致命的な互換性エラー
(……熱い。喉の奥が、熱エネルギーの暴走で焼き付くように熱い)
重たい石の蓋をこじ開けるような負荷をかけ、ようやく瞼を持ち上げる。
視界の端で揺れているのは、慣れ親しんだ現場のナトリウム灯でも、清潔な病院の無機質な蛍光灯でもなかった。
煤で真っ黒に汚れ、野武骨に組まれた太い木の梁。 現代の安全基準(JIS規格)など微塵も感じさせない、原始的な構造体が剥き出しの天井だ。
「……あ、が……」
声を絞り出そうとして、喉を焼くような激痛に顔を歪める。
後頭部の腫れが、心臓の鼓動に合わせてドクドクと不快な同期を刻んでいた。
(……図面はどこだ。安全靴を履かせろ。コンクリートの打設……まだ、完了報告を出してないだろ……)
中堅ゼネコンの責任者として、泥にまみれながらも「地図に残る仕事」を完遂してきた自負。 その誇り高きソフトウェアが、今、この幼い体の鋭すぎる痛覚によって、粉々に打ち砕かれようとしている。
「……気が付きましたか、トシ兄様」
耳元で響いた、鈴を転がしたような澄んだ声に、全身の毛が逆立った。
反射的に体を起こそうとして、重力という名の物理法則に裏切られたように枕元へ倒れ込む。
視界がぐにゃりと歪み、自分でも制御できない生理的な涙が溢れ出した。
そこに座っていたのは、月の光を透かしたような白磁の肌を持つ少女だった。
線が細く、今にも壊れそうなほど華奢な構造体。 だが、その瞳の奥には、混沌に決して折れない強靭な理知が宿っている。
(……待て。誰だ。この低解像度な布を纏った少女は……。俺を殴った連中の仲間か?)
34歳の俺が混乱を試みる一方で、11歳の俺が「また殴られる」という本能的な恐怖ログを再生し、思考をフリーズさせる。
「よ、寄るな! ……だ、誰だ、お前は!?」
掠れた叫びに、少女は弾かれたように肩を揺らした。 その大きな瞳に、絶望に似た悲しみが広がっていく。
「何を……何を言っているのですか。私はミツです。貴方のたった一人の妹ですよ、トシ兄様」
ミツ。 その響きが耳に触れた瞬間、脳の奥で無理やり記憶が上書き(オーバーライト)されるような激痛が走る。
「兄様、しっかりしてください。あの方々に突き飛ばされてから、もう三日の間、ずっと眠っていたのです。細かった三日月が、もう半分にまで太ってしまいました……」
少女の言葉が、何一つ理解できない。
現場なら三日の工程遅延は致命的だが、それ以上に「進捗」の単位が狂っている。
どうやらこの世界(現場)には、俺の知らない時間管理のOSが標準実装されているらしい。
「……み、みず……」
喉が、焦げ付いたアスファルトのように乾いていた。 ミツが差し出した木の器を、震える両手で受け取ろうとして――俺は、そのまま凍りついた。
(……なんだ、この手は)
器を持つその手は、コンクリートで荒れ、数々の難工事を潜り抜けてきた熟練のそれではなかった。
指先は細く、掌は柔らかく、あまりにも頼りない。
それは、重いスコップ一つ握ったことのない、「無力」という名の初期装備を割り当てられた脆弱なハードウェアだった。
水面に映っていたのは、疲れ果てた三十半ばの男の貌ではない。 泥と血に汚れ、驚くほど整ってはいるが、あまりに線の細い少年の貌だ。
(嘘だろ……。本当に、この頼りない筐体に閉じ込められたのか……!?)
かつて数億のプロジェクトを回していた技術者としての自負が、理不尽な暴力という名の致命的なバグによって粉砕されていく。 目の前の少女を守るどころか、介助されなければ生きられないという圧倒的な無力感。
(……いや、落ち着け。どう考えてもこの頼りない筐体が今の俺だ。これが今のスペック(現実)だ)
この異常な状態で、俺はただの「トシ」として、バグだらけの人生を再着工しなければならない。
そのおぞましいほど現実味を帯びた事実が、冷たい水の感触と共に、魂の奥深くまで浸透していった。
俺の意識は、ただの震えと吐き気の中から始まったのだ。
(……いいだろう。まだよくわからないが、まずはこのボロい住居の構造欠陥(不備)を洗い出してやる)
意識を失う寸前、俺の中の「現場監督」が、絶望の底で静かに現状認識のコマンドを叩いた。




