一族のパージ(削除) ―― 接続解除(ディスコネクト)の痛み
(……視界に、砂嵐のようなノイズが走る。システムが、この現実を『実行』することを拒絶しているのか)
八雲山の広間に横たわっているのは、もはや言葉を交わした叔父たちの姿ではなかった。
床に散乱する物理的制圧の残渣。
鉄錆に似た生々しい血の匂いが、鼻腔の奥にある不快なアラートを激しく打ち鳴らしている。
その凄惨な「現場」を覆い隠すように、日向族が持ち込んだ沈丁花の香りが、傲慢なまでの消臭プロトコル(強制上書き)として充満していた。それは、敗北した者の絶望さえも「不要なノイズ」として処理し、無機質な清潔さで塗り潰そうとするヒムカの意志そのものだった。
「――全プロセスの停止を確認。月読族の反乱因子は、すべて『デバッグ(処刑)』完了した」
高座から見下ろすアマテラスの側近の声は、かつての工事現場で聞いた巨大重機のアイドリング音よりも冷たく、重く、俺の心臓を物理的な振動で圧迫した。俺、トシは、泥と血が混じった石床に膝をつき、ただガタガタと震える自分の掌を凝視することしかできなかった。
中身は三十四歳の、数多の難工事を竣工させてきた中堅ゼネコンの現場監督だ。
だが、今の俺を包んでいるのは、あまりにも脆弱なハードウェア(子供の肉体)だ。
プロとしての理性が「今すぐ立ち上がって交渉しろ」と命令を送っても、恐怖という名の致命的なシステムエラーが回路を焼き切り、指先一つ動かすことを許さない。このコンフリクト(自己矛盾)こそが、今の俺を苛む最大の問題だった。
「これより、月読族の残党に対する『最終処理』を宣告する」
無機質な宣告が続く。
「反乱に加担した者の眷属、および直系の血脈は、本日この瞬間を以て出雲の全サーバーからパージ(永久追放)とする。衣類、食糧、そして『名』という名のライセンス、すべてを没収した上で、この聖域より排除せよ」
広間の隅に固められていた月読族の女子供たちが、堰を切ったような悲鳴を上げた。
それは、これまでこの地のインフラ管理や祭祀という中枢機能を担ってきた一族にとって、社会的な死、あるいは「存在そのもののデリート」を意味していた。
だが、俺たちの絶望は、それでは終わらなかった。
「ただし。……スサノオ様の血を直接引く二名、トシとミツ。お前たちは、ヒムカと出雲の統合を保証する共有資産である。……この地に残り、我らの管理下でその機能を果たせ」
(ふざけるな……。母さんを廃棄しておきながら、俺たちを『予備の資材』として手元に置くつもりか……!)
俺の隣で、ミツが激しく息を呑む音が聞こえた。
彼女の銀色の瞳――未来の綻びを数学的な精度で読み取ってしまうその瞳が、今、修復不能なエラーログを吐き出しながら、大粒の涙を零していた。
「兄様、嫌……! 母様と離れたくない……! 嫌よ、嫌よ!」
ミツの悲鳴は、物理的な音波となって俺の鼓膜を劈き、脳内の安全装置を次々と破壊していく。彼女は母、カミオオイチヒメの衣の裾を、白く細い指先が千切れんばかりに強く掴んでいた。
だが、ヒムカの兵士たちが、まるで故障した部品を撤去するように、無造作にその接続を引き剥がしていく。
「トシ。……こっちにおいで」
その時、一族の列から引き立てられようとしていた母、カミオオイチヒメが、俺に向かって細い腕を伸ばした。 兵士たちの槍の穂先が彼女の喉元を狙う中、彼女は慈愛に満ちた、しかし死を覚悟した「管理者」の貌で俺を見つめていた。
俺は膝を擦りむきながら、必死に母の元へ這い寄った。
ようやく触れた彼女の手は、驚くほど冷え切っていた。現場の熱気も、管理者の威厳も失い、ただ震える一人の人間としての、致命的なまでの低体温ログ(死への予感)。
「トシ、ミツ泣かないで。……よく聞きなさい。あなた達は、この一族が数千年かけて積み上げてきた知恵の、最後のバックアップなのよ」
母の細い指先が、俺の泥に汚れた頬を撫でる。その触覚だけが、今、このバグだらけの世界で唯一の「正解」のように感じられた。
「ミツ、この演算盤を大切にしなさい。月読の女たちが命を懸けて守り抜いてきた一族の秘宝よ」
母は震える手で、ツクヨミの演算盤をミツの細い腕に抱かせた。
「トシには『知恵』を、ミツには『時』を。二つの権限が揃えば、どんな絶望の泥濘からも、新しい現場をビルドできるわ」
母の言葉は、単なる別れの挨拶ではなかった。それは、一族の全機能を託された、最も重い最終実行命令だった。
「母上! 母上……っ!」
俺の喉から漏れたのは、三十四歳の男の叫びではなく、ただの十一歳のガキの、惨めな泣き声だった。
「時間だ。……接続解除」
ヒムカの兵士が冷酷に告げ、母の身体を力任せに引きずっていった。
「兄様! 母様が――っ!」
ミツの絶叫が広間に反響し、彼女はそのまま意識をシャットダウンさせたかのように、石の床に崩れ落ちた。
母と一族を乗せた荷車が、冷たい朝靄の中へと消えていく。
残されたのは、意識を失ったミツと、一人、静寂の中に放り出された俺。
鼻を突くのは、もはや母の残り香ではなく、どこまでも冷たく研ぎ澄まされた、ヒムカの沈丁花の香りだけ。
(……ああ、分かった。これが、この現場の『本当の姿』か)
俺は、砕けた叔父の鉄器の欠片を、血が滲むほど強く握りしめた。
前世の三十四年、今世の記憶が、俺の脳内で激しく衝突し、一つの結論を導き出した。
愛する者を守れず、設計図さえ守れず、ただ身内がデリートされるのを平伏して眺めている。
これこそが、俺の人生における最大の、そして最悪の「絶望」だ。
だが。 俺の中の「現場監督」は、まだ死んじゃいない。
(……いいだろう。全部、保存してやる。母さんの手の冷たさも、ミツの悲鳴も、ヒムカの連中の冷徹な効率主義も。……この屈辱の味、すべてを復旧用のアンカーに変えてやる)
俺は、泥だらけの拳を石床に叩きつけた。 今は、この崩落を止めることはできない。
今は、この不条理なパージを受け入れるしかない。
だが、俺のシステムは、この絶望という名の地盤沈下を土台にして、必ずや再起動してみせる。
母が遺した「バックアップ」という名の呪い。
ミツという名の、唯一守るべき「リソース」。 そして、俺の脳内にある「土木」という名の「チート・コード」。
(見てろよ、クソ親父。そして、あのアマテラス……。あんたたちが作り上げたこのバグだらけの国家OS、俺が根底からリノベーション(再設計)してやる……!)
八雲山の冷たい風が、少年の細い肩を通り過ぎていった。 現場監督トシの、孤独で、そして最も過酷な「新規着工」は、この泥と涙、そして沈丁花の香りが立ち込める絶望の底から、静かに、しかし熱く、その火を灯したのだ。




