六話 帰宅準備
タニアが施薬院に入院することになって、一人暮らしを送っているエイジの一日は非常に忙しい。
払暁とともに起床すると、まずは消えそうになっている残り火を燃やすところから始まる。
白い灰は飛ばないように慎重に集めた。
石鹸づくりはもちろんだが、この灰は染色や鞣しをはじめとして、毛糸の縮絨などさまざまな制作物に使われるし、畑の肥料にもなる。
古代や中世において、万能の消耗品といったところだ。
それからエイジは前日桶に溜めていた水で歯を磨き、顔を洗う。
樽から新しい水を移し、鍋に火をかける。
それから、太陽が本格的に昇る前に畑に向かい収穫を始める。
冬であればキャベツ、人参、コールラビやトレビスといった野菜が収穫できる。
とはいえ雪に覆われた状態で収穫できるものは限られているが。
収穫する必要のある物は急いで採り、まだ時期の早いものはそのままおいておく。
野菜も土から掘り起こすと、その時から鮮度が落ちていく。
冷蔵庫もないため、保存の必要性は最低限に保っておきたい。
急いで家に戻ると、鍋に大量の湯が出来ている。
そこに吊していた玉ねぎと、大壷に砂を満たした中から人参を、収穫してきたばかりのキャベツを刻んで入れ、ウサギの薫製肉を放り込む。
乾燥させていた香草で煮込み、グツグツと沸き立つ鍋の表面に出てきた灰汁を丁寧にすくい取る。
しっかりと火が通ったのを確認すると、炭をかき混ぜて火を弱める。
竈と暖炉が兼用になっているが、調理時ほどの火力は必要ないからだ。
器によそって食べる。
ウサギの肉は臭みも少なく、歯応えも固くないから、本来なら結構美味だ。
だが、一人の食事はどれほど手をかけても、誰かと一緒に食べる料理ほど美味しくなかった。
食事を終えると、次は家畜の世話に移る。
家畜の糞尿や敷いた藁、食べ残した干し草などをフォークでかき集め、これを堆肥置き場に放り投げる。
堆肥は放っておいても自然と熱を出して発酵していくが、ときおり新鮮な空気を取り入れるため、かき混ぜてやる必要がある。
床には新しく藁を敷き、新鮮な水と干し草、マルチ、それに蕪などの野菜を餌として与える。
タニアが普段管理しているのはウシが二頭、イノシシが四頭だ。
冬の間でもシメないで済むのは、四輪農法によるところが大きかった。
これは非常に大きな問題で、その後出産数が増大するだけでなく、冬前に殺す必要が無いため、いつでも腐っていない新鮮な肉が調達できるようになった。
食事を終え、家畜の世話を終え、エイジは次に家の掃除を始める。
ガスと違い、炭を焚いているため、どうしても灰が舞う。
はたきで高所の埃や灰を落とし、床を掃き清める。
空気の入れ替えのため扉を開けるが、震えるほどに寒い。
室内でも完全に防寒着を着て掃除をする。
ベッドを始め、細かなところも濡らした布で拭き取った。
これを数日続けて、隅々まできれいにしたら、タニアを迎えることも出来るだろう。
ここまでは一人暮らしの間、エイジが毎日するべき最低限のことだ。
仕事があれば、ここから鍛冶場に行き、仕事を終えたら洗濯、炊事が待っている。
あまりにも忙しすぎるため、弟子たちが食事の準備をしてくれたり、ジェーンが夕食を分けてくれることがほとんどだ。
それに加えて、産婦であるタニアを迎えるにあたって、エイジには新たにするべきことがいくつかあった
用事を済ませていると、ちょうど来客があり、エイジは手を止める。
すでに来てもらうように頼んでいたのだ。
「よお、エイジ。用ってのはなんだい?」
「やあ、フェル! よく来てくれたね」
「うげっ、なんだいそのフランクな喋り方は。普段と違いすぎてすごく気持ち悪いぞ」
「ひどいですね。親しみを込めているんじゃないですか」
「それが似合わないってーの」
フェルナンドがすごく嫌そうな顔をして、今にも回れ右をしてかえってしまいそうな気配を見せた。
まいったな。
これまで大変な仕事ばかり頼んでいるから、完全に警戒されている。
お茶を用意して、玄関の扉を閉めて退避路を封鎖。
とりあえず話を聞いてもらえるようにする。
しぶしぶ、という感じではあったけれど、フェルナンドはこちらの薦めに従った。
やれやれ、どうして頼みごと一つするのにこんな苦労しなくちゃならないんだ。
お茶を飲みながらタニアが帰ってくることを伝える。
「そっか。まあ家でゆっくりしてるのが普通だしな」
「それでですね、私としてはやっぱり少しでも環境を整えて、タニアさんとリベルトにはには帰ってきてもらいたいんですよ」
「……なるほどな。エイジの気持ちはよく分かった。それで僕にどうして欲しいんだい?」
「ええ。フェルに頼みたいのは、石張りの床にして欲しいんです」
「はあっ!?」
「無理かな?」
自宅は全面土間だ。
叩いてか、踏んでか、非常に固く踏み固められているが、やはり掃除などの際には土埃が立つ。
つねに清潔性を保つには、板張りか石を敷き詰める方がいいだろう。
エイジは最初、床も柱も壁も、すべて木造を考えていた。
だが、ヨーロッパのような気候で木造住宅というのは、長持ちしないらしい。
日本家屋のような、何十年と保つような家は殆ど考えられない。
現在の村の家屋は木造がほとんどだが、毎年数軒が建て替えの必要性に迫られている。
今後は多少労力がかかっても、一部だけでも、石造りあるいはレンガ造りが中心になるだろう。
幸いなことにエイジは村の幹部の一人でもあるし、鍛冶屋を営んでいるため、それなりに裕福だ。
であるならば、身の回りの環境には気を配りたいというのが本音だった。
だが、エイジの目的は適わなかった。
フェルナンドは激しく首を横に振ったのだ。
どうしてだろう。
「ダメダメ! 俺は大工だぜ。そういう石を使う仕事は俺じゃなくて石工に頼みな!」
「そうしたいのは山々なんですけどねえ……」
「なんだ、問題あるのか?」
「水車小屋で自動石切装置を作ったところ、仕事が奪われると勘違いされてしまいましてね。以来、あまり信用されてないんです」
「ああ、あの万力で石を固定したら、自動で鋸が大石を切ってくれる装置な。すごい便利だよね」
「そんなわけで、一度は依頼したんですが断られてしまったんです。頼りになるのはフェルだけです。お願いしますよ」
「ダメダメ。それにお前さん石の加工もお手の物だろうが。ナツィオーニに行ったときに見事な竈を作ったって聞いているぞ」
エイジがいくら頼んでも、フェルナンドは頷く気配を見せなかった。
ケチ。
仕方がないので、頼む仕事を切り替える。
優秀な大工にやって欲しい仕事はいくらでもあるのだ。
「じゃあ、家の玄関と家畜部屋の間に扉を付けてください」
「扉あ? そりゃ良いけどまたなんでだよ」
「衛生問題です。家畜の毛や糞尿、雑菌、虫、そういうのを避けるためって言っても……分かりませんよね?」
「あー、またよく分からん知識を出してきやがったな……やれやれ、分かったよ。それは大工の仕事だからな、とりあえずそれは作ってやらあ」
「フェルありがとう、大好きだよ!」
「けっ、気持ちわりい」
「じゃあ、それに加えて……」
エイジが更にいくつか注文すると、フェルナンドのお顔があきれた物に変わる。
いい加減にしろと怒られてしまった。
ちょっとプラスして報酬を渡すことを約束し、なんとか納得してもらう。
思っていたよりも手痛い出費になってしまったが、これで更に快適な生活が送れるだろう。
完成が楽しみだ。
フェルナンドが改築の準備をするため職場へと戻ったのを見届け、エイジも自身の仕事を始める。
まずは犬橇をマイクから借りた。
実は以前から少しずつ練習しているのだが、まだ慣れない。
犬橇は最速だと四十キロほどにもなる。
エイジの運転技術では速い速度だと転倒する恐れがあり、怖くてゆっくりと走ってもらっている状態だ。
座席に座ると、位置をしっかりと確認し、かるく手綱を引いた。
橇は雪の上を大きな音もなく颯爽と走る。
白銀の世界の中では、あまり速度を出しても景色の変化が少なく、実際よりもゆっくり進んでいるように見えてしまう。
だが、顔に吹き付ける冷たい風が痛いぐらいで、幸い速度を勘違いすることはなかった。
犬橇の甲斐あって驚くほど早く移動できた。
たどり着いたのは、以前村人たちに協力してもらって作った水車小屋だ。
ここで目的となる大岩を裁断するのだ。
フェルナンドはエイジに石工の仕事もできるといった。
だが、適当な形に整えることは出来ても、ノミで綺麗な断面で、かつ均等な厚さの石版を作るのは非常に難しい作業だ。
それはもう熟練の職人の技の世界だろう。
鋸を使う手もあるが、これも一枚の石版を作るのに、非常に時間がかかってしまう。
そこで水車小屋の出番だった。
小屋の中には人がいて、すでに水車は使われていた。
轟々と水車の回る音が響きわたる。
水車に使う川の水流は速く、また水量も豊富なため、この冬の寒さにも関わらず、凍ることはなかった。
さて、利用者は誰だろうか。
あまり長時間占有するような人じゃなければいいのだが。
水車一つの動力から、複数の弾み車などを使って力を分散し仕事が出来るようになっているが、当然同時に使うと効率は落ちる。
ちなみに使う用途によって区画が分かれるようになっていた。
「こんにちはー」
「こんにちはエイジさん」
中にいたのは目も覚めるような美人、アデーレだった。
水車を利用して、毛糸を縮絨する作業をしていた。
ちなみに縮絨は石鹸などのアルカリ成分を含んだ湯に漬けた後、叩くというやり方だ。
「エイジさんがこちらを使うのは珍しいですね」
「ええ、ちょっとした用事がありまして。使っても?」
「どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
アデーレも仕事で忙しい。
手元から目を離さず、会話を続ける。
「そういえば、今日から旦那さんをお借りしてます」
「そうですか。エイジさんとはよく一緒に仕事をしていますね」
「ええ。昔から鍛冶師と大工はセットのようなものでして……。いつも負担ばかりかけて申し訳ない」
「いいえ。ちょっと帰りが遅いくらい、仕方がありませんわ。お仕事ですもの」
チクリといわれてしまったが、エイジとしては苦笑を漏らすしか返答のしようもなかった。
この二年間、エイジがフェルナンドに頼んだ仕事量を考えれば、アデーレの対応は至極もっともだ。
近代とは行かなくても、自分の知る生活水準に少しでも近づけたいという考えから、ずいぶんと無理をさせてしまっている。
フェルナンドがよくついてきてくれるものだ。
感謝だなあ。そして感謝といえば、そのフェルナンドの仕事も、支えるアデーレがいてこそだろう。
「ありがとうございます」
「……もうお礼は結構ですから、ご自身のお仕事をなさったらどうですか?」
礼を言って、アデーレの仕事を褒めると、頬を染めてそっぽを向かれてしまった。
やれやれ、女性の気持ちは良く分からないな。
エイジは水車小屋の狭い一角に向かうと、そこが石切り場になっていた。
粉塵などが他のものに混ざらないため、水車小屋の内でも、ここだけが外ざらしで、他の場所とも壁で区切られていた。
そのためひどく寒い。
この石切り装置は、台座と鋸、そして刃の代わりとなる砂を注ぐ装置と、主に三つの機構で構成されている。
小屋の外に積まれていた大石を、中央が一直線に凹んだ台座に備える。
万力で固定し、弾み車の位置を整えると、鋸を動かした。
鋸は一定のペースで前後に動き続けている。
石切り用の鋸刃は、木を切る鋸と違い、表面はまったく真っ平らで、刃もついていない。
石を切る場合は、金属で切るというよりも、砂の摩擦で少しずつ削り取っていくといった方が、現象としては正しい。
鋸が規則正しく前後に動く度、摩擦部分から僅かに砂がこぼれ出てくる。
台座の砂受けが捉えると砂は回収され、再び上へと移動される。そして振動を利用して一定量が刃の部分に注がれる。
最後まで切り終わった鋸は凹みのおかげで中空で留まり、一定まで刃が落ちると、自然と装置が止まるようになっていた。
完全なオートメーション化だ。
その間にエイジは外に積まれている石の凸凹を、均一に削っていく。
石の表面を平らにするには、幾つかの段階を踏むと綺麗にしやすい。
そのための道具にもビシャン、タガネ、ハツリノミ、コヤスケといった様々なものがある。
基本的にはまず大きく均し、そこから刃の数が多い細かな整形に移る。
今回のメインはあくまで鋸のため、エイジが削るのは万力できっちりと固定できる程度に、おおまかな程度で済ませた。
切断された石材を再び目的の厚みになるように調整する。
出来上がった床材は、軽く目の細かなヤスリに掛け、表面を整える。
そうして長い時間をかけ、綺麗な床材が出来上がる。
この素材を作るほうが、実際に敷き詰めていくよりも遥かに長い時間が掛かってしまった。
石材は当然非常に重い。一気に運ぼうとすると、人力ではすぐ限界を迎えてしまう。
そのため、犬橇を使って何度か往復して、住居スペースに敷き詰める分を運びだした。
エイジが用意した床材を見て、フェルナンドが驚き呆れた。
「そりゃこんな仕事したら、警戒もされるだろう……どれだけ手間ひまかけてるんだよ」
「あ、あはは……。やるならとことんやらないと気が済まなくて」
「出た、完璧主義者の発言だ。……まあいいや、こっちも出来たんだぜ、見てくれよ」
そう言いながら、フェルナンドさんも仕事で妥協した姿を一度も見たことがない。
完璧にはならなくても、それを目指さざるをえない生き物。
そが職人という生き方だと思う。
フェルナンドが自分の仕事を報告する。
エイジとタニアの家は、奥行きはおおよそ六メートルほど。
それに対して幅は二十四、五メートルほどはある。
玄関に入ってすぐ右に壁があり、左手側が住居スペース。右手側が家畜部屋になる。
その壁の部分に、横開きの扉が備え付けられていた。
他が老朽化してきているため、新しく備え付けた扉だけが新しく、目立って見えた。
エイジは扉を開いたり閉めたりして、感触を確かめる。
スムーズな動きで、密閉性も問題ない。
「おおっ、仕事が速いですね」
「チンタラやってたら、お前さんの注文が多すぎて他に手がまわらないからな」
「それはそれは……じゃあ頼む予定だったもう一つの仕事は次の機会にしましょう」
「ぜひそうしてくれ」
フェルナンドがげんなりとした表情で言った。
まあ、仕方がないか。
本当ならば、ここから次は壁の張り替えを始めてもらおうと思っていたのだが、どうせならばフェルナンドが煉瓦工法を学び始めてからの方が都合が良いだろう。
「それじゃあ私はこの後床を張る必要がありますので」
「おう、そうだったな。まあ手伝わないけど、見ててあげよう。問題があったら指摘だけしてやる」
「助かります」
フェルナンドは石を削ったりこそしないが、床石を敷き詰める仕事は大工のものだ。
エイジは準備していた床材を持ち運ぶと、家の片隅に慎重に置いていく。
一つ、もう一つと並べていくと、微妙に隙間が出来る。
木槌で軽く隙間を詰め、それでも形が合わないときは軽くハツリノミで整形していく。
手際よく片づけていくエイジの仕事姿に、ぽつりとフェルナンドが評価を下した。
「……まったく、これで鍛冶師じゃなかったら僕の仕事を手伝ってもらったんだけどな」
「それは遠慮しておきますよ」
「嘘だよ。こんな次々新製品を考える奴、親方として使い辛いったらない。ぜったい嫌さ」
「残念」
まあ、エイジとしても鍛冶師の仕事を辞めるつもりは一切ないから、どうしようもなく無駄な想定ではあった。
多分、来世があったとして、生まれ変わっても自分は鍛冶師になりたがっているだろう。
「よし、出来た!」
「いい仕事ぶりだったと思うぞ。けっきょくほとんど口出しすることもなかったな」
「いえ、それでも見てくれているだけで気持ちが楽でした」
「お疲れ様」
作業を続け、床材を全体に敷き詰め終える。
白々とした御影石は頑丈そうで、その上を歩いてもビクともしない。
結局予備より多めに床石を作っていたため、かなりの枚数が余ってしまったが、きれいな石張りの床が出来た。
さあ、仕事は済んだ。用意は出来た。
あとは妻と息子を迎えにいこう!
珍しく心が高ぶっているのが分かった。
まだ本格的に動けないタニアを、犬橇で家の前まで運んだ。
肩と腰に手を回し、家の中へと運ぶ。
「すごいすごーい! すごく綺麗になってます」
タニアが家の中に入ってすぐ、大きな声を上げた。
表情は輝くばかりの笑顔を浮かべていて、そんな母親の姿を見ているからだろうか、リベルトもまた、キャッキャッと声を上げて喜んでいる。
「大変だったんじゃないですか?」
「まあ、少しだけ」
「でもこんな豪勢な家に住んでいいのかしら」
「そこは領主の一族でもあり、村長の孫が済む家ってことですから、あまりにみすぼらしい家だと、それはそれで問題でしょう?」
「……ふふ、そうですね。そういうことにしておきましょうか」
タニアが喜んでいる姿を見て、エイジの心がぽかぽかと暖かい物に包まれる。
静かで深い達成感があった。
それは大きな歓喜とは違う。じわじわと奥底から染み出すような喜びだった。
それが胸の奥から、全身に広がり、手足に力を与えてくれる。
ああ、そうだ。
自分の実力が認められたときや、村の幹部として権力を手に入れたときなど、別に大して嬉しくなかった。
それよりも、大切な家族であるタニアの笑顔を見られたとき、自分は一番心が満たされるのだ。
時間もかかったし、大量の石を集めるのには出費もかかったが、十分な見返りがあった。
「エイジさん……」
「ん……?」
「ありがとう。愛してますよ、エイジさん」
「……ふふっ。私もですよ、タニアさん」
「知ってます」
「奇遇ですね。私もです」
笑い合う。
これからも、家族は幸せに暮らせるように頑張ろうと思える一日だった。
今回ちょっと細切れ時間を見つけて更新できました。
また感想、評価お待ちしております。
よろしくお願いします。