うらがえし。
小学校の給食には、お盆がなかった。
だから毎日、机の上へ、ランチマットを敷いた。
四角い布だった。
給食袋の中に箸や歯ブラシと一緒に入れて、持って帰って洗濯して、交代で別のものを使い、また洗濯されたもの持っていく。
それだけのものだったのに、十一歳の頃の私にとって、あの布は一度だけ、ひどく恥ずかしいものになった。
その日の四時間目が終わって、給食係が廊下へ食缶を取りに行った頃だった。
私はいつものように机の中から給食袋を出し、ランチマットを広げようとした。
ピンク色の生地に、小さな白い花とリボンが散っている。
広げかけたところで、前の席が目に入った。
麻衣ちゃんの机にも、同じものがあった。
まったく同じだった。
ピンク色。
白い花。
ところどころに水色の細いリボン。
たぶん、近所のショッピングセンターかどこかで普通に売られていたものだったのだと思う。
そんなもの、同じになったところで何の不思議もない。
今ならそう思う。
でも、あの頃は違った。
麻衣ちゃんは可愛い子だった。
髪はいつも綺麗に二つに結ばれていて、持っている鉛筆も筆箱も可愛くて、休み時間には何人もの女の子が彼女の机の周りへ集まっていた。
私は別に麻衣ちゃんが嫌いではなかった。
私は麻衣ちゃんと違い、女の子の友達が別に多いわけでもない、普通の……多分普通の、子だ。
仲が良かったわけでもない。
ただ、同じものを持っていると知られるのが、急にものすごく嫌になった。
麻衣ちゃんと同じものを持っている。
その事実だけで、誰かに指摘されて笑われるような気がした。
だから私は、ランチマットを裏返した。
裏は薄いピンク一色だった。
端の縫い目と、母が油性ペンで書いた私の名字だけが見えていた。
これなら分からない。
そう思った。
でも。
「何してんの?」
隣の席の子が言った。
「え?」
「なんで裏返してんの?」
「別に」
「変なの」
言いながら、その子は何の遠慮もなく布の端を摘まんだ。
「あ」
止めるより早く、ぺろりとめくられた。
白い花。
水色のリボン。
「あっ」
その子の声が、嬉しそうに高くなった。
「これ麻衣のと一緒じゃん!」
今でも覚えている。
あの声には、本当に少し、喜びが混じっていた。
面白いものを見つけた、家で飼ってる猫が虫を見つけた時のような顔、だった。
「え、何?」
「何が?」
周りの子たちが寄ってくる。
誰かが私の布を指さした。
「ランチョンマット!麻衣と一緒!」
ランチマットではなく、ランチョンマット。
どうしてだったのか分からない。
普段は誰もそんな呼び方をしていなかったと思う。
でもその時だけ、やけに気取った、いかにも可愛い雑貨を指すみたいな言い方で、
「ランチョンマット!」
と言った。
それがまた、どうしようもなく恥ずかしかった。
「真似したん?」
「違うよ」
「えー、でも一緒じゃん」
「同じの買っただけ」
「麻衣の見て買ったんじゃないの?」
「違うって」
「真似したんだぁ……それって、」
最悪だね。
そう心の中で言われたような気がした。
笑い声がする。
私は必死になって麻衣ちゃんを見た。
「違うよね。私、真似したんじゃないよ」
なぜ麻衣ちゃんに同意を求めたのか、今となっては分からない。
私がその布をいつ買ったのか、麻衣ちゃんだって知らなかったはずだ。
でも、あの時は彼女が否定してくれれば全部終わるような気がしていた。
麻衣ちゃんは、自分の机の上のランチマットと、私のものを見比べた。
それから少し困ったような顔をして、
「……うん」
とだけ言った。
肯定だったのか。
単に話を終わらせたかったのか。
分からない。
その曖昧な頷きが、ひどく惨めだったことだけ覚えている。
私はその日、給食を食べている間ずっとランチマットを裏返したままにしていた。
翌日からは別のものを持っていった。
◆ ◆ ◆
そんなことを思い出したのは、十五年以上ぶりに実家へ帰った日のことだった。
「ただいま」
玄関を開けると、嗅ぎなれた懐かしい家の匂いがした。
畳と、線香と、古い木の匂い。
東京で暮らし始めてから十二年になる。
最初の数年は盆と正月くらいには帰っていたけれど、そのうち仕事が忙しいだの、新幹線が高いだのと言い訳するようになった。
最後に帰ったのがいつだったか思い出そうとして、途中で諦めた。
三年か。
四年か。
母から、
「たまには顔くらい見せなさい」
と言われて、久しぶりにまとまった休みが取れたから帰ってきた。
それだけだった。
「おかえり」
奥から母が出てきた。
少し小さくなったように見えた。
「荷物そこ置いといて。お茶にする?」
「うん」
居間へ入って、私は足を止めた。
座卓の周りに四枚、座布団が置かれていた。
全部、裏返しだった。
本来表側にあるはずの、紺色の菊模様が畳へ伏せられている。
上を向いているのは、少し色褪せた無地の裏地だった。
「何これ」
「何が?」
「座布団」
母は台所から急須を持ってきながら、ちらりと見た。
「ああ」
「全部裏返ってるよ」
「そうね」
「そうね、じゃなくて」
私は一枚を持ち上げた。
裏返せば、見慣れた菊模様が出てくる。
「こっちが表でしょ?」
母の顔から、笑みが消えた。
「戻して」
「え?」
「裏に戻して」
強い言い方ではなかった。
だから余計に、私は反射的に座布団を元へ戻した。
菊の花が再び畳へ伏せられる。
「何。日焼けでもするの?」
「そういうんじゃないのよ」
「じゃあ何?」
「今は裏でいいの」
母はそれ以上説明せず、湯呑みへお茶を注いだ。
私は無地の座布団へ座った。
なんとなく落ち着かなかった。
そして突然、小学校の給食を思い出した。
麻衣ちゃんと同じランチマット。
ぺろりとめくられた裏地。
――ランチョンマット、麻衣と一緒じゃん。
何で今さら。
自分でも分からなかった。
◆ ◆ ◆
翌朝、近所を散歩していると、知らないおばあさんに声をかけられた。
「あらぁ、帰っとったんね」
誰だろうと思ったが、向こうは私を知っているらしい。
「東京から?」
「はい。久しぶりに」
「そう。久世さんとこの娘さん、大きゅうなって」
一瞬、聞き間違えたと思った。
「……はい?」
「お母さん元気?」
「元気ですけど」
おばあさんはにこにこしている。
「久世さんとこも一人やからねえ。たまには帰ってきてあげんと」
「あの」
「ん?」
「うち、長谷川です」
おばあさんの顔から笑みが消えた。
ほんの一瞬だった。
「ああ」
それからまた、笑った。
「そうやったねえ」
妙な間だった。
帰って母に話すと、母は洗濯物を畳んでいた手を止めた。
「誰に会ったの」
「名前知らない。坂のところの家のおばあちゃん」
「そう」
「久世さんって誰?」
母は私を見なかった。
「昔この辺にいた家」
「間違われたんだけど」
「間違ってないのよ」
「は?」
母はタオルを一枚畳み終えた。
「三日だけ、あんたは久世さんちの娘ってことになってるから」
私は笑った。
母は笑わなかった。
「何それ」
「そういうもんなの」
「何が?」
「帰ってきた人は」
「意味分かんない」
「分からなくていいから。外で誰かに久世さんって呼ばれても、訂正しないで」
「なんで?」
「三日だけだから」
またそれだった。
三日。
「東京に戻るの四日後なんだけど」
「だからちょうどいいでしょう」
母は次のタオルを畳んだ。
話は終わり、とでもいうように。
◆ ◆ ◆
二日目の昼、私は麻衣ちゃんに会った。
本当に偶然だった。
スーパーの総菜売り場で声をかけられた。
「もしかして、志穂?」
振り返る。
最初は分からなかった。
でも笑った顔に、昔の面影が残っていた。
「麻衣ちゃん?」
「やっぱり!」
彼女は今も綺麗だった。
少女の頃の華やかさがそのまま大人になったような感じだった。
左手の薬指に指輪があり、買い物かごには子供用のヨーグルトが入っていた。
「いつ帰ってきたの?」
「昨日」
「全然帰ってきてなかったでしょ」
「まあね」
「おばちゃん元気?」
「元気元気」
どうでもいい話をした。
仕事のこと。
東京の家賃のこと。
麻衣ちゃんには小学生の娘がいるらしい。
「もう十一歳だよ」
「え、そんな大きいの?」
「早いよねえ」
十一歳。
その年齢を聞いた途端、またあのランチマットを思い出した。
自分でも呆れた。
十五年以上前のことだ。
相手はきっと覚えていない。
そう思ったのに、口から出た。
「ねえ、変なこと聞いていい?」
「何?」
「小学校の頃、ランチマット一緒になったこと覚えてる?」
「ランチマット?」
「給食の」
麻衣ちゃんは首を傾げた。
「同じ柄のやつ持っててさ。周りに真似したって言われたの」
「えー」
本当に覚えていない顔だった。
「そんなことあった?」
「あったよ」
「ごめん、全然覚えてない」
「だよね」
笑った。
自分でもどうして聞いたのか分からなかった。
麻衣ちゃんは少し考えて、
「私、真似されたとか言った?」
「いや」
「じゃあ周りが勝手に騒いでただけじゃない?」
「たぶん」
「女子ってそういうのあったよねえ」
彼女は笑った。
「ちょっと持ち物かぶっただけで、すぐ真似したとかさ」
「うん」
「今考えるとどうでもいいよね」
「ほんとにね」
私も笑った。
でも、どうでもよくはなかった。
少なくとも十一歳の私には。
あの日、給食の味がしなかった。
ランチョンマット、という言葉まで嫌いになった。
その記憶を、麻衣ちゃんは一欠片も持っていない。
それが少しだけ不思議だった。
同じ場所にいたのに。
同じ出来事だったのに。
私の中にだけ、十五年以上も残っている。
「じゃ、またね」
「うん」
別れ際、麻衣ちゃんは私を呼び止めた。
「あ、志穂」
「何?」
「今日、早めに帰った方がいいよ」
「え?」
「日暮れる前に」
笑っていた。
「久しぶりに帰ってきたんでしょ?」
「……何それ」
「おばちゃんに聞いてない?」
私が黙っていると、麻衣ちゃんは少し困った顔をした。
あの頃と似ている、と思った。
「まあ、おばちゃんいるなら大丈夫か」
「何が?」
「じゃあね」
彼女は答えず、手を振った。
◆ ◆ ◆
家へ帰ると、座布団はまだ裏返ったままだった。
よく見ると、それだけではなかった。
玄関の小さな敷物。
電話台のレース。
仏壇の前に敷かれた布。
全部、裏側が上になっていた。
「ねえ」
台所にいた母へ言った。
「この家、何でも裏返してない?」
「何でもじゃないわよ」
「じゃあ何を?」
「顔のあるもの」
「顔?」
「柄があるもの」
母は味噌汁の鍋をかき混ぜながら言った。
「表と裏が分かるもの」
背中が少し冷えた。
「何のために?」
母は答えなかった。
「久世って何?」
「さっき言ったでしょう。昔いた家」
「どこに?」
「川向こう」
「今は?」
「いない」
「誰も?」
「誰も」
「じゃあなんでその名字使うの」
母は火を止めた。
それから、ようやくこちらを向いた。
「呼ばれなくなった名前だから」
ぞわ、と腕に鳥肌が立った。
「何それ」
「志穂」
「うん」
「今日、誰かに長谷川さんって呼ばれた?」
「……呼ばれてない」
「自分から名乗った?」
昨日のおばあさん。
私は一度、訂正した。
うち、長谷川です。
と言った。
それを伝えると、母は目を閉じた。
「どうして言うの」
「知らなかったんだから仕方ないじゃん」
「だから最初に言ったでしょう」
「その前に理由を説明してよ!」
思ったより大きな声が出た。
母はしばらく黙っていた。
「遠くに長くいた人が帰ってくる時はね」
静かな声だった。
「一人で帰ってくるとは限らないのよ」
私は何も言えなかった。
「何、それ」
「昔からそう言うの」
「幽霊?」
「知らない」
「知らないって」
「見た人は色々言うわよ。影だとか、真似するものだとか、外でついたものだとか。でも本当のところなんて誰も知らない」
「そんなの信じてるの?」
「私はね」
母は言った。
「信じてるんじゃなくて、やってるだけ」
「同じでしょ」
「違うわよ」
母は小さく息を吐いた。
「お皿洗うのと一緒。戸締まりするのと一緒。帰ってきた人がいたら、三日間は家のものを裏返す。呼ばれなくなった名字を借りる。夜になったら本当の名前を呼ばない。それだけ」
「なんで裏返すの」
「同じものが二つあったら」
母はそこで言葉を切った。
「片方を裏返せば、同じじゃなくなるでしょう」
耳の奥で、子供の声がした。
――これ麻衣のと一緒じゃん。
ピンク色の布。
白い花。
水色のリボン。
私はあの日、それを裏返した。
同じだと知られたくなかったから。
「……馬鹿みたい」
それしか言えなかった。
「そうね」
母はあっさり頷いた。
「馬鹿みたいで済めば一番いいのよ」
◆ ◆ ◆
その夜は、雨が降った。
古い家の屋根を叩く音が、ずっと続いていた。
十一時頃には布団へ入った。
眠れるはずがないと思っていたのに、いつの間にか眠っていたらしい。
目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。
何か音がした。
雨ではなかった。
人の声だった。
遠い。
玄関の方。
私は布団の中で耳を澄ませた。
「……ほ」
雨音。
「……しほ」
身体が固まった。
志穂。
確かにそう聞こえた。
玄関の外から。
女の声だった。
若い。
よく知っているような気もした。
「志穂」
今度ははっきり聞こえた。
廊下の向こうで、襖が静かに開いた。
母だった。
暗闇の中で人差し指を唇へ当てた。
声を出すな。
そういう意味だった。
「志穂」
外の声がもう一度呼んだ。
不思議な声だった。
母に似ている気もした。
麻衣ちゃんに似ている気もした。
自分自身の声にも聞こえた。
私は布団の中で両手を握った。
「ねえ」
玄関の戸を隔てたすぐ向こうから声がした。
「違うよ」
息が止まった。
「真似したんじゃないよ」
頭の奥が真っ白になった。
「同じの買っただけ」
十一歳の私が、教室で言った言葉だった。
誰にも話したことはない。
今日、麻衣ちゃんにさえそこまでは話していない。
「真似してないって」
玄関の外で、子供の私が言った。
母の手が伸びてきて、私の手首を掴んだ。
冷たかった。
そのまま二人で、朝まで黙っていた。
◆ ◆ ◆
翌朝。
母は何も聞かなかった。
私も何も言わなかった。
朝食を食べたあと、母は居間の座布団を一枚ずつひっくり返した。
紺色の菊が、久しぶりに上を向いた。
「もういいの?」
「三日目の朝だから」
「……昨日のあれは」
「知らない」
「聞こえたでしょ」
「聞こえた」
「何だったの」
「だから知らないって」
母は最後の座布団を直した。
「でも、もう終わり」
「何で分かるの」
「表に戻せるから」
意味が分からなかった。
分からないままでよかった。
私はその日の午後、予定を一日繰り上げて東京へ戻ることにした。
出発前、母が押し入れから古い紙袋を持ってきた。
「これ、あんたの」
「何?」
「昔のもの整理してたら出てきたから」
中には、小学校の頃の文房具や通知表が入っていた。
その底に、畳まれた布があった。
ピンク色。
白い花。
水色のリボン。
「……まだあったの、これ」
ランチマットだった。
「捨てる?」
「いや」
少し迷って、私は鞄へ入れた。
何となくだった。
もう恥ずかしくもない。
麻衣ちゃんだって覚えていなかった。
十五年以上も経ったのだ。
昔の自分が、何をあんなに怖がっていたのか。
今なら少し笑える気がした。
◆ ◆ ◆
東京へ戻った翌日、私はいつも通り仕事へ行った。
電車は混んでいた。
会社では溜まったメールを処理した。
昼はコンビニのおにぎりを食べた。
誰も私を久世さんとは呼ばなかった。
夕方には、田舎での出来事が少し遠く感じられた。
疲れて帰宅し、コンビニで買った総菜をテーブルへ並べた時、ふと思い出した。
鞄の底に、あの布が入ったままだ。
取り出した。
十五年以上前のランチマットは、思っていたより綺麗だった。
少し色褪せてはいる。
でも、白い花も水色のリボンもまだ残っている。
懐かしかった。
私は笑って、それをテーブルへ敷いた。
今度はちゃんと表を上にして。
その上へ皿を置いた。
テレビをつけた。
総菜を食べた。
風呂へ入った。
眠った。
翌朝。
台所へ行って、私は足を止めた。
ランチマットが裏返っていた。
薄いピンクの無地が上を向いていた。
しばらく見つめた。
自分で裏返したのだろうか。
寝る前に片付けようとして、途中でやめたのかもしれない。
そう思った。
そういうことにしようと思った。
布を持ち上げる。
その端に、小学生の頃の母の字で、
『長谷川志穂』
と書いてあるはずだった。
私はそこを見た。
名字の部分が、黒い線で何度も塗り潰されていた。
その下に、新しい字があった。
まだインクの艶が残っているような、濃い黒だった。
『久世 志穂』
私はしばらく、それを見ていた。
それから布をもう一度、
そっと裏返した。
三題噺とは、落語の形態の一つで、寄席で演じる際に観客に適当な言葉・題目を出させ、そうして出された題目3つを折り込んで即興で演じる落語である。三題話、三題咄とも呼ぶ。今回は「三題から奇妙で怖い物語」を作ろうという試み。御題は「ランチマット、学校、母」




