世界の戦慄
[Jan-25.Wed/18:10]
「ハッ、ハッ、ハァッ!」
灰色銀狼は心臓が破けんばかりに全力疾走を貫く。躓く事も立ち止まる事も赦されない、命を懸けた鬼ごっこを懸命に逃げて逃げて逃げ延びようとする。
「クッ、ソがぁ……」
背後を振り向く事も出来ず、そんな事をする暇があれば一分一秒、一メートルでも一センチでも先に進まなくてはいけない。
何より、背後からは羽虫程度なら気死しそうな程の殺気を漂わせて、強大凶悪な『存在』が追走してくるのが分かる。
だが、このまま逃げ回るっていられるのも時間の問題だ。何せ相手は街中だろうと遠慮なく魔術をふっかけてくるような奴だ。無関係の人間が巻き添えを喰うのは彼の本意ではない。
「だぁあ、チクショウ!結局やり合うしかないのかよ!」
勝算は限りなく低いが、それでも追われる身である彼としてはいつかこういう日が来る事を予想していなかった訳ではない。それがたまたま今となっただけだ。
ザリリ!と灰色銀狼はスニーカーを滑らせて急ブレーキをかけ、背後を振り返る。
そこには、悠々と闊歩する、最強クラスの魔術師の姿があった。
「もはや諦めしけりか?」
ダラリと垂れる長い袖を差し出したまま、世界で一〇本の指に入ろう魔術師――極彩色が告げる。
「あぁ……アンタが相手なら、どこに逃げても無駄だろうからな」
「良し良し。その心意気に免じて、余はこれを使わずに相手しょうぞ」
淡々と告げる極彩色は、右手の長い袖を付けていたボタンを外し、袖を取り外した。どうやら脱着可能らしい。
普通の式服に戻った黒いローブ。長い袖はパレオの如く腰に巻き、袖のボタンを接続部にはめる。
「奥の手は使わない、ってか?」
灰色銀狼が訊ねる。
「下賤な魔物相手に使うには惜しい。余を侮るなかれ」
そう答えた極彩色は、ポケットから何かを取り出した。それは、よく学校で教師が使っている様な折り畳み式のステッキだった。
シャキィン!と極彩色が腕を振るうと、ステッキが引き伸ばされる。
「おいおい。魔法のステッキを振り回して魔女っ娘ごっこをやるにゃ、ちぃと年齢が高すぎんじゃねぇのか?」
ほんの一瞬だけ眉をピクリと動かした極彩色だが、まるで聞こえていない様に呟く。
「先端に<太陽>の象徴たる金、の代用品なる金メッキによる球体の装着。ステンレスステッキの柄を木目模様に装飾せしめん事で『樫の杖』を司らん。……この杖の特性、しかと理解したか?」
「……ステッキの先端に付いている金メッキの球体、すなわち太陽は火を司る天使ミカエルの象徴。または『純粋性』と言う意味から魔術の濃度を高める働き。樫は神官の持つ杖を表し、それと同時にあの『偉大な魔術師』とまで呼ばれたマーリンを表す……ってトコか?」
「左様。良し良し、汝は現代魔術を良く知りし者の様だ。殺すには惜しし」
「だったら見逃せよ」
「断る」
一秒の間もあけず、間髪入れずに即答する極彩色。灰色銀狼は泣きそうだ(もちろん嘘泣き)。
「……さて。話は仕舞なりて。ワルプルギスの夜を存分に踊れ」
極彩色は左手に持ったステッキを、手首を中心にクルクルと回す。すると金メッキの球体の軌跡が線を描き、見事な円形が中空に浮かび上がる。
「Ellylldan(鬼火)」
呟きは、《ボシュシュ》というか弱い炎の音にかき消された。
円から、空間を飛び越えて飛び出してきたのは、ユラリユラリと揺れる火の玉だった。エヒリヒダンと呼ばれる、イギリスのウェールズでは知名度の高い悪霊である。別名ウィル・オー・ザ・ウィプス。
それらが計八体、灰色銀狼を囲む。
「……そうか。アンタの名前、極彩色の由来はこれだったな」
色彩は赤。術式は魔法陣を使った儀式魔術。
用途は、魔界との連結を利用した召喚術。
極彩色は無言のまま杖を前に突き出し、クンッと上下する。それを合図にした様に、エヒリヒダンの群れが勢いをなして襲いかかる。
「……仕方がない。やってやるよチクショウが。それでも勝てる気はしないがな」
ため息を吐き、灰色銀狼は人差し指と中指を立て、口元に当て、呟いた。
「甲賀下忍、時雨沢 匠。参る」
次の瞬間、灰色銀狼の身体が虚空にかき消え、《ジュバッ》と風を裂く音を響かせながら、極彩色の背後に現れた。どこに隠し持っていたのか、両手の指の間に計八本の苦無を挟んでいる。
「遅い」
背後を完璧に捉えた灰色銀狼は、一閃。四本の苦無は真っ直ぐに極彩色の身体に飛来し、突き刺さり、貫いた。
(分身!?いや、幻影か……!)
手応えのなさに灰色銀狼が驚愕していると、極彩色の身体が崩れ、エヒリヒダンの群と化して灰色銀狼に襲いかかる。
「甲賀忍法、影分身の術」
フォン、と灰色銀狼の身体が一〇体に増えた。灰色銀狼の分身体がエヒリヒダンの群を拳の風圧でかき消していく。
「ほう。其が東洋の神秘たる『Series der spiritus(分身の術)』とやらか」
ズルズルと、灰色銀狼より数メートル離れた真っ黒な宵影から生える様に出現した極彩色が呟く。『影』という魔術要素との空間を連結した高位魔術『空間開通』だ。
一〇人の灰色銀狼は同時に舌打ちしながらも、その内の三体が極彩色に襲いかかる。
「氣の密度は低けれど、即座にそれだけの分身を作れるとはいとおかし。素質は多分にありけり。ますます殺すに惜しし者なり」
迫り来る灰色銀狼の分身に焦る様子もなく、極彩色は手に持った杖を振るう。残されたエヒリヒダンが灰色銀狼から守る様に進路を塞ぎ、突如として爆発した。まるで、エヒリヒダン単体が爆弾だと言わんばかりに。
「さて。余はまだ本気を出してはおらぬが、汝も同じよな?何故に『変態』せぬ?」
エヒリヒダンの群をかいくぐった残り七体の灰色銀狼が極彩色に襲いかかる。焦る様子も見せずに、極彩色は淡々と杖を前に突き出し、先程同様にクルリと手首を回して円を描き、呟く。
「本性を誰かに見られる事が心配か?確かに余は辺りに『空間遮断』を施したらん。……化け物風情が、一介の人間気取りか?」
「黙れ!」
「感情を乱すなかれ。隙が生まれるぞ」
光の線で描かれた円は空中に浮かんだまま、空間を通じて円の向こう側から何かが飛び出てきた。
『グルルルァァア!』
唸りをあげて空間の穴から飛び出してきたのは、黒く小さなムク犬の群だ。
「チッ、ダンディドッグか!」
マイナーだが、イギリスのコーンウォールにThe Devil's Dandy Dogという民話がある。火を吐くムク犬の群を引き連れる悪魔が、夜中の荒野で人を八つ裂きにするという話だ。
だがこのダンディドックにも弱点はある。聖書の祈りを唱える者には近付けないというものだ。子供の躾として行うには少々残酷な民話だが、その為のストッパーも付属しているという訳だ。
しかし、聖書を一切読んでいない灰色銀狼としては、このムク犬の群から逃れるには、物理的に力技で殺していかねばならない。
「悪趣味だな、アンタ」
「効率的と言うべし」
灰色銀狼が言う『悪趣味』というのは、そのまま言葉通りの意味だ。
ダンディドッグが灰色銀狼の分身体を四体、噛み殺す。ボシュウとペットボトルの炭酸が抜ける様な音と共に、分身は虚空にかき消された。
「チッ!」
前方からは四匹のダンディドッグ、後方からは六匹のエヒリヒダン。対する灰色銀狼は本体と分身二体の計三体しかいない。
(二体ぐらいなら、いけるか……)
心中でそう呟くと、灰色銀狼は分身に給与する“氣”の密度を高めた。
「ほう。よもや其程の密度の影分身を扱えるとは。見事よの」
皮肉なしに、純粋に感嘆する極彩色は、しかしそれでも焦った様子はない。
それは、手加減していても勝てるという確信から生まれるものか、或いは極彩色という切り札が存在するという余裕から生まれるものか。灰色銀狼には判断がつかなかったし、つけたいとは欠片程も思わない。
「くたばれ!」
三人の灰色銀狼が同時に飛びかかる。背後からのエヒリヒダンは追いつけていない。
前方のダンディドッグには苦無を放って眉間に突き刺す事で全滅させた。残る障害はどこにもない。
「世界で十の指に入らん魔術師を相手に迂闊に飛び込もうとは……愚かなり灰色銀狼」
極彩色は薄く目を開き、灰色銀狼を見据えて前に駆け出す。
「高密度なりし分身を生み出した事は褒めて遣わす。……が、さりしも汝は余には勝てん」
ダン、と。極彩色は地面を力強く踏みつけ、その反動で右に旋回。三体の内の一体である灰色銀狼の頭を掴み、地面に打ちつけた。
「くがッ……」
「余が本体を見極められないと、よもや本気で思うてはおらんだろうな?」
「何、だと……!」
「魔力……いや、汝の言い方では『氣』か。本体から供給している限り、余は汝を逃す事は有り得ん」
「ッ!?」
しまった、と叫ぶまでもなく、極彩色の打ち下ろしの拳が灰色銀狼の頬に突き刺さる。ズゴスッ、という鈍い音を立てて地面に叩きつけられ、脳が揺さぶられて視界が歪む。いわゆる脳震盪だ。
背後から灰色銀狼の分身二体が迫り来るが、ようやく追いついたエヒリヒダンが立ちふさがり、立ち止まる。
「……手品師が種明かしをせぬ様に、魔術師は己の手の内を明かしたりはせぬが……このまま死に逝くのは偲びない。最後に良い事を教えてやろうぞ。
召喚師に限らず、使役魔術を使う魔術師は必ず『異界卸し(キャンセラー・シェム)』と呼ばれし術を身に付ける。これは使役魔術によりて喚び出されし魔物等が暴走した際に、強制的に送還出来る様する為よ。勿論、余も例外ではあらず」
スッ、と。極彩色は右手で灰色銀狼の頭を押さえたまま、左手を持ち上げ、掌底の様に構える。
「真に其には、少々裏技が在ってな。応用次第にて其な事も出来よう」
呟くと同時に、左手を横薙ぎに払う。《パシンッ》と灰色銀狼の頬を叩いた瞬間、分身二体はまるで風の様に不意に消えた。
「なっ!?テメッ、何を……!?」
「『異界卸し(キャンセラー・シェム)』。初歩的な技術であるが、初めに歩む技術とは単純、故に応用が幅広く利かんたる事。
……さて。そろそろ死ぬ覚悟は出来たか?」
異界卸し(キャンセラー・シェム)によって分身は消される。周囲にはエヒリヒダンの包囲網。更に極彩色が頭を押さえ、且つ脳震盪が未だに抜けていない現状。
灰色銀狼に残された手はたった一つしか存在しなかった。
そう。たった一つだけ、生き残るすべが存在していた。
「灰色銀狼。汝の二つ名を冠する力、とくと余に見せつけよ」
勝利を確信した捕食者の様に、口の端を歪めて嗤う極彩色。まるで全ての手を封じて完勝してやると言わんばかりに。
――ザワッ。
灰色銀狼の双眸が、茶から金へと変色していく。さながらハスキー犬種の様に、閑静に獰猛に。
粟立つ肌。ミシミシと筋肉の軋む音が夕暮れを過ぎて宵と成り果てた薄暗闇に、黄昏る様に響いていく。
「さぁ!余に見せてみろ灰色銀狼!ローマの主の名の下に、汝を滅ぼさん!」
異教徒は全て異端と見なす様な、反異端思想のローマ十字教。その生粋の信奉者たる極彩色が悦びに満ちた笑みを浮かべた瞬間、
「お止めなさい」
バヒュン!
空気を裂く様に激しい音を奏で、人の頭程もある巨大な氷柱が極彩色に飛来した。それは《ドムッ》と極彩色の身体に突き刺さり、あまつさえ貫通して通り抜けて仕舞った。さらに次々と飛来する氷柱は周囲のエヒリヒダンを貫き消していく。
遠くの地面に突き刺さった氷柱の中を凝視してみると、乱雑に破った大学ノートに、ボールペンで何かの記号らしき物が描かれていた。
「これは……ルーン魔術?」
突き抜けた氷柱の運動エネルギーにより、慣性の法則に従って極彩色は暴風に煽られた様に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。灰色銀狼が呆気に取られていると、ジャリ、と街灯の陰から小さな足音が聞こえた。
「妙な物音が聞こえたから来てみれば……まさか、噂に名高い極彩色とは。お会い出来て光栄ですよ」
冷淡な声に、ギクリと背筋を震わせる。
知っている。灰色銀狼は、この声の主を、知っている。
彼が通う私立中学校では一人の男子生徒と共に神童と冠する(尤も、その男子生徒は素行不良のせいで教師陣には忌み嫌われているのだが)程の超天才児。ややひねくれてはいるが、とにかく優秀な事に間違いはない。
灰色銀狼は双眸の色を元に戻しながら上体を起こす。その間もずっと脳内では困惑していた。
(いやしかし……だがしかしッ!……よもや、まさか、もしや、そんな……)
振り返りたい、しかし振り返りたくない。二つの矛盾した思考により、全身が凍り付いた様に動かない中、足音はゆっくりと近付いてくる。
「まぁ、魔物として生まれたからには、一度は十字教に狙われるのも当然の事。落ち込む事はありません。『私』から見ても貴方は上手く身を隠せていましたよ」
「……」
「まぁ、初めて襲ってきた魔術師がローマ十字教というのは災難ではありますが」
声、口調、物腰。全てが記憶の神童に当てはまる。灰色銀狼は恐る恐る振り返り、そして振り返った事を後悔した。
そこにいたのは、身長は一六〇半ば、膝まである黒い長髪の少女。白いヘアバンドがよく映えている。着ている服は同じ私立中学の女子用ボレロ、灰色を基調としたプリーツスカートは見慣れている。
「……桜井、美里」
そこにいたのは誰あろう、桜井 美里だった。
「『元』ロシア十字教魔術師・桜井 美里。お祈りは済みましたか、極彩色?」




