五話 授乳問題
収穫祭を終えて、本格的な冬の季節がきた。
扉の外は薄っすらと雪が降り積もり、壁越しに冷気が押し寄せてくる。
施薬院は免疫力の低下した妊婦や産婦が集まっている。
薪を次々と焚いて、適切な暖かさを保っていた。
その日、いつも明るい笑顔を絶やさないタニアの表情が珍しく落ち込んでいた。
エイジはタニアの話を聞きながら、首を傾げた。
言っている内容が、よく分からなかったからだ。
「お乳が出ない、ですか?」
「はい……。最初はたくさん出たんですけど、この数日でどんどん出なくなってしまって」
「なんとまあ……」
エイジはタニアを見た。ぐするリベルトを抱いている。
相変わらず華奢な骨格だった。
だが、体格に比べ胸や尻といった女性にとって肉付きが必要なところには、しっかりと付いている。
豊満な二つの膨らみは、妊娠以前よりも更に大きくなっているように思えた。
この大きさを持ちながら母乳が出ないというのは、いったいどういうことだろうか、とエイジは思った。
だが、元々胸の大きさを左右するのが脂肪の量に対して、母乳量は乳腺の発達度合いによる。
だから、胸の大きさと母乳量には相関関係が見られないのだ。
そんな知識を持たないエイジは、疑問の感情そのままの視線をぶつけた。
タニアが身じろぎして、胸を腕で隠そうとしたが、細い腕は隠しきれていない。
タニアの目がエイジを非難していた。
「もうっ、ジロジロ見過ぎです!」
「いやあ、すみません。でもちょっと思ったんだけど……揉んだら治りませんかね?」
「牛じゃないんですから、そんな簡単に出るわけないじゃないですか!」
「うーん、そうか。そうかなあ……」
「エイジさんが触りたいだけじゃないんですか?」
「いやあ、違いますよ。純粋にタニアさんを心配しているんです」
真面目な表情でエイジも言ったのだが、どうだか、とタニアは信用した様子が微塵もない。
少々、普段のスキンシップが過激すぎたみたいだ。
効果はありそうなのだが、と思いながらも、エイジは話題を変える。
「薬師さんはなんと言っているんですか?」
「とりあえず麦の焙じてお茶にして飲め、って言われました。あとはエイジさんが来た時にまた教えるからって。でも、リベルトがお腹を空かすから、他の人にお乳を分けてもらったんですよ……」
タニアの眉が下がる。
たしかにタニアからすれば、自分の母乳を与えられないのは残念なことだろう。
また、いつもいつも誰かがすぐ助けてくれるわけでもない。
出産直後は授乳の間隔は短く、回数が多いのが特徴だ。
一時間から二時間に一度は母乳を与える必要があるため、母親は身も心も休まる隙がない。
タニアは皿に収められた乳白色の液体――ヤギ乳を布に浸すと、それをリベルトの口元にやる。
リベルトは布を口に含むと、吸い付いた。
湿り気がなくなったのを確かめると、再び布を浸し、口元へと往復させる。
ヤギの乳は昔から母乳の代用品としてよく用いられていた。
その栄養価は牛乳よりも高いくらいだ。
「これも薬師さんが教えてくれたんですけどね……」
「それで、その薬師さんは?」
「ちょっと村で体調を崩した人が出たみたいで、その人の容体を見に行ってます」
「そうですか……家はわかりますか?」
「ええ、クローズさんの家だと聞いています」
エイジは頭に地図を思い描いた。
エイジとタニアの家から更に南に下ったところにある。
村は畑を挟むから、家々の距離は一塊ごとに大きく離れるのが普通だ。
歩いてすぐに行ける場所ではないが、行き違うこともない。
「対策があるなら、少しでも早く聞きたいですね。ちょっと会ってきます」
「その……ごめんなさい」
「いえ、タニアさんの責任じゃないでしょう。自分の体が感情通りに動いてくれるなら、だれも病気になりませんからね。タニアさんがちゃんと母親としての務めを果たしたいって思いは、ちゃんと分かってますよ」
肩を落とすタニアを励ましながら、エイジは家を出た。
シエナ村の冬は、雪との戦いだ。
晴れた日であれば、行き来もまだしやすいが、島でも高所に位置するため、天気は移ろいやすい。
急に空が曇り始めたかと思うと、多量の雪が降ってくるということもままあった。
エイジは雪の積もった道を歩く。
多量に降り積もった雪は柔らかく、本来ならば一歩ごとに足が深く沈み込んでいただろう。
靴裏には毛皮が貼られていて、しかも若い枝を蒸して曲げれるように加工された”カンジキ”を履いていたため、地面をしっかり踏むことが出来る。
使われる毛皮の種類は、狐や狸、狼、鹿とさまざまだ。
すべてがマイクたち猟師が狩ってきた毛皮で、村の中で自給自足している。
エイジは苦労して、自分の家の前まで移動した。
今は雪に隠れているが、この交差点を左に曲がれば鍛冶場に、まっすぐ進めばクローズの家や、タル村に向かう。
クローズの家は、シエナ村であればどこでも見かける家だ。
そのため、例えば写真にとって並べた場合、外見だけで誰の家と判断するのは中々に難しい。
だが、築年数による老朽化や畑に植えられた果樹の種類、住人の性格による整理度合いなどによって、判別することは可能だろう。
「エイジ、こんな雪の中どこに行くんだい?」
「ジェーンさん……ちょっと薬師さんに用がありまして」
「ちょっと雪が収まるまで待ちなよ。温かい湯を出してあげるからさ」
ジェーンの言葉は魅力的だった。
寒い中を歩き続けて、全身が冷えきっている。
タニアが施薬院に入院しているため、エイジはいま一人暮らしを余儀なくされていた。
この村での自活の厳しさは、現代日本とは比較の仕様もない。
温かな湯を飲むと、おもわず全身が震えた。
寒さで固くなっていた全身が緩むような感じがする。
「そうかい、タニアがねえ。あの娘だけは大丈夫だと思ってたけど、分かんないもんだ」
「本当に私にも意外でして」
「それで、タニアの様態はどうなんだい?」
「え、いえ、ですからおっぱいが出ない――」
「そうじゃなくて、熱は出てるのかって聞いてるんだよ」
被せるようにして重ねてきた質問に、エイジは首を傾げる。
だが、ジェーンの表情が余計に深刻になったのを見て、エイジも自分が何か思い違いをしていたのではないか、と気付いた。
もしかしたら、自分が思っているよりも大変な事態なのではないだろうか。
「お乳が出ないようになると、ガッと熱が上がることがあるのさ」
「そんなことがあるんですか……」
「原因は知らないけどね」
「これは大変だ……やっぱり薬師さんに会いに行かないと」
「ああ、もう、急に出て行って……!」
エイジは居ても立ってもいられないおられず、礼を述べるとジェーンの家を出た。
風が出てきたが、雪は止んでいる。
急いで薬師に会いに行かなければならない。
エイジは道を急いだ。
幸いにして、薬師とはすれ違うこともなく、道の途中で出会うことが出来た。
薬師は元気いっぱいのおばさんだ。
地元民らしく、スキー板のようなものを履いていた。
移動速度は徒歩のエイジよりも遥かに早い。
今後この冬の暮らしに慣れようと思ったら、自分も練習したほうが良いかもしれない。
「あれ、あんたはタニアの」
「はい。どうも妻が世話になっています。なにか良い方法があると伺いまして」
「うん、それでわざわざ会いに来たのかい? まったく、待ってりゃ私から会いに行ったのに」
「じっと待ってられなくて」
「そうかい。いい嫁さん思いの旦那だね。よしよし、それじゃあやって貰う方法を教えるよ」
それから、薬師の授業が始まった。
本来はひとりひとり薬師がそれらの治療を施すのだが、今年は一気に妊婦が増え、その上冬場とあって病人も出てくるため手が回らないそうだった。
その一番の原因は、妊婦がそれぞれの家にいて、出産時だけで向いていたこれまでの勤務体系と違って、入院するという形になったことだろう。
「それでね、ちょっと問題ができたんだけど聞いてくれるかい?」
「問題ですか?」
「うん。単刀直入にいうと、施薬院から退院してほしい」
「な、どうしてですか!?」
「あれから、更に二人妊娠が発覚してね。さすがにブースを分けていても、入ってもらう人間に限りがあるだろう。それで、問題なさそうだったら出て欲しいんだ」
「ま、まだ自宅の清掃と改装が終わってません! す、少しだけ待てませんか?」
「どれぐらいで出来そうだい? 私も待てるなら待ってやりたいさ」
「今、仕事を減らしたら……一週間。少なくともそれぐらいは待ってください」
「分かったよ……無理を言ってすまないね」
薬師のおばさんは普段尊大な態度に見えるが、実のところ雑なだけだ。
その心根は優しく温かい。
またそうでなければ、病人を看護したり、薬を処方したり出来ないだろう。
健常な状態と違って、病気になるということはいろいろと危険で、汚いものなのだから。
まだまだ仕事が残っているという薬師と別れて、エイジは一人施薬院に戻っていた。
寒さで顔がひりつくように痛い。
だが、愛する妻が出迎えてくれるだけで、体はともかく、心は暖かく満たされた。
「ただいま」
「おかえりなさい。寒かったでしょう……会うことは出来ましたか?」
「ええ。いろいろと貴重な話を聞くことが出来ました」
「そうですか。じゃあ寒い中、外に出た甲斐はあったんですね。良かったです」
毛皮のコートを脱ぎ、手袋を外し、暖炉の火にあたる。
しばらくすると全身がそれなりに温もった。
エイジは手をタニアの額に載せた。
表に出ていたため、手袋に包まれていた手はまだ冷たかった。
「タニアさん、それで、体調はどうですか?」
「冷たいですよ、エイジさん」
「うん、熱はないみたいですね」
「ええ。大丈夫ですけど?」
「ジェーンさんに言われて初めて知ったんですが、お乳が出ないと高熱が出るようになることがあるそうなんです」
エイジの言葉に、タニアが驚き、顔色を失った。
熱が出るのは時に生死に関わる問題だけに、ショックが大きかったようだ。
「そ、そうなんですか?」
「でも大丈夫です。薬師さんはさすがに、いろいろな方法を教えてくれました」
「どうするんです?」
エイジはタニアに近寄ると、耳元で方法を伝えた。
いくつかある穏当なものにはフンフンと相槌を返していたが、やがて顔が赤くなり、
「ええっ、本当にそんなこともするんですか?」
と声を上げるような反応まで見せる始末だ。
エイジは仕方なく頷いた。
「タニアさんの気持ちも分かるので、まずは問題なさそうなものから始めましょう。それでダメなら……」
「だ、ダメなら?」
「その先を試すまでです」
エイジの答えにタニアが怯んだようだ。
がっくりと肩を下ろし、俯いた。
「どうか早めに解決しますように……」
エイジは施薬院に置かれた様々な薬の壷から、目当てのものを探した。
一つ一つの木蓋を取り、中身を確認するとしっかりと栓をする。
これらの薬はほとんどが大切に管理され、乾燥された状態を保っている。
収穫期だけではなく、それ以外の時にも使う必要性があるため、管理には気を配られていた。
エイジがそれから目当てのものを見つけたのは、十二個目の壷を覗いたときだ。
乾燥し萎れているが、黄色く細い、無数の花弁は春になればよく見られるものだ。
名を西洋タンポポという。
日本では固有種があったが、今では外来種の方の西洋タンポポもよく見られている。
目的の花がエイジの記憶にもよくある花だったのは、幸いだった。
「まずはタンポポ茶から試しましょうか」
「わ、分かりました」
タンポポ茶には母乳を促す効果がある。
現代でもタンポポ茶は母乳の少ない家では飲まれることが多い。
その効果を一体どのようにして知ったのかと言えば、薬師は平然と、昔のご先祖様がいろいろな状況で口にし、その効果を口伝として伝えていると答えた。
たしかにこの時代であれば、マウスに投与することも出来ないだろうから、実際に己や患者で試すしかないわけだが、やはりこの時代の医療を完全に信用するのは難しいな、とエイジは思った。
タニアがタンポポ茶を口に含む。
そのままだと飲みづらいだろうと、口休めに干しぶどうを用意していた。
「どうでしょうか」
「……飲んでそんなにすぐに効果が出るんですか?」
「さあ……。まあ、待っているのもなんですし、次に行きましょうか」
「分かりました」
次の段階が何かを分かっていたタニアは、反対することなく素直に頷いた。
そして、タニアがベッドで俯せになる。
手を頭の上で組み、顔は右を向けて、安らかな顔で目を閉じた。
そしてエイジはその横に立つと、タニアの肩を摘んだ。
「ん……んっ……」
「うわっ、寝てる状態でも分かるぐらい凝ってますよ」
「黙っててごめんなさい。じつは最近すごく肩が重かったんです」
「……もう、どうして言ってくれなかったんですか」
以前は毎日のようにお互いがマッサージのやり合いをしていたのだ。
妊娠が分かってからは、万が一流産などを引き起こしてはいけないと止めていたが、それも出産後ならば問題ないはずだ。
こんな状態ならば一言頼ってほしかった。
「だって、エイジさん今一人で暮らしていて、大変だろうと思って……」
「それは……」
鍛冶師としての仕事や、村の発展の会議などを行いながら、自分自身の生活にまで手を抜かないのは、並大抵の苦労ではない。
タニアが長年一人で暮らしていたというから、その苦労は身に沁みて分かっているだろう。
そのように言い出されたら、これ以上責めるわけにも行かないじゃないか。
エイジは溜息を吐くと、これ以上の追求を諦めた。
「良いですか、身の回りの雑務ならば弟子たちに頼むという手もあるんですから。タニアさんの身に何かあったら、それが一番悲しいし、なによりリベルトが悲しむんですからね」
「……はい」
かすかな返事が聞こえ、エイジが不審に思うと、タニアの目がとろりと溶けていた。
体がほぐれ、隠れていた疲れが表に出てきたのだろう。
生まれて間もない赤子を相手にしていたら、まとまった睡眠を取ることは難しい。
エイジはうつらうつらとし始めたタニアを前に、ゆっくりとマッサージを続けていく。
首から肩、肩胛骨の間、どれも固いしこりが出来ていた。
じっくりと揉みほぐしながら、腰へと降りていく。
「……おやすみなさい」
静かな寝息を立て始めたタニアに声をかけて、エイジは黙々と手を動かし続けた。
授乳が出来るかどうか、効果を確かめるのは明日以降になりそうだった。
次の日、施薬院に入ると、タニアが迎えてくれる。
だが、その表情を見てしまうと、どうやらまだうまく行かなかったことが分かった。
まあ、仕方がない。
最初から全て上手くいくとは限らないのだ。
出来るまで試行錯誤を続ければ良い。
もともとはちゃんと出ていたんだから、また再びお乳を与えれるようになるだろう。
「じゃあ、次の方法を試しましょうか」
「次はなんでしたっけ……」
「ええ、直接胸を揉んで、出やすくする方法ですね」
「……エイジさんが揉みたいだけじゃあ?」
「違いますよ! 薬師さんが言ってたんです! お乳を温めて、揉んであげると出やすくなるって!」
まったく、これだけ言っても信じてもらえないんだからなあ。
日頃の行いって大事だな。
やることは分かっていたので、部屋の乾燥防止のために沸かしてあったお湯に布を浸し、軽く絞る。
それをタニアの胸に当てた。
「ん……」
「あ、熱かったですか?」
「いえ、大丈夫ですよ。じんわり温かくって気持ちいいです……」
やがて、熱を失いつつある布を取り外す。
ベッドに上がると、タニアの後ろに座って、服の上からおっぱいを揉み始めた。
どうも乳腺炎になりかかっているのか、普段の柔らかさはどこへいったのか。
布越しでも分かるほどに固く張り詰めている。
小指から人差し指へと指を曲げていき、根本から絞り上げるようにして揉み込んでいく。
繰り返すと、タニアがたまらず声を上げた。
「エ、エイジさん、手つきが……慣れ過ぎじゃないですかあっ!?」
「何を言ってるんですか。牛の乳搾りの手伝いをどれだけやったと思ってるんです。それと要領は一緒ですよ」
「だ、だからって……んっ」
「それよりもどうですか、出そうな感覚はあります?」
「は……はい……」
震えるような小声で、タニアが恥じらう。
顔を伏せているが、首から耳が真っ赤に紅潮していた。
かわいい。
とはいえ、これでダメだったら、薬師に教えてもらった方法はさらに過激になってしまう。
最終手段はリベルトに頑張って吸ってもらうが、それでもだめならエイジが吸うしかなくなる。
エイジも真剣だった。
しばらく胸を揉み続けていると、タニアが声を漏らした。
「あ……」
「おっ、どうですか?」
「で、出ました……!」
「ふう……良かった……」
「エイジさんのお陰ですね」
「いえ、全部薬師さんの指示どおりに動いただけですからね」
「早速リベルトに飲ませてあげます」
タニアが立ち上がり、リベルトを抱きかかえると、服をはだけて乳首を吸わす。
リベルトは元気よく吸い付いたが、すぐに口を放してしまう。
「あれ……お腹空いてないんですかね?」
「いえ、多分違います……」
「なんですか?」
「こういう表現はどうかと思うんですが、長く溜まっていたおっぱいの鮮度が悪くなって、美味しくないんだと思いますよ」
「そ、そんなあ……」
情けない表情を浮かべたタニアを宥める。
ようやく我が子に母乳をあげれるようになったと思ったら、そっぽを向かれたのだ。
その心痛は察して余りある。
だからエイジは優しく言った。
「途中まで搾って、途中からあげましょう。私も手伝いますから」
「そう言って、エイジさんは触りたいだけなんじゃないですか?」
目の前の問題が解決した以上、エイジも先ほどまでの心配はしていない。
溜まっていた母乳が出始めると、胸はどんどん柔らかくなって、水風船よりも柔らかくなった。
パンを捏ねるように、というが、それよりもはるかに柔軟で、あるいはつきたての餅といっても良いかもしれない。
エイジは入念に揉みしだいた。
もう授乳のことは半分頭になかった。
母乳が溢れる恐れがあるから、服をはだけて、器に搾った乳を集めた。
タニアの言葉通りだった。
でもちょっとだけ、理不尽だと思った。
ともあれそれから、タニアはマッサージを受けたり、食事に気をつけたりと、体調に気を配るようになったため、同じような問題は起こらなくなった。
これはこれで貴重な体験だったな、とエイジは思った。
予告を破って申し訳ないです。
今回、エロを目的じゃなく、真面目な問題として捉えて書いていたのですが、母乳について調べれば調べるほど、自分の思考が何だかおかしくなっていくのを感じました。