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短編(異世界恋愛)

王太子妃候補を辞めたら、殿下は招待状ひとつ出せないようです

掲載日:2026/03/23

「クラリエッタ・アルレイン。そなたとの婚約を解消する」


薄く唇を吊り上げ、フレデリック王太子殿下は言い放った。

天井から降りそそぐシャンデリアの光が、彼の鮮やかな金髪をまばゆく照らしている。

王宮の大広間を満たしていたざわめきは、一瞬だけ凍りつき――すぐに押し殺した息と囁きに変わった。


(……ここで取り乱すわけにはいかない)


王太子妃候補として、公の場で感情を見せぬよう叩き込まれてきた。


「理由を、お伺いしても?」


できるだけ静かに問うと、彼は待っていましたとばかりに顎を上げた。


「君は地味だ。愛想もなければ可愛げもない。私の隣に立つ者には、もっと人に愛される柔らかさが必要だ」


周囲の令嬢たちのあいだから、小さな吐息まじりの笑いがもれた。


「ヴィオラ。こちらへ」


フレデリックの隣まで進み出たのは、薄紫色のドレスをまとったヴィオラ・エウレット伯爵令嬢だった。

蜂蜜色の髪を揺らし、彼女は少し困ったように眉を下げている。

けれど、淡い翡翠の瞳の奥に宿る期待を、私は見逃さなかった。


「紹介しよう。新しい王太子妃候補だ。ヴィオラは君と違い、いつも明るく優しい。場を和ませ、皆に好かれる。彼女こそ、この国の王太子妃に――私に相応しい」


そう言って、フレデリックはヴィオラの手を取った。

彼女ははっとしたように目を見開き、頬を赤らめて俯く。


「そ、そんな……わたくし、恐れ多うございます……」


その仕草の完成度の高さに、私は妙なところで感心してしまいそうになった。


(なるほど……今夜のために、ずいぶん丁寧に整えてきたのね)


先ほど言われた言葉が、頭のなかで繰り返される。

地味。愛想がない。可愛げもない。

ヴィオラのような柔らかさもなく、灰がかった薄茶の髪はいっそう私を地味に見せる。


深い紺のドレスだって、王太子妃候補としてはふさわしい装いのはずなのに、積み重ねてきた努力まで一緒に切り捨てられた気がして――足元が揺らいだ。


それでも、ここで崩れるわけにはいかなかった。

私は息を整え、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。


「承知いたしましたわ、殿下」


まさか素直に受け入れられるとは思わなかったのか、フレデリックがわずかに目を瞬かせる。

私はそのまま続けた。


「婚約解消に異議はございません。ただ――」


深く息を吸う。


「王太子妃候補として私が担っておりました諸調整につきましても、本日をもって手を引かせていただきます」


「……諸調整?」


フレデリックが眉をひそめる。


「たとえば、茶会や夜会の招待状の文面確認、送付先の優先順位、席次案の整理、各家への返礼の選定――そのあたりですわ」


言葉を重ねるごとに、近くにいた侍女の肩がぴくりと揺れた。

文官の一人は、露骨に目をそらした。

フレデリックの青い瞳に、ひどく不愉快そうな色がにじんだ。


「そんなもの、君でなくとも回るだろう」


「ええ、もちろんですわ。殿下がそのようにお考えなら、なにも問題はございません」


一瞬、沈黙が落ちた。

すぐにヴィオラが慌てたように口を挟む。


「クッ、クラリエッタ様。そんな言いかた……まるで、殿下がお困りになるみたいではありませんか」


「まさか」


私はヴィオラに視線を向けた。


「皆さまに愛されるおかたが、新しくおそばにいらっしゃるんですもの。きっと、いままで以上にうまくまわりますわ」


周囲の何人かが、気まずそうに視線を交わした。

その様子にフレデリックも、この場が想定していたほど自分に都合よく進んでいないことに、ようやく気がついたらしい。

声音にわずかな苛立ちが混じる。


「負け惜しみはよせ、クラリエッタ。君はもともと、少し働きすぎるきらいがあった。余計なことまで抱え込んで、自分だけが役に立っているような顔をするのは……感心しないな」


その言葉に、なにかがすっと醒めた。


「――失礼いたしました」


私は一礼した。


「では、その()()()()()も含め、今後は一切なにもいたしません。どうぞお幸せに」


そう短く言い終えて下がろうとした――その時だった。

会場の端で、誰かが息を呑んだ。


そっと顔を向けると……こちらを見ていたロレンツ第二王子殿下と目が合った。

亜麻色の髪の下、いつもどおり静かな表情。ただ、灰色の瞳だけが鋭く冴えていた。


(……気づいたのかしら。私が口にした言葉の、『本当の意味』に)


けれど、もう関係のないこと。

前に向き直り、広間の端へと歩き出す。

背後で広がるざわめきは、もう気にしないことにした。


婚約は終わった。王太子妃候補としての役目も、今夜で終わりだ。

これ以上、ここに留まる理由はない。


大広間を抜ける直前、王妃付きの侍女長が、青ざめた顔で文官に何事かを囁くのが視界の端に映った。

文官もまた、血の気の引いた顔で手元の書類を見下ろしている。


(これなら、そう時間はかからなさそうね)


頭のなかは、妙に冷静だった。


フレデリックはじきに知ることになる。

王太子妃候補を辞めたのが誰で、困るのが誰なのかを。



 * * *



婚約解消から三日後。

王妃付きの侍女長に呼ばれ、私は王宮を訪れていた。


王妃宮から預かっていた儀礼書や家系図、そして私が作っていた招待客一覧の控え帳を返却するためだ。

儀礼書の類は、後ろに控えた侍女に持たせ、書き込みの多い控え帳だけは自分で抱えている。


婚約が解消された以上、私物ではないそれらを手元に置いておくわけにはいかない。

侍女長も、使いの者を通して、その場で内容を確かめたいと伝えてきた。


王妃宮へ向かう回廊は、妙に落ち着かない空気に満ちていた。

王宮の侍女たちが何通もの封筒を抱えて行き交い、そのたびに小声がすれ違う。


「ラドフォード公爵家にはもう、届けてしまったのに……」

「残りだけでも直して、今日中に出さないと……」


聞こえてきた囁きに、一瞬足を止めかけたものの、すぐに何事もない顔で歩みを進める。

侍女長の部屋の前まで来た時――やや刺々しい男の声が響いた。


「だから、その程度のことがなんだと言うんだ」


フレデリックの声だった。

扉は完全には閉まりきっておらず、隙間から部屋の様子がわずかに見えた。

机の上には、封筒と招待状らしき紙束がいくつも積まれている。


「殿下、その程度ではございません」


応じたのは侍女長だ。

普段は滅多に語気を強めない人なのに、さすがに声が張っている。


「今回は王妃主催の春の茶会にございます。西方の有力家をお招きし、関係をより深めるための場で、その筆頭たるラドフォード公爵家への不備は看過できません」


一拍置き、侍女長はさらに続けた。


「先に早馬で送ったラドフォード公爵家への招待状は、敬称が一段下のものになっております。これから出すベルンシュタイン侯爵家への文面も、未亡人である夫人宛ての形式になっておりません。加えて、送付順の一覧も家格順と一致しておらず――」


「細かすぎる」


フレデリックがぴしゃりと言い切る。


「どうせ招待することに変わりはないだろう。書き直したものを送れば済む話だ。あちらも、まさかそんな些末な違いで騒ぎはしない」


その言葉に、部屋の空気がぴんと張りつめたのが、扉の外にいる私にもわかった。

少し遅れて、ヴィオラの声が続く。


「そうですわ。招待状なんて、気持ちが伝われば十分ではありませんか? 細かなことは、侍女のかたがたにお任せしてしまえば……」


侍女長が息を詰める気配がした。


「問題は書き直しではございません。すでに誤ったものが届いております。直ちに詫びの使いを立てるべきです」


「必要ない」


フレデリックの返答は、あまりにも早かった。


「大げさなんだよ。たかが招待状の不備で、いちいち王家が頭を下げる必要がどこにある」


彼は、王妃主催の茶会を「友人同士の茶会」とでも思っているのだろうか。

ましてや王家からの招待状だなんて、どれほど特別なのかもわかっていない。

誰をどの順で招くか、どの敬称を使うか――たった一行で、相手への認識も敬意の度合いも伝わってしまう。


王妃宮の茶会準備は本来、侍女長と文官が担う。

それでも私は、次代の王妃教育の一環として、その最終確認に加わっていた。

毎回、一覧表と家系図を照らし合わせ、侍女や文官と何度も確認してきた。

誤字より先に、人の顔を潰さないために。


(……って、いつまで立ち聞きしてるのよ、私も)


扉を叩こうと手を伸ばす。

先に内側から扉が開き、侍女長が私に気づいた。


「……クラリエッタ様」


部屋のなかの視線が、一斉に私に集まる。

フレデリックは露骨に眉をひそめ、ヴィオラは気まずそうに目を泳がせた。


「失礼いたしました。お預かりしていたものを、お持ちしました」


私は一礼し、抱えていた控え帳を差し出す。

背後の侍女も進み出て、儀礼書や家系図を侍女長へ渡した。

侍女長はそれらを受け取りながら、ひどく複雑そうな顔をする。


その横で、机上の招待状が一枚、私の目に入る。

日付の表記。敬称。送付先。ざっと見ただけで、三つはまずい。

けれど、もう口を挟む立場ではない。


「用件はそれだけか」


フレデリックが不機嫌そうに問う。

私は静かに頷いた。


「ええ。これで失礼いたしますわ」


軽く一礼し、踵を返そうとした――その時だった。

廊下の向こうから慌ただしい足音が響き、血相を変えた文官が部屋の入口に現れる。


「殿下!」


返事も待たずに踏み込み、息を切らしながらフレデリックに差し出したのは、一通の書状だった。


「ラドフォード公爵家より使者が参っております。招待状の件で、至急お耳に入れたいと……こちらは、先に預かった文にございます」


侍女長がさっと顔色を変える。

フレデリックはそれを乱暴にひったくった。

数行目に目を落とした途端、その表情が目に見えて険しくなる。


「なんだ、これは」


低く押し殺した声に、文官が唇を震わせながら報告する。


「公爵夫人より、『王家より届いた招待状に看過できぬ不備がございましたため、今回の茶会への出席は見合わせます』と……」


部屋の空気が凍りついた。

ヴィオラの顔から血の気が引き、侍女長は目を閉じる。

フレデリックだけが、信じられないものを見るように書状を睨んでいた。


「こんな招待状ごときで……」


吐き捨てるようなその言葉に、侍女長は目を閉じたまま淡々と続ける。


「ラドフォード公爵家が欠席なされば、ほかの西方貴族も何事かと不信感を募らせましょう。そうなれば、王妃殿下の茶会そのものが軽んじられ……ひいては王家の威にも傷がつきかねません」


そのひと言で、フレデリックの顔色がわずかに変わった。

私は心のなかだけで首を振る。


招待状ひとつ。

けれど、その一通を間違えれば、損なわれるのはただの面子ではない。

王家の体面に傷がつき、王妃が築こうとしていた場にも影を落とす。


私はもうなにも言わず、一礼すると今度こそ部屋を出た。

背後ではなお、慌てた文官の声と、苛立ちを露わにしたフレデリックの声が重なっていた。


――まだ、最初のひとつにすぎない。

それでも、綻びはもう生じていた。



 * * *



それから五日後。

王妃主催の春の茶会は、予定どおり開かれることになった。


私はアルレイン侯爵家の娘として、母とともに王宮を訪れていた。

婚約が解消されたからといって、侯爵令嬢としての立場まで消えるわけではない。

むしろ、こんな時に欠席すれば、侮辱されて逃げたように見えるだけだ。


春の茶会らしく、夜会のときよりいくぶん明るい青のドレスに身を包み、王妃宮の東の間へ向かう。

その手前まで来たところで――会場の空気がおかしいとわかった。


本来なら、招かれた家々は家格と年齢、当主の有無や同伴者の顔ぶれまで踏まえて、淀みなく案内される。

誰を先に通すか、どこで一礼を挟むか、どの侍女がどの家につくかまで、すべて決まっているはずだった。

それなのに今日は、入り口で人が滞っている。


「お待ちくださいませ、ただいまお席を――」

「ですが、先ほどはこちらのご夫人が先に……」


侍女たちの声が、わずかに上ずっている。

招待客たちも、表立って不満を口にはしないものの、交わされる視線にはあきらかな苛立ちがにじんでいた。

母が扇の陰で小さく息をついた。


「……これは、ひどいわね」


私も、返す言葉がなかった。

視線だけを巡らせると、会場中央では、フレデリックが余裕を失った顔で、侍女になにか指示を飛ばしていた。


そこでもうひとつ、あることに気づく。

本来なら真っ先に迎えられていておかしくない、ラドフォード公爵夫人の姿が見えない。


(やっぱり……手紙に書いてあったとおり、欠席されたのね)


その重みをわかっていないのか、フレデリックの隣に立つヴィオラは、にこやかに招待客を案内していた。


「こちらのお席のほうが、華やかで素敵ですわ。お嬢様によくお似合いですもの」


そう言ってヴィオラが促したのは、ベルンシュタイン侯爵夫人ではなく――隣にいた姪だった。

未亡人である侯爵夫人を後回しにし、若い娘を先に通す時点で順番が違う。

しかも、侯爵夫人へ示した席も、その立場にふさわしいものではなかった。

ベルンシュタイン侯爵夫人の眉がぴくりと動いた。


近くで、誰かが囁く。


「……以前は、こうした乱れは一度もなかったのに」


文官たちが、苦い顔で小声を交わしていた。

クラリエッタ様がいらした頃は、招待客一覧に注記まで入っていた。

今回だって控えは残っていたのに、殿下が


「そこまで気にする必要はない。わかりやすい順で並べれば十分だ」


と仰ったと――そんな断片だけが耳に届いた。


わかりやすさなど、王宮の席次では何の助けにもならない。

必要なのは見た目の整いではなく、そこに座る人々の立場と感情が、どこでぶつかるかを読むことだ。


少し離れた場所で、また小さな混乱が起きる。


「失礼、そちらは本来わたくしの席ではなくて?」

「い、いえ、その……本日の席順は、こちらでございます」


侍女の額にうっすら汗が浮かぶ。

その場へ駆け寄ったフレデリックは、状況をろくに確かめもせず、


「席くらい柔軟に座ればいいだろう」


と言ってしまった。

空気が、また一段と冷えた。

隣のヴィオラもさすがに笑みを引っ込め、不安げにフレデリックを見上げる。


柔軟に。そのひと言で済ませていいのなら、最初から席次表など要らない。

会場の隅では、侍女と文官が焦った声で 言葉を交わしている。


「ベルンシュタイン侯爵夫人を、このまま第三席に置くのはまずいわ」

「わかっている。だがいまさら動かせば、それはそれであからさまだ」


そのやりとりに、今さら胸は騒がなかった。


私はかつて、この会場で誰をどこへ置くかを前夜まで何度も見直してきた。

見栄えのためではない。誰にも恥をかかせず、王家の威を保ちながら、互いの不興を最低限に留めるために。


それをフレデリックは、ずっと「細かすぎる気遣い」くらいに思っていたのだろう。

彼が切って捨てたものの重さが、いま目の前に出ているだけだ。


やがて耐えきれなくなったらしいフレデリックが、近くの文官へ低く吐き捨てた。


「たかが王太子妃候補が抜けた程度で、ここまで乱れるはずがない」


彼の声音には、信じたくない現実を押し返そうとする焦りがにじんでいた。

けれど、その言葉そのものが答えだった。


軽いものではない。抜けた()()でもない。

なにがこの場をかろうじて形にしていたのかを、彼だけがまだわかっていない。

私は扇を静かに閉じた。



 * * *



春の茶会は、最後まで綻びを隠しきれないまま終わった。


表向きには、何事もなく済んだことになっている。

けれど、ラドフォード公爵家の欠席も、席次の乱れも、招待客たちの記憶にははっきり残っただろう。


母とともに退席し、王宮の玄関広間に出たところで――ふいに後ろから声がかかった。


「クラリエッタ嬢」


振り返ると、ロレンツ第二王子殿下が立っていた。

亜麻色の髪が傾いた陽に照らされている。


「まあ、ロレンツ殿下」


一礼した母に、ロレンツはかしこまった態度のまま口を開く。


「お帰りのところ申し訳ありません。クラリエッタ嬢に少しだけ、お話ししたいことが」


母は私に小さく頷き、そのまま少し距離を取った。

私はロレンツに向き直る。


「ご用件を伺っても?」


「……あなたが諸調整から手を引くと口にした時点で、今日の茶会のような混乱がいずれ起こるだろうとは思っていました」


その言葉に、あの夜、ロレンツから向けられた視線を思い出す。


「兄上は、ただ婚約者を変えただけのつもりなのでしょうね。けれど実際には、それだけでは済まなかったことが――今日の茶会で、表に出てきた」


そんなふうに言われるとは思っていなくて、すぐには口を開けなかった。


「……買いかぶりすぎですわ」


なんとかそう返すと、ロレンツは静かに首を横に振る。


「いいえ。招待客一覧の注記も、席次の配慮も、誰を先に通し、誰をどこへ置くべきかまで――あなたが整えていたのでしょう」


指先がかすかに強張った。


「ご覧になっていたのですか」


「ええ。何度かお見かけするうちに、兄上の隣に立つあなたは……ただ微笑んでいるだけの令嬢ではないと、わかりました」


そのひと言が、思いのほか深く落ちた。

王太子の周囲が滞りなく回るたび、それはいつだって、フレデリックの手柄として受け取られてきた。

裏で私がしてきたことに、わざわざ目を向ける人などいないと思っていた。


「少なくとも私は、あなたがなにをしてきたか知っています」


今度こそ、返す言葉も見つからず、視線を落とす。

ロレンツは淡々と続ける。


「今日の茶会の影響は、決して小さくありません。このままでは、西方との関係を深めるどころか、王家への印象まで損ねかねない。私は母上に、改めて席を設けるよう進言するつもりです」


そこで一度、言葉を切る。


「その際、あなたに助言をお願いしたい」


私は顔を上げ、彼の顔をじっと見た。


「私に……?」


「ええ。兄上のためではありません。王家のために――そして、あなたがしてきた仕事を、なかったことにしないために」


押しつけるような響きはなかった。

ただ当然のように、私のしてきたことを必要なものとして扱っている。

その言葉は、不思議なくらいまっすぐ胸に落ちた。


「……少し、考えさせてくださいませ」


「もちろん。すぐに返事を、とは申しません」


ロレンツは、ほんのわずかに表情を和らげた。


「お引き止めしてしまい、失礼しました。どうぞお気をつけて」


「はい」


小さく一礼し、私は母のもとへ戻る。

その足取りは、まだ軽いとは言えない。

けれど、張りつめていた気持ちは、ほんの少しやわらいでいた。



 * * *



それから十日後。

私は再び王宮を訪れていた。


今度は王太子妃候補としてではなく――王妃たっての要請を受けて、西方の有力家を改めて招いた小規模な茶会の助言役として。


会場は、前回より規模を絞った王妃宮の東の間だった。

招く顔ぶれも、席順も、侍女の配置も、すべて見直した。


誰を先に通すか。

どの家とどの家のあいだには必ずひとつ席を挟むか。

どこで王妃に話を引き取っていただくか。


控え帳に印を重ね、侍女長や文官と何度も確認する。

以前なら当然のように流れていたやり取りに、今は小さな緊張と、それ以上の丁寧さが混じっていた。


そして、茶会当日。

招待客たちは、今度こそ淀みなく案内された。

侍女たちの足取りは落ち着き、文官の額にも余計な汗は浮かんでいない。


ラドフォード公爵夫人が入室された時、ロレンツは自ら一歩前へ出た。


「先日は、招待状の不手際でご無礼をいたしました」


まず非礼を認め、そのうえで言い訳はしない。

その潔さに、夫人の表情がわずかにやわらぐのが見えた。


「本日はお越しいただき、ありがとうございます」


「……前回は、欠席という形で返答いたしました。ですが王妃殿下より、改めてお招きと、直々にお詫びのお手紙まで頂戴しております。そこまでしてくださったのですから、これ以上はこちらが無礼にあたりましょう」


「お心遣い、確かに受け取りました」


押し返しも、余計な取り繕いもない。

その受け止めかたに、夫人はもうなにも言わず、静かに席へ向かった。


私は少し離れた場所から、その流れを見守っていた。

前回のような混乱は、もうない。

席は正しく人を収め、言葉は過不足なく交わされ、場は穏やかに整っていく。

それだけのことが、どれほど難しいか――私はいやというほど知っている。


「クラリエッタ嬢」


王妃に呼ばれ、私は一歩前へ出た。


「本日の席次と進行については、クラリエッタ嬢に助言をいただきました。おかげで、ようやく皆さまをきちんとお迎えすることができましたわ」


やわらかな声に、思わず目を見開く。

こういう場で、こういう形で、私の名が表に出ることはこれまで一度もなかった。


貴婦人たちのあいだに、ざわめきが広がる。

けれどその意味は、少しずつ変わっていった。

驚きと納得、そして遅れて混じる理解。


「なるほど……」

「では、やはり先日の乱れは……」


そんな囁きが、聞こえないふりをしても耳に入る。


「今日の場が滞りなく進んだのは、クラリエッタ嬢の働きによるところが大きいでしょう」


続けたのはロレンツだった。

その声に、少し離れた場所にいたフレデリックの肩がぴくりと揺れる。

彼の後ろで、ヴィオラもまた強ばった顔のまま立ち尽くしていた。


「兄上が手放したものの重さを、私は軽く見るつもりはありません」


穏やかな口調のまま、逃げ道のないひと言だった。

フレデリックがなにか言い返そうとしたのがわかった。

けれど周囲の視線を受け、結局ひと言も発せない。


その沈黙だけで、もう十分だった。

私は深く一礼した。


「身に余るお言葉ですわ」


そう答えた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

少なくとも、あの夜のように言葉を飲み込むことはなかった。



 * * *



茶会の終わり際。

招待客たちの視線が少し散った隙に、フレデリックが低く名を呼んだ。


「……クラリエッタ。あの場では、言葉が過ぎた」


あの場とは、どの場を指すのやら。

振り返りはしたが、答えはしない。


「お前が戻れば、まだ間に合う。ヴィオラでは、ああいう細かな調整までは務まらない。表向きはあれを立てておけばいい。お前はこれまでどおり裏で支えれば――」


あまりの言い草に、逆に頭が冷えた。


「……殿下」


静かに呼ぶと、フレデリックはまだ取り繕えると思ったのか、わずかに息をつく。


「それは私を戻したいのではなく、私がしていた仕事を戻したいだけでしょう」


その顔から、目に見えて余裕が剝がれた。


「なにを――」


「妃候補としてではなく、都合のいい働き手として必要だと……そう仰っているのですわ」


彼はなにも言い返さない。言い返せないのだ。

それが答えだった。


「フレデリック、もう結構です」


張りつめた声に、彼がはっと振り返る。

いつの間にか、少し離れた回廊の角に王妃が立っていた。


「王太子妃候補を二人並べ、片方に愛想を、片方に実務を求めるおつもりでしたの?」


王妃は冷えきった眼差しで息子を見た。


「……見苦しいにも程があります」


フレデリックの唇がわずかに動く。

けれど、ひと言も出てこない。


私は王妃に深く一礼した。


「失礼いたします」


もう、フレデリックを見ることはなかった。



 * * *



茶会はそのまま、大きく乱れることもなく終わった。

招待客たちを見送り終え、控えの間へ戻る途中。

廊下の窓からやわらかな西日が差し込むなか、背後から名を呼ばれた。


「クラリエッタ嬢」


振り返ると、ロレンツが立っていた。


「本日はありがとうございました」


そう言って、ロレンツは丁寧に一礼したので、私は思わず首を横に振った。


「おやめくださいませ、殿下。礼を申し上げるのはこちらですわ。王妃殿下のお顔を立てることができたんですもの」


「それだけではありません」


彼は静かに私を見つめた。


「今日、皆の前であなたのお名前を出したのは……あの場にふさわしいかたの功が、曖昧なままにされるのを見過ごしたくなかったからです」


「……そこまでしてくださるとは、思っておりませんでした」


「あのまま、曖昧にしたくなかったのです」


迷いのない返答だった。


「それと、もうひとつだけ」


私は黙ったまま、次の言葉を待つ。


「兄上のもとへ戻ってほしいとは申しません。けれど――これから先、私のそばにいていただけませんか」


灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。


「王家のため、というだけではありません。私自身が、そう望んでいます」


思わず俯いた。頬が熱を持つ。

あの人の言葉とは、まるで違った。

都合よく物事を回すためではない。

必要とされているのは、私自身なのだとわかった。


「……軽々しくお返事できることではありませんわ」


ひとつ息をついて、顔を上げる。


「それでも――あなたのおそばになら、いたいと思います」


ロレンツの表情が、ほんのわずかにやわらいだ。


「ありがとうございます」


差し出された手に、私は少しためらってから指先を重ねた。

あたたかい、と思った。


廊下の向こうでは、まだ茶会の名残のざわめきが遠く続いている。

けれど、私はもう振り返らない。

差し込む春の光のなかで、そのぬくもりに、そっと肩の力を抜いた。



【完】




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