不吉な産声 ―― 最終納期(デッドライン)の宣告
(……現場の最大派閥が入れ替わる時の、最悪の空気感だ。元請けが無理やり連れてきた下請けが、古参の職人の仕事を横取りして回るような……)
八雲山の夜気は、ただ冷たいだけではない。肺の奥を刺すような、鋭利な拒絶の沈黙を孕んでいる。
かつては巨石を切り出し、山を整える槌の音が心地よい作業ログ(リズム)として響いていたこの場所も、今や日向からやってきた白い衣の集団――アマテラスの種族が闊歩する、見知らぬ現場へと変貌を遂げつつある。
俺の母方のルーツである月読族の職人たちは、最近では広間の隅で声を潜め、どす黒い不満を燻らせるのが日課になっていた。
彼らは卓越した石工であり、金属を自在に操る熟練のエンジニア集団だ。この八雲山の基礎を築き、神域をビルドしてきたのは間違いなく彼らの手によるものだったが、新参者の日向族は「作法が違う」と彼らの技術を「旧弊なバグ」として鼻であしらい、祭祀の主導権(ルート権限)を次々と奪い去っていった。
(……この不満の蓄積は、いずれ大規模な『崩落事故』を引き起こす。現場監督としての俺のアラートが、脳内で鳴り止まない)
俺はまだ細い腕をさすりながら、石の床を叩く微かな振動を肌で感じていた。
三十四歳の現場監督としての理性は、この「仕様変更」の理不尽さを冷徹に分析しているが、少年の俺の肉体は、一族が隅へと追いやられていく、その冷たさにじっと耐えることしかできない。
そんな一触即発の緊張感の中、俺は屋敷の端にある月見台で、一人で夜空を凝視しているミツを見つけた。 ミツは、この半年の間に、以前にも増して浮世離れした静謐さを纏うようになっていた。その横顔は、まるで凍土を削り出したかのように硬く、無機質な「演算器」のようだ。
「……兄様」
俺が背後に立っただけで、彼女は振り向かずに口を開いた。
「……父上の背後に張り付いていた影が、……一族全体を飲み込もうとしているわ」
ミツがそっと俺の衣の裾を引いた。
その指先は、雪に触れたかのように冷たい。彼女の銀色の瞳は、今この瞬間の風景を見ているのではない。半年を一年と数える「ツクヨミ暦」という歪んだ時間の理の裏側で、星々の真実の運行を、数学的な精度で読み取っていた。
「母上たちの血を引くツキヨミの者たちが、……消去されてしまう。あの日向の白い衣の下に隠された『復讐』の心が、この山を真っ赤に染めるのが見えるの。和解なんて、嘘。あれは、時間を稼ぐための『待ちの罠』よ」
現場監督として図面を読み解いてきた俺には分かる。彼女が描くその予言は、論理的な裏付けを持つ、冷徹な「未来の工程表」だ。
「兄様、……あのヒムカの女、アマテラス様の中に宿る新しい命。あの子が生まれる時、この国の時間は一度、完全に止まるわ」
ミツの瞳が、冬の夜空の一点、特定の星の並びを鋭く射抜いた。
「……月が太陽を食らい尽くし、世界が夜に閉ざされる日。月が欠けて満ちたその暁に、あの子は産声を上げる。それが、父上と、俺たちの『強制終了』の始まりになる……」
ミツが予告した、十ヶ月後の「出産」。
それは、俺たちにとっての「最終納期」の通達だった。 ヒムカの血を引く子が生まれ落ちれば、現在の末子であるミツの権威も、そして彼女を守ってきた月読族の価値も、一瞬で「不要な残土」としてパージ(解雇)されるだろう。
(……十ヶ月。それが、この現場に残されたバッファ(猶予)か。……あいつらは、その瞬間にすべてをひっくり返して、俺たちをスクラップにするつもりだ)
口の中に広がるのは、屈辱と焦燥が混じった、鉄錆のような血の味。
この圧倒的な無力感――これこそが、俺が今、この深い「絶望」の底で味わっている、本物の絶望だった。
俺は、暗い夜空を見上げ、歯を食いしばった。父スサノオの圧倒的なカリスマ性の背後で、確実に「老い」と「死の影」というバグが進行していることも、今の俺にはミツの怯えを通して、はっきりと感じ取ることができた。
「……分かった。工期は把握したよ、ミツ」
俺は震えるミツの手を強く握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
次に産声を上げる「新しい命」が、俺たちを奈落へと突き落とす崩落の合図になる。
「心配するな。……俺が、その『最悪の納期』までに、この現場の構造を根本から補強してやる。……どんな凶兆だろうが、想定外にさせてたまるか」
心の中の乾いた独白だけが、冷たい風の音にかき消されることなく、俺の魂の奥深くで熱を帯びていた。少年の肉体の中で、現場監督としての「意地」が、かつてないほど鋭く再起動していくのを感じた。




