ダマができないように丁寧にこねていく。
二回目、三回目と回数を重ねるごとに、当然行き渡る水分は少なくなるから、より丁寧にやらないといけない。
何回も何回もかき混ぜ、かき回し、粉を返す。
全体的にバターなどが小麦粉に行き渡ったら、綺麗に洗った布に包んで、しばらく寝かせる。
ラップがあれば良いのだが、なければあるもので代用するしかない。
「ふぅ……本当に疲れました」
「お疲れ様です。肩でも揉みましょうか?」
「あ゛あ゛~、そこぉ。きくぅぅうぅうぅ……っ!」
「まったく……なんて声出してるんだい。死んだ息子たちに見せられないよ」
気持ちよさそうに、とろけた表情を浮かべたタニアの顔を見て、ボーナが呆れてしまっていた。
タニアの肩はパンパンに張っていて、ゴリゴリとした硬結ができていた。
次はワシにもやっておくれよ、などとボーナにも頼まれながら、しばし待つこと三〇分ほど。
生地がしっとりと出来上がっていた。
布を取り、麺棒で生地を均一な厚さに伸ばしていき、型を取る。
最初の製作ということもあって、四角で統一することにした。
いろいろな形を工夫するのは、慣れてからでも良いだろう。
出来上がったクッキー生地を、オーブンに入れる。
すでに暖めてあったオーブンの熱気がむわっと扉から這い出てきた。
「後はこれを焼くだけですか?」
「そうです。時間にして一五分ぐらいかな?」
「おしゃべりしてたらあっという間ですね。生地を作るまでが大変でした」
「ありがとうございました。次はジェーンさんにやってもらうので、タニアさんはゆっくりしておいてください」
「なんだい、私も作るのかい?」
「食べるんだから、調理にも協力してもらいますよ」
「仕方ないねえ」
人使いが荒いんだから、などと悪態をつきながらも、少しウキウキしているのは、やはり新しいものに興味が湧いているのだろう。
オーブンの扉を締めて、火が弱まらないように炭を足しておく。
小さな覗き窓から焼き加減を時々確かめながら、じっと出来上がりを待つ。
途中で、甘い焼き菓子特有の香りが漂ってきた。
ぐぅぅ、とお腹を鳴らしたのは誰だっただろうか。
タニアが鼻をスンスンと鳴らして、うっとりとした表情を浮かべた。
「エイジさん……とってもいい匂いがしてきました」
「もうすぐです。楽しみですね」
「はい。美味しそうな匂い……いったいどんな食べ物なんだろう?」
「な、なあエイジ。もう出来てるんじゃないか?」
「まだですよ。もうちょっと待ってください」
「食べる前から美味いとわかる匂いじゃのぉ」
普段は落ち着いていて、欲をあまり見せないボーナも、今は待ちきれないとばかりに興奮している。
覗き窓を開き、オーブンの中を見れば、燃え盛る火に焼かれながら、クッキーが少しずつ色づいている。
少しばかり待ち、これ以上焼けば焦げてしまいそうだ、という手前で、エイジはオーブンを開いた。
扉からモワッと熱気が溢れかえる。
火箸を使って、オーブンの受け皿を引き出すと、より一層匂いが引き立った。
「おおっ……! 小さいけどパンみたいだな!」
「触感はだいぶ違うと思いますよ。少しだけ冷めるのを待ちましょうか」
「ううぅ、エイジさん待ちきれないですよぉ」
物欲しそうな顔を浮かべるタニアを押さえつつ、手を伸ばしてくるマイクの甲をつねる。
二人共恨めしげな目で見つめてくるが、どうせ一瞬のことなのだ。
しばし待つこと、エイジが許しを出し、皆が一斉に手を伸ばした。
シャクッ、と噛む音がした途端、タニアの顔が笑みに緩んだ。
目をつむり、しっかりと味を楽しんでいる。
さて、評価はいかほどだろうか。
エイジは期待七割、不安三割といった心境で、その瞬間を待った。
「お、美味しいです! エイジさん、これ美味しい! サクってしてますよ。パンみたいに重たくなくって、とても口当たりが軽いです」
「甘いけど蜂蜜みたいにはくどくないぞ。口の中で溶けていくのはバターの旨みか。これは何枚でもいけそうだ」
「エイジ、アンタやるじゃないか! 私も気に入ったよ」
「なんじゃこれは…………っ!? …………ッッ!?」
「ありがとうございます。気に入ってもらえてるようで、嬉しいです」
口々に賞賛の声を上げながら、サクサクとクッキーを食べていく。
どうやら初回から焼き加減を含めて成功したらしい。
随分と久しぶりだから、どれだけ成功するか不安だったが、貴重な素材が無駄にならなくて良かった。
エイジも一枚手にとって食べてみる。
おっ、これは本当に美味しい。
やはり、材料の出来が段違いなのだ。
搾りたての鮮度の高い牛乳、作りたてのバター、産みたての卵、挽きたての小麦。
料理は材料が七割、腕が三割という格言がある。
エイジたちの料理の腕は熟練の菓子職人に比べれば拙いものだが、それを上回る材料の鮮度があった。
表面がサクサクと焼けたクッキーは、たしかな歯ごたえで口を喜ばせる。
口の中ではホロホロと溶け、唾液と混ざるとふわっと舌に旨味が広がる。
最初に感じるのは小麦と砂糖のくどくない甘みだ。
そこからバターや卵黄のコクがじんわりと広がる。
気づけばもう一枚、さらに一枚と、いくらでも食べることが出来る味わいだった。
「もっと、もっと食べたいです。マイクさん、いただきます!」
「あ、こらタニア、オレの……っ!?」
「私も貰うよ」
「母ちゃん、そりゃねえよ!」
残り少なくなってきたために、ちょっとした争奪戦が起こってしまった。
タニアは手元に自分の分を確保したまま、シュパパ、っと音がしそうな程の手の速さで、テーブルの上に残っていたクッキーを口に放り込む。
ジェーンも同じく手を伸ばすと、途端にマイクの前に残っていたクッキーがなくなってしまった。
そういえば先ほどからボーナから反応を貰っていないな、と見てエイジは驚いた。
見れば、一心不乱にクッキーを貪り食っている。
「…………っ! …………っ! ほぉぉぉ……っ」
「ボーナさん、一人黙々と食べ過ぎでしょう」
「美味いのぉ、美味いのぉ」
壊れたスピーカーのように、同じ言葉を繰り返しているボーナの姿に、少し心配になってしまう。
ともあれ、非常に気に入ってくれたようで何よりだった。
好感触の連続だ。本当に良かった。
「これなら披露宴で出しても問題なさそうですね」
「うむ……そうじゃの……。やっぱり出すのは止めんか?」
「どうしてですか!?」
エイジはボーナの発言に驚いた。
中止する意図がまるで分からない。
思わず身を乗り出したエイジに、ボーナは深刻な表情を浮かべて答えた。
「うむ……甜菜糖はまだ数を作れないのじゃろ?」
「ええ。おそらく、振る舞えば今年はこれで終わりでしょうね
甜菜糖の取れる量が限られているのだ。
材料がなければ作りようがない。
「……ワシ等で美味いものを独占したい」
「浅慮! 村の威信をかけて宣伝するのはどうなったんですか!」
「もう良いかなって……」
「ダメです! 決定! これを披露宴で出します!」
「ええっ……ワシのクッキー……」
「まったく、あなたのものじゃありませんよ」
駄目だこのババア。
美味いものが食いたいがために、利害計算が飛んでしまっている。
こうして試食会は大盛況で終えることになった。
明日も更新します。
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