「沈丁花」の監査(オーディット)
(……空気が、一瞬で凍り付いた。物理的な温度低下じゃない。システムの実行速度が極限まで落ちるような、鋭利な拒絶の冷気だ),
父に「出来損ないのゴミ」と吐き捨てられ、広間の冷たい石床に平伏していた俺の背筋に、刺すような悪寒が走った。
それは出雲の深い森が持つ、土や湿気を含んだ重たい寒さではない。
もっと人工的で、研ぎ澄まされた鋼の刃を首筋に押し当てられたような、「高次レイヤーからのスキャン」に近い冷たさだ。
「――ヒムカ(日向)の主、アマテラス様のご到着である!」
(アマテラスだと!!)
広間の入り口から響き渡った先触れの声は、かつての現場で聞いた重機のアイドリング音よりも高く、それでいて鼓膜を冷たく叩いた。
父は忌々しそうに一度だけ鼻を鳴らし、巨岩のような腰を上げた。その一動作だけで、広間の空気が物理的に揺れる。
「……来たか。あの高慢な女が」
父の呟きには、和解を喜ぶ色など微塵もなかった。
ガキである「トシ」の脳内にある乏しい記憶によれば、アマテラスの日向族とスサノオの出雲族は、長きにわたって覇権をかけて争い、この来臨はその熾烈な戦いに無理やり蓋をするための、「和解の結婚」の儀式なのだという。
だが、前世で三十四年のキャリアを積んだ現場監督としての俺の目は、この状況をより冷徹に、最悪の「リスクアセスメント(事前評価)」として弾き出していた。
(これはただの政略結婚じゃない。敵対する二つの巨大企業が、互いの不信感を抱えたまま、トップ同士の縁談によって無理やり行う『敵対的合併(M&A)』の調印式だ)
現場で言えば、工期も予算も折り合いがつかないまま、施主の命令で無理やり組まされたJV(共同企業体)。そこにあるのは協力の意志ではなく、相手の失策を待つ「悪意ある監視」と、隙あらばシステムを乗っ取ろうとするハッキングの予感だけだ。
広間に足を踏み入れてきたのは、純白の衣を纏った一団だった。スサノオの家臣たちが纏う荒々しい獣の皮とは対照的な、光を反射するほど精緻に織られた布――いわば「最新仕様の防護服」だ。その中心に、その女性はいた。
「……っ」
俺は平伏したまま、わずかに顔を上げた。
そこにいたのは、研ぎ澄まされた氷の刃のような、冷徹なまでに完成された美貌を持つ女性だ。
彼女の瞳は、まるで高性能なスキャナーのように、この場にいる者たちの脆弱性を無機質に読み取っている。
それは、この地の「戦の臭い」や「獣の匂い」という名のエラーログを、文字通り上書きして塗り潰そうとする、強烈な消臭プロトコルだった。,
スサノオが「動」の暴力なら、この女は「静」の圧力。
「お久しゅうございます、スサノオ殿。……あな、恐ろしや。まだ戦の匂いが、その身に染み付いていらっしゃるのですね」
アマテラスが口を開いた瞬間、広間の温度がさらに数度下がったような錯覚に陥った。
鈴の音のように美しい声。だが、その言葉の端々には、相手を「レガシーな旧OS」として蔑むような毒が潜んでいる。
(……この現場、最悪だ。足元が全部地雷じゃねえか)
「トシ」の肉体は、この場を支配する巨大な二つの意志の衝突に耐えきれず、ガタガタと震えている。
父に否定された「ゴミ」である俺にとって、このアマテラスの来臨は、さらに自分の生存権をデリートしようとする「最終監査」に他ならない。
この誰もが2人のやり取りに注目している中で、俺は自分の無力さと、脆弱なハードウェアに閉じ込められた焦燥に、ただ泥を噛むことしかできなかった。
ふと、広間の片隅で待機している妹、ミツに視線を向けた。
彼女はこの場に呼ばれてはいないが、入り口の影で俺を心配そうに見つめている。そのミツが、唇を真っ青にし、自分の腕を抱いてガタガタと震えていた。
彼女の瞳は、アマテラスという「個」を見ているのではない。
この場全体に漂い始めた「不吉な時間の流れ」……すなわち、「システム全体の致命的なクラッシュ」を予見しているようだった。
ミツの震えが、俺の脳内モニターに警告を叩きつける。
この最強の父スサノオが、この女の「毒」に飲まれる日が来るのか。その時、ゴミとしてパージされた俺とミツはどうなる。
八雲山の静寂の中に、不吉な沈丁花の香りが、いつまでも、いつまでも漂い続けていた。
和解の宴が始まるというのに、俺の胃の奥には、コンクリートの粉塵を吸い込んだ時のように、重く不快な塊が居座り続けていた。
(……いいだろう。ヘルメットもITツールもない俺だが、このバグだらけの『合併案件』、生き残るためのデバッグを開始してやる)
泥にまみれた拳を握りしめ、俺は技術屋としての意地を、静かに、しかし熱く再起動させていた。




