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封魔の城塞アルデガン

『二百と十のその昔』 ~アルデガン前史~(外伝6)

<第1章 煙る山>


 夜風に乗って薄墨のように流れる噴煙に煙る星空の下、背筋が凍るような異様な絶叫がきれぎれに響いていた。

 大陸の東端、大国イーリアの真北に位置する火山のふもとで、鎌のような月の朧ろな光を浴びた二人の女の姿をしたものたちが果てしなく争っているのだった。

 互いの乱れた髪を鷲掴みした女たちは言葉の態をなさぬことをただ喚きあっていた。緑の瞳は恐ろしい渇きを意味する血の色に染まり始めていたが、それさえ覆わんばかりに渦巻いているのはまぎれもない狂気の色だった。少し離れた所に立つ二つの人影にさえ目もくれず、堕ちた女たちは互いの体にところかまわず牙をたて、鋭い爪で不死身の肉体を無意味に引きむしり続けているのだった。


 あまりの凄惨な光景に、案内役をつとめる金髪の若者は嫌悪に顔を歪めた。だが彼を背後に庇う老いた僧はその光景の異常さを見て取っていた。白い長衣を長身に纏った高僧のまなざしは厳しかったが、灰色の瞳の奥底には沈痛な色が宿っていた。

「……多くの吸血鬼を見てきたつもりだが、これほど深い狂気に陥った者は初めてだ」

 そのつぶやきに哀れみを聞き取った若者アレスが驚きの表情を浮かべた瞬間、僧侶は白く輝き始めた錫杖を高くかかげた。


「あさましくも牙持つ身に堕ちた者よ、神の恩寵を失った者よ。なにゆえかくも争うか知らぬが、堕ちたその身と狂気の煉獄から解かれるは今ぞ!」

 その呼びかけさえも無視して争う女たちを前に、高僧は破邪の呪文の詠唱を始めた。驚くべき速さで紡がれた呪文が結ばれようとしたとき、突如咳き込んだ老僧は上背のある身を大きく折り、片手で口を覆った。

「アールダ様!」


 アレスの叫びを聞きつけたのか、それまで彼らを無視していた女たちが一斉に振り向いた。その目が燠火を掻きたてたような赤光を放ったとたん、ずたずたの女たちは伸ばした爪を振りかざし先を争って跳びかかってきた。

 のけぞったアレスを左右からの爪が穿とうとした瞬間、魔性の影の間に錫杖が白い稲妻のように突き上げられ、女吸血鬼たちは瞬時に消し飛んだ。我が身をかすめた力の巨大な余波と耳をつんざく凄まじい断末魔に気が遠くなりかけた若者は、大きく欠けた月の下、薄れた光をきれぎれに放つ錫杖にすがり片膝を落として荒い息をつく喀血した僧侶の背中を、魂の抜けたような面持ちで見つめるばかりだった。





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<第2章 峡谷の村>


「では、どうしてもこの村を捨てろとおっしゃるのか」

「そんな……」

 人払いされた部屋に横たわるユーラの村の長ウルスが呻いた。無理に身を起こそうとする父を止めたアレスも言葉を続けることができなかった。そんな父と息子に、大柄な僧侶の苦渋に満ちた声が告げた。


「この一月の間、幾たびも気配を感じた。女たちをあんなふうにした親玉はまだこの地にいるはずだ。しかしそやつは正面からの闘いを避けてどうやら逃げ回っておる。逃げる吸血鬼を追い詰めるには手練れ同士の連携が欠かせぬ。だが私には手勢もなければ時間もない。それだけの力を持つ者は大陸全土に巡らせた結界を私がいない間維持するために一人も欠かせぬ。そして私はなんとしても命あるうちにノールドに赴き、結界の力でかの地の洞窟に追い込んだ魔物を滅する最後の使命を果たさねばならぬのだ」

「アールダ様、やはりあなたは……」


 巌のようだった面立ちに隠しようのない死病の翳りを浮かべた破邪の高僧の姿に、アレスは声を詰まらせた。病に伏せる村長も起こしかけていた上体を再び力なく横たえた。そんな彼らに、この一月の間にも明らかに頬の削げたアールダは言葉を継いだ。

「女たちが洞窟の中に潜み地上には稀にしか姿を現さなかったというなら、彼らを呪縛していたものも洞窟にいるはずだ。そして確かに洞窟には気配が感じられた。だが常闇に閉ざされた洞窟で逃げ隠れされては身一つではとても追いきれぬ。人から変じたがゆえに結界の影響を受けず、襲った相手を次々と転化させる吸血鬼はもとより容易ならざる相手だ。だからこそ私も吸血鬼どもを大陸から一掃すべく旅してきたのであったが、もはやこれ以上の時間は割けぬ。しかもこの地に潜む親玉は決してただの吸血鬼にとどまる輩ではない」


 色を失って見上げる父子に、数多の魔物と対峙し滅殺してきた高僧は告げた。

「吸血鬼に襲われた者はいったん死んで蘇える。その際生きていたときの記憶は一切失われるのが通常だ。だから吸血鬼が狂気に陥ることは普通ならありえない。一気に殺されたのではなく、恐ろしい状況に置かれ生き身のままじわじわと転化した者だけが、人としての心を保つがゆえにその心を狂わせるのだ。そして獲物をかくも嬲り苛むその振る舞いも吸血鬼としての常態ではなく、もともと邪悪な心根の者が生き身のまま身を堕とした場合にのみ見せるもの……」


 言葉が途切れ、アールダは咳き込んだ。思わず立ち上がろうとしたアレスを、しかし白衣の高僧は片手で制した。

「……そやつは女たちの目を通して知ったはずだ。私のことのみならず、アレス、そなたのことも。このまま私がいなくなれば、この村に手出しをするのではと、皆に仇をなしはせぬかと案じるばかり」

 表情をこわばらせたアレスに目をやると、アールダは再び告げた。

「この村の安全は保証できぬ。できれば私とともにここを出て、新たな土地に移り住むべきだと思う。私と行くならそやつもまず手出しはするまい。もし万一姿を現すならば、そこで討ち果たすこともできよう」


「無理ですじゃ……それは」

 村長ウルスが呻いた。

「この地は遠い遠い昔、東の道果つるとき約束の地を見出さんとのお告げにすがり大陸を渡った先祖たちがやっと見出した土地。苦難の果てにようやくたどりついた安住の地だったと伝えられ、以来我らは川下の黒髪の民たちとの水源をめぐる争いさえも退けこの地を守り続けてきたのですじゃ。皆を説得するのは容易ではありませぬ」

「川下の民とは、イルの村のことか? かなり大きな村と見えたが」

 アールダの言葉にウルスはうなづいた。


「火の山のふもとの岩ばかりだったこの地に、我らの先祖は清き水源を見出しそこから川を引くことでこの峡谷に村を開いたのですじゃ。だが我らが川を引いたことで、下流に流れ着いた黒髪の民が皮肉にも村を起こす事態を招き、以来我らとかの者どもとの間にしばしば争いが起きるようになりましたのじゃ。かの者どもはここより開けた土地に村を開いたこともあって次第に数を増やし、厚顔にもそれだけ多くの水が要るなどと申して我らを時には恫喝し、攻め入ってきたことさえ一度ではありませなんだ。この地を離れるならば間近に頼れる場所はかの村しかありませぬが、そんなことをすれば我が民はたちまち併呑され、奴隷同然の身に落とされるのは目に見えております。その先に行こうにもかの村を通るとなれば、大勢で行っては攻めてきたと見なされ無事には通れますまい。そもそもかの黒髪のものどもに弱みを握られたくないばかりに、我らは吸血鬼に脅かされていることすら隠さねばならなかった次第なのですじゃ」

「あの村までは吸血鬼の足ならぎりぎりで行動範囲になるはず。決して安全とは言い切れぬ。人間同士で争っている場合ではないのだが……」


 床に目を落としつぶやく退魔の高僧の声の苦い響きにアレスは驚いた。それはほとんど無力に打ちひしがれた者の声とさえいえそうなものだったから。

 死病に取り憑かれ衰えを隠しきれぬ姿とはいえ、目の前にいる長身の僧侶こそはこの大陸に跋扈していた数多の魔物を生涯かけて北の地に追いつめ、天地開闢以来の長きに渡り人間を苦しめてきた仇敵たちをまさに一掃しようとしている英雄のはずだった。現にアレスも、あらゆる魔物の中で最も滅ぼすのが困難だという吸血鬼をアールダが瞬時に浄化するのを見た。凄まじい力の迸りだった。それを真近に感じただけでアレスは意識が遠のいたほどだった。

 だがアールダの声には、そんな英雄にふさわしいはずの勝利の自信に裏付けられた力強さが欠けていた。そこには魔物の跳梁になすすべもなかった自分たちを捉えていたあの無力感、力及ばぬ運命への諦念めいた思いに似たものまで漂っていると、若者にはなぜか思えてならなかった。





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<第3章 別れの丘>


 旅立ちの朝、村長の息子アレスはアールダを乗せた馬の手綱を引き村境の丘の上へと案内した。この丘を下りゆけば、細い道は荒野に広がるイルの村の西側を掠めて大きく曲がり、西へ向かう街道へと旅する者を導く。高みからそのことを確かめた二人は、どちらからともなく来た道を振り返った。

 抜けるように青い空の下、緑鮮やかな峡谷に抱かれた村の中央を銀色の川が流れていた。その美しくも平和な光景は、隣にいる老人の悩ましい表情をいっそう際立たせるように若者には思えてならなかった。そんな思いを知ってか知らずか、やつれた高僧はしばし谷間の村を見下ろしていたが、やがて背を向けようとしたとき、ついに迷いを振り切ったアレスはあの夜以来の疑問を口にした。


「アールダ様、あなたはいかなる魔物も討伐してきた英雄です。なのに、あなたには深い憂いが感じられます。なぜなのです? なにをかくも憂えておられるのです?」

「私とて討てなかった相手がなかったわけではない。大陸の西の果て、広大な魔の森に棲む闇姫にまみえながら、私は森の守護の魔力を破ることができなかった」

 答えたアールダが、若者の顔をふと見つめた。


「そういえば、かの者はそなたたちユーラの民とよく似た金色の髪と緑の瞳をしておった。そなたたちの先祖は遠くからこの地へ渡ってきたということであったが、よもやかの姫とのゆかりなど伝えられてはおらぬか?」

 アレスはかぶりをふった。アールダはそうかとつぶやいた。

「古えの言葉の意味こそ判じられなかったが、懊悩の色は明らかだった。かの者もまた心を残す者であったのだろう」

「それも不思議に思えるのです。あなたは魔物たちに心を寄せておられるように見えます。少しばかり、その」

「度を過ぎていると思えるほどに、か?」


 口ごもる若者にそう答えると、アールダは再び谷間の村に目を落とした。だがそのまなざしが村を見ているのではないことは、アレスの目にも明らかだった。

「私も初めはこうではなかった。人間と魔物は異質な存在だと、人に害をなすから彼らは魔物なのだと思っていたものだった」

「……違う、とおっしゃるのですか?」


 答えはすぐには返ってこなかった。深く落ち窪んだ眼窩の下、内なる光景を重ねているらしいやつれた高僧の灰色の瞳がどんなものを見ているのかと、若者は訝るばかりだった。

「多くの魔物と対峙すればするほど、そして人間たちの振舞いを重ね合わせるほど、さほど単純なことではないとの思いが深まるばかりだ。確かに私は多くの魔物を倒した。しかしそれで問題がいつも解決できたわけではない。いや」

 老いた声に、苦渋が滲んだ。

「山に棲みついていた竜一匹を退治したばかりに、その地を巡る領土争いに火が付き国一つが滅んだこともあった。人間は人間にとって最悪の魔物ともなりうる存在だ。魔物どもは結局のところ己が身ひとつを養うために人間を襲うにすぎぬが、人間の行いはときにそのような域をはるかに超える。吸血鬼とはそんな人間の姿の裏返しなのかとさえ思えるほどに。そして人間に対して力を振るうことを禁じる教えに身を置く私は、魔物としての人間にはなんらなすすべがなかった。私は己が力の使い道を誤ったのか。殺生を重ねてきた果てになにも成しえなかったのかとも」


 昂ぶる思いを押さえつけるかのように、アールダは言葉を切り瞑目した。再びその目が眼下の村に向けられたとき、アレスはそこに無念の色を認めた。

「それでも救える者が一人でもあるならこの身一つに数多の罪を負い滅ぶ覚悟だったはず。なんとしても我が命の尽きる前にこの大陸から人間に対する災いを除くが使命。その思いで私は各地に残ってしまった吸血鬼どもを事前に討つべく、大陸全土を旅してきたのであった。されど西の魔の森のみならず、東のこの地でも禍根を断てずに去らねばならぬとは。しかも闇姫にはその心ゆえの懊悩が感じられたが、姿さえ見せぬこやつには本性に根ざした邪悪さや狡猾ささえうかがえるものを……」

 馬上の白衣の老僧の言葉は、すでにアレスに向けたものというより独白に近いものだった。その限られた言葉のうちに、しかし若者はアールダの歩みを垣間見る思いがした。言外にうかがえるその歩みが己が力への懊悩に彩られていることを直感した。そのあまりにも強大な力は持ち主に尽きぬ煩悶をもたらし続けてきたのだと。そして自分のために力を振るう者であれば無縁だったに違いない多くの困難や、ときには挫折さえも味わい続けてきたとおぼしき歳月の果てに、目の前の老人は多くの思いを残したまま己が生の終わりを見つめているのだとも。


 もしアールダが野心を持つ人物であったなら、彼は大陸全土を統べる帝国さえ築くことができただろう。欲望を満たすことのみを求める人物であれば、いくらでも人々を搾取し苦しめることもできたに違いない。だが彼はその力を人々のために役立てることを選んだ。苦しい闘いを続けてきたのだった。そんな彼が人々の行いに悩まされたり、安んじて生涯を終えられないようなことは許されるはずがないとアレスは思った。人々は、自分はこの人のためになにか出来ることはないのか。これほどの重荷をこの人にだけ負わせていていいのか。そんな思いにかられる若者の耳に、アールダの声が聞こえてきた。

「せめてイルの村の者と話がつけられればよいのだが、ウルス殿の話を聞く限り、懸念はもっともといわざるを得ぬ。これだけの勢力差で地の利を失えば、たちまちそなたたちは併呑されよう。さすれば長きに渡る遺恨を絶つ手だても持たず行く末を見届けることもかなわぬ身で、そなたたちの窮状を軽々しく訴えられようか。過ちを重ねる危険を冒すわけには。やんぬるかな!」


 川筋に沿って荒野に大きく広がるイルの村へと目を移しつつ、アールダの老いた声が呻いた。

「一つの川を糧としながら、同じ脅威さえ前にしながら、相争うのが人間の性か。またしても私はこの状況になんら打つ手なく、ただ去らねばならぬとは……」


 この人はこれほど心を残している。なんのかかわりもなかった辺境の村に暮らす自分たちや黒髪の民を、その行く末をここまで案じたまま、戻ることのない修羅の道へと旅立とうとしている。こんな思いのまま行かせてはいけない!

 突き上げるものを感じた瞬間、アレスは叫んでいた。

「そんなに憂えないで下さい。アールダ様。お一人でなにもかも背負わないで下さい! 私たちのことは私たちが……」


 振り向いたアールダの様子に驚いた若者の口から、続く言葉は出なかった。若者の顔を真正面から見つめる死にゆく人の老いた顔には、アレスの驚愕さえ上回るほどの驚きの表情が、あたかも鏡に映したかのように貼りついていたのだった。

 等しく驚愕を浮かべた互いの顔をどれくらい見つめていたか。アールダのこわばった面立ちがゆるんだと思うと、新たな表情が浮かび上がってきた。それは微笑みのように見えながらも本質は悲しみに根差すものとおぼしく、深い悲しみがなにか容易に想像できない過程を経た果てに浄められたら、あるいはこんなものになることもあるだろうかというようなものだった。そして若者は長身の高僧の目に光るものを認めた。その光はただの陽光の照り返しではなく、もっとはるかなところから射し込むものの反映であるようにアレスには感じられた。

「おお、一人で負うなとな。その言葉を、はるかな昔に失われたはずの声を、いまここで耳にするとは……」

 震える手で聖なる印を切ると、老人は瞑目し口の中で神に感謝の祈りを捧げた。その低い声が問わず語りの呟きに変ずるのを、アレスは声もなくただ聞いていた。


「あの遠き日々、彼に、ラザにどれほど支えられていたことか。彼あればこそ、私は一点の疑念も覚えず己が使命に励んでいられたのだ。だが、この力ゆえ最も危険な任務に赴くよう命じられた私に同行したばかりに、ラザは生還することがかなわなかった。私が彼の支えに頼ったばかりにむざむざ死なせてしまったのだ。そんな自分を許せず、その後の私は同志たちの助力をすべて断り一人で戦いの日々を歩んできた。失われた言葉に縛られつつも、どうすることもできぬまま」

 声がいっそう低くなり、響きに苦みが滲んだ。アレスは懺悔を耳にする思いだった。

「だが彼は正しかった。一人で負うなとのあの言葉は。魔物との闘いにこそ後れを取らずとも、私はこの力では解決できぬ事態に幾度もまみえることになったのだ。それでも私は歩み続けるしかなかった。彼の死に我を忘れて暴走させた力のもたらした惨状の悪夢に苛まれ、化け物のごとき己が人であると証しだてることに尊き使命の意味をすりかえずにいられなくなり、そんな我が身をいっそう罪深く思いつつ、おぼろになりゆくばかりの人と魔の境界により深く心を惑わせながら……」


 瞑目していたアールダが顔を上げ、その目がアレスをまっすぐ見つめた。

「だがこの旅路が終わろうといういま、神はそなたの声を借りてかつての言葉を甦らせたもうた。それは惑いの日々の終りの御徴なのか。憂いを残さず最後の使命に赴けと、そうしてよいのだと告げておわすのか」


「……私にはわかりません。それが神の御心であるのかどうか。でも」

 アレスもまた、馬上の高僧をまっすぐ見上げた。

「私は心から願います。どうぞ安んじてこの地より旅立たれますように、私たちのことが尊き使命の妨げになりませんようにと。アールダ様。これは私の思いです。私自身がそう願うのです」

「ああ、私はいまこそ再び見出した! 失われた日々の思いを。このような人々を守りたいと願えばこそ、私はこの身を投じえたのだということを」

 アレスが止める間もあらばこそ、老いたる高僧は馬を下りると地にひざまづき、若者の手を押し頂いた。


「この感謝がどれほどのものか、そなたに伝えるすべもないが、まことそなたは最後の光明をもたらしてくれた。いまや私はもう一度、あの始まりの日々のように使命に誇りをもって臨めよう。そして全てを成し遂げこの命が終焉を迎える末期の日、我が心は必ずやこの日この場所に戻るであろう。その日のため、いま一度そなたの顔をよく見せてくれぬか」

 見上げる僧侶の顔がにじみ、アレスはあわててこみ上げるものを堪えた。この人を涙で送り出したくはないとの一心で、若者はぎこちない笑みを懸命に浮かべた。

 すると白衣の老人は立ちあがり、若者を無言で抱擁した。語る言葉はなかったが、込められた感謝と惜別の念にもはやアレスは抗し得ず、蒼穹を見上げた瞳からただ涙を流すばかりだった。




 丘を渡る風が刻を告げた。アレスの助けを借り再び馬上の人となった破邪の高僧の白い衣が翼のようにはためいた。

「私の心をあなたと共に。ですからお別れは申しません。旅路のご無事と聖なるご使命の成就を祈念いたします」

「では我が想いをそなたと共に。神よ、なにとぞこの地に住まう人々を正しく導きたまえ」


 その言葉を合図にアールダは戻らぬ旅路への一歩を踏み出し、うねる細道に沿って丘を下っていった。アレスの視野の中、その姿はどんどん遠ざかり、荒野に広がる黒髪の民の村外れを掠めて西に大きく曲がったが、街道との合流点で立ち止まった。もはや点としか見えぬ姿だったが、アレスはかの老僧がこの丘に、この地に向けるまなざしを、その心を想うだけで胸が熱くなった。


 やがて白い点のようなその姿は街道に踏みこむと、それまでと打って変わった風のような速さで西に向かって駆け出した。地に砂塵の尾を引いた流れ星はたちまち見えなくなったが、アレスははるか西へと続く街道に想いを馳せたまま、いつまでも丘の上にたたずんでいたのだった。




 ようやく村に帰りついたとき、太陽はすでに天頂に登りつめたあとだった。だが、そこでアレスを待っていたのは思いもよらぬ事態だった。





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<第4章 川辺の道>


「旧街道を西に逃れる? 火の山のふもとの? 気でも違ったのですか!」

 思わず大声を上げたアレスに、ウルスは重々しく告げた。

「黒髪のものどもの村へ南下するわけにゆかぬ以上、もはやそれしか生き延びる道はないのじゃ」

「夜明けに村を出ても火の山から離れないうちに日が暮れるじゃないですか! 女子供も年寄りもみな一緒なんですよ。吸血鬼に追われたら逃げきれるわけが」

「だから足留めを用意するんじゃねえか。いけにえをな」

「なんだって?」


 言葉の主は狩人頭のルディだった。驚くアレスに年嵩の大男は言葉を継いだ。

「あわてるな。仲間を使うわけねえだろう。黒髪の民から一人、できれば娘をつれてこいと若い衆を出したとこだ。あとは洞窟のそばを通るとき、木の幹にでも縛っとけばいいって寸法だ」

 アレスは父親に向き直って叫んだ。

「こんなひどい進言を容れたんですか?」

「おいおい、なにを熱くなってんだ? イルの村の奴らは敵じゃねえか。いったいどうしたアレスよ」


 いわれたアレスは愕然とした。たしかにそうだ。黒髪の民とは長年にわたり生命線たる川をめぐり争ってきた間柄。自分だってそう思ってきたはずだった。そのことをおかしいと感じたことはこれまで一度もなかった。旧街道を使うことを思いついたなら、自分だって同じことを考えたかもしれない。


 そんな自分を、自分たちを、だがあの人が見ればどう思うだろう。どれほど憂うことだろう。

 人間同士で争っている場合ではないとの言葉を、苦渋に満ちた声を思い出したとたん、アレスは叫んだ。

「だめだ。そんな非道なまねができるかっ。とにかく黒髪の民と話をつけてくる!」

「ばかやろうっ」


 駆け出そうとしたアレスを狩人頭は抑えつけ、もがく若者に当て身を食らわせた。昏倒したアレスを担ぎ上げた大男はウルスに向き直った。

「奥にでも放り込んどきますかい?」

「やむをえんじゃろう」

 苦りきった顔で村長が応じた。

「青いところのある奴じゃが、こんなときに全く……」



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 アレスが意識を取り戻したとき、すでに夜は更けていた。

 扉には鍵がかけられていた。そうでなくてもそちらに出ては、誰かに見とがめられるのは避けられない。窓を細く開けると月下の村の様子がうかがえた。馬が馬屋にそろっているのを見ると、恥ずべき人狩りに出た者たちが戻っているのは間違いなかった。アレスは唇を噛んだ。


 もしいけにえに捕らえられた者がいれば、なんとか助けたい。だが、どこにいるのか誰なのか、そもそも捕まった者がいるのかどうかさえわからなかった。探そうとすれば夜が明けてしまう。それでは村を出ることすらできなくなる。かりに見つけられたとしても、自分一人の力で救け出せるともイルの村まで逃げ切れるとも思えなかった。

 ならば、いま、自分はなにをなすべきか?


 やはり黒髪の民と話をつけるのが先だとアレスは思った。イルの村もすでに安全ではないとアールダがいっていた以上、もはや水利をめぐる争い自体が無意味なのだ。村を捨てるつもりでいることを信じさせることができれば、それでも通るなとはいわないだろう。彼らの身の振り方は彼ら自身の問題だが、吸血鬼が存在する以上、選択の余地はさほどないはずだった。厄介なのは既に誰かがいけにえとしてさらわれている場合だが、それでも自分が人質になってさらわれた者と交換ということにすれば、なんとか事態を収拾できそうに思えた。

 もはや先延ばしは事態を悪くするばかり。今日のことで今後の自分は自由に動けなくなるかもしれないし、いけにえをさらえばいずれ黒髪の民に疑われ、最悪の場合攻め込まれる危険もある。ならばこの窓から逃れ出て、川沿いの道を一気に馬で下るまで。洞窟の吸血鬼がどんな相手であろうと、よもや馬の足に追いつくことはできまい。


 決意を固めたアレスは壁を伝い降り馬屋から馬を引き出すと、村境の柵を跳び越え風を巻いて駆け出した。



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 月明かりを散らす流れに沿ってアレスは駆けた。川沿いの道をひたすら駆け下った。月下の風景は影の帯のように背後へと飛び去り、幾度となく背後を振り返るアレスの視界の中、アールダとこの地を見渡したあの丘もみるみる遠ざかり、やがて背後に没し去った。もはや地を走るものの速さではなかった。天駆ける天馬さながらだった。

 だがいかに激しく馬を駆ろうと、目的地への焦りに加えて背後への恐怖に憑かれたアレスには地を這うも同然だった。森の中へ入ればねばつく闇にまといつかれ、冴えた月の下に出れば背後の追っ手に姿をさらす怖れに苛まれた。覚めたままの悪夢のごとき道行きだった。終わりは永遠に来ないとさえ思えた。


 とうとう木立の彼方に黒髪の民の村が見えてきた。あと一息とばかり鞭を当てたとたん、馬はいななき棒立ちになった。辛くも落馬を免れ必死で馬を落ち着かせようとするアレスの耳に、低い含み笑いが、耳にすることなどあってはならぬ言葉が行く手から聞こえた。

「坊主の気配が失せて久々に遠出をしてみれば、なんとも覚えのある顔にまみえしもの……」


 いつの間にか道の真ん中に一人の男が立っていた。道に落ちた木々の影の中にいたので姿形は定かでなかったが、纏う鬼気が、なにより奇妙に古めかしい言い回しで語る言葉の意味するものがその正体を告げていた。背筋が凍る思いでアレスは呻いた。

「化け物め、なぜこんなところに……」

「ほう、我が行先に意見するか?」


 身を竦ませた馬の馬首を巡らせようと焦る若者の怖れを味わい楽しむかのように、人外の男はゆっくりと近づいてきた。

「汝のおかげで今宵は飽かずに過ごせようが、あえて我が刻限に出歩くとは見くびられたものよ」

 敵が洞窟に潜む以上、まず襲われるのは近くにある自分の村だと思い込んでいた。アールダがどちらの村も危険だといっていたにもかかわらず、イルの村へと焦るあまり敵が行く手にいるかもしれぬ可能性に思い至らなかった自分をアレスが呪っていると、嘲る声がまた聞こえた。


「川下の民に援護でも頼むつもりであったのか? 小賢しい! 数を頼めば我に勝てるとでも思うたか」

 どうやらこの男には自分の考えを見抜く力まではないらしい。そんな奴に負けてたまるか、たとえ怒らせてでも隙を作らねばと自らを奮い立たせてアレスは叫んだ。

「おまえなんか恐くないぞ! アールダ様を恐れて逃げ隠れしていた臆病者め!」


 くははは、と影が笑った。

「さても空しき虚勢よな。勝てぬ相手にわざわざ挑むは愚か者の所業よ。そうは思わぬか? いや、汝にいっても無駄よな。そもそも愚か者でなければ、我が前に姿など現しはせぬか」

 悔しさのあまり唇を噛んだアレスに、声が続けた。

「だが侮るな。よし正面から勝てずとも、我になにもできぬわけではない。坊主に仇なす手だてはいくらでもあるわ。我が手一つ振るうだけで大きな罰をもたらすすべがな」


 木立の影を抜けた男にそそぐ月明かりがその容貌を照らした。2つの村の民のいずれとも異なる茶色の髪とあご髭をした壮年の男だった。細身のその顔自体が醜悪なわけではなかった。むしろ端正でさえあった。

 だが造作が少しづつ、微妙に歪んでいた。それらの歪みが積み重なった結果、凶々しくも嗜虐的な表情と化して内部にあふれる毒汁よろしく表面に滲み出ているのだった。アールダがその姿も見ずに見抜いたものを、本性に根ざした邪悪さや狡猾さと断じたものを、自分はいま目にしているのだとアレスは悟った。


「かの者があのような様でなければ汝の村の者を一人残らず牙にかけ、その手で討たせてやるも一興であったが、もはやこの地へ生きて戻ることはかなうまい。つまらぬことよ。己の成したことの空しさを存分に見せつけてやろうと思うたに」

 敵愾心を煽られ思わず邪悪な顔を見返したアレスを男の眼光が捉えた。たちまち若者は金縛りにあった。

「ならば我は坊主を追おう。かの者の成し遂げしことを片端から貶めてくれよう。我が余興を損ないし者へのそれが罰だ。もはやこの地に用はない。あとは汝ら人間同士、せいぜい踊っておるがよいわ」


 そういう男が顔に浮かべた表情を目にして、相手が企んでいることを察してしまったアレスは慄然とした。それが得体の知れぬ魔性に根差すものなら、察することなどなかっただろう。だが、この男の企みは人間だから思いつくもの、人間しか考えつかぬものだった。アールダがいっていたのはこういうことだったのだと悟ったアレスは我が身と人々に迫る破滅から逃れるべく、金縛りを破ろうと必死に力を込めたが身動き一つできなかった。若者の焦りを見てとった男は歪んだ喜悦を唾棄すべき顔に浮かべた。


「安んずるがよい。この地で我が牙にかかるのは汝が最後だ」

 男が竦んだ馬の鼻面をつかみ無造作にひねると太い首は脆くも折れ、アレスは地面に投げ出された。恐怖と絶望に目を見開いた若者の上に身をかがめた男の唇から鋭い牙がのぞいた。



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「あれはなんだ?」


 ユーラの村からはるか下流の黒髪の民の村イルの川岸で、昨日姿を消した村娘の探索から空しく戻る人々の一団が、沈む夕日に血色に染まった川を不自然にゆっくり流れてくる黒いものに目をとめた。それは蛇行する川の流れを曲がりきれずに先端を葦の茂みに引っかけ、渦巻く流れに大きく揺れた。

「舟だ、舟が流れてきた!」

「ロープで重しを流れにひきずっているぞ?」


 舟を覗き込んだ黒髪の民は一様に恐怖に目を見開いた。舟の中には金髪の青年が、ユーラの村長の息子アレスの亡骸が横たわっていた。異様に白茶けた顔色が、そして首筋に穿たれた牙の跡が彼の身になにがおこったのかを、もはやいかに禍々しい存在へと成り果てたのかを暴き立てていた。

 おののく人々の目の前で蝋のようなまぶたが開き、うつろな緑の目が天を見上げた。沈む夕日の最後の光が空洞のごとき瞳を、あえぐ口からこぼれた牙を血色に染めた。





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<第5章 煙る谷>


 焼け落ちたユーラの村は黒い煙をあげていた。家々は焦げた柱を助骨のように晒し、人々の築き上げた全ての営みの成果は文字どおり灰燼に帰していた。そしてユーラの村人たちは、あるいは判別することもかなわぬ黒焦げの骸と化し、あるいは全身を矢に射抜かれた針鼠さながらの無残な姿で、煤だらけの大地に等しく打ち捨てられていた。煙をくぐるように低く差し込むどんよりとした夕日は、それらのすべてを濁った血のような昏くも恐ろしい色に染めあげているのだった。



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 夕方イルの村に流れ着いたアレスは動く死体と化して舟の上に起き上がったが、揺れる舟の足場の悪さに姿勢が崩れたところを槍や矢を一斉に打ち込まれ、鋤や鍬でめった打ちにされたあげく蛮刀で首を刎ねられた。知らせを聞いて駆けつけた村長ヤノスの命令でアレスの亡骸は舟ごと火をかけられ焼き捨てられた。そして夜通し協議を重ねた彼らは、これだけの人数が暮らせる新たな場所などない以上、命の絆たる川の源に巣食い村娘を連れ去るに至った恐るべき魔物を掃討するしか、もはや生きる道はないとの結論に達したのだった。


 空が白み始めると同時に、村長ヤノスは武装した一団を率いてユーラの村へ向かった。弓や投げ槍を手にした彼らは大量の藁と油を荷馬車に積み込み、ともすれば頭をもたげようとする恐怖を追いつめられた者の敵愾心で無理やり抑え込みながら、アレスが下ろうとした川沿いの道をひたすら北上した。

 正午の太陽に照らされたユーラの村には畑を耕す農夫も川魚を漁る漁師の姿も見当たらなかった。普段なら不審に思えるはずのその光景の意味は、いまや彼らにとっては自明のものに思えた。白い壁の家々の中では闇の眷族と化したものどもが、哀れな娘を貪りながら陽を避けてひしめいているに違いない。ヤノスに指揮された一行は物音をたてぬよう細心の注意を払いつつ、呪われた村の包囲を完了した。


 折悪しくユーラの村では、村長ウルスや狩人頭ルディが集めた村人全員に村を離れなければならないと説いていた。中央広場に集う村人たちは朝からの果てしない議論に疲れ果てていたため、煙の匂いと火のはぜる音に気づくのが遅れた。燃え盛る炎に退路を断たれたウルスや大半の村人たちはたちまち煙に巻かれ、炎を突っ切ることができた僅かな者もあえなく全身を矢に射抜かれて斃れた。恐慌に陥った射手がとっくに息絶えた骸へ狂ったように矢を浴びせ続ける、そんな悪夢のごとき虐殺の大地の上空では、太陽までもが業火に炙られ持ち堪えられなくなったかのように、天空から剥がれ落ちてゆくのだった。




 低くずり落ちた太陽を見たヤノスが撤収を命じたとき、眼前に広がっていた光景はこの世の地獄そのものだった。しかしイルの村人たちは誰一人、その恐ろしさを自分たちの行為ゆえのものと認識することがなく、魔性に堕ちた呪うべき民の禍々しさとして受け止めただけだった。殺しても殺しても黒焦げの骸や矢に打ちぬかれた死体が立ちあがることへの脅えを拭えなかった彼らは、この凄惨な事件により金色の髪と緑の瞳を持つ者への恐怖に永く呪縛されるに至った。



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 そして二百年を超える歳月の果て、アールダばかりか邪悪な男さえも滅び去り、アルデガンに封じられていた魔物たちが地上に解き放たれてから数年後、この地を訪れた者たちがいた。砂漠を越えてきた旅人たちの一人は呪わしき徴を持つ者だった。そして魔獣の翼に乗り月影煙る天空より飛来したのは、邪悪な男に因縁浅からぬ吸血鬼だった。


                           終


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― 新着の感想 ―
[良い点] 夜とそれが連想させる恐怖の描き方が素晴らしかったと思います。 [一言] 決して抗えないだろう絶望的な雰囲気と、冷ややかで狡猾な様は、力のある吸血鬼の象徴のように感じてます。出番は少なかった…
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