その頃、ウィズモアは…
「ウィズモア、ここは任せたぞ!」
えっ!えっ?えぇっ!!それはウィズモアにとって、寝耳に水の事態だった。
いつかそういう状況に対峙する時がやって来るとは思っていた。でも、それはまだ先の話だと思っていた。切羽詰まった状況ということもあって、シンザーは風のようにいなくなってしまった。
一人残されたウィズモアはパニックになりかけたが、ギリギリのところで冷静さを保った。今後のことを考えると、好奇心だけで物事を見ていては駄目だ。それは野次馬のすること…これからの私は違う。そう決意したんだ。だったらここは私一人で何とかするしかない。
覚悟を決めると、パニクりかけていたのが嘘のように、ウィズモアは急に冷静になった。いつも使っている錫杖を鏡界から引っ張り出すと、まずはこの状況を分析することにした。
あの黒い霧はタコの墨のようなもので、追っ手が姿を見失っている隙に逃げおおせるつもりのようだ。だから、黒い霧自体にはこれといった害はない。とは言え、テネラニの作品にまったく影響がない訳ではなさそうだ。
だったら、これで…ウィズモアは錫杖を振り、黒い霧の行く手を塞ぐように結界を張った。これは不可視の盾を遥かに強力にした魔法。形も自由自在に変えることができる。これでいい…切り裂き男が奥に逃げると見せかけてこっちに来ても、間違いなく止められる。
次にやるべきことは、この黒い霧の排出だ。ここでウィズモアは自身がミスを犯していることに気が付いた。画廊の奥のことが分からない!
シンザーにテネラニの絵の素晴らしさを分かってもらおうと、夢中になって説明していたのは失敗だったな…でも、仕方がないよね。こんなことが起きるなんて、シンザーだって思ってなかったはずだし。
言い訳じみたことを言っている自覚はある。確かなことは、それを想定していなかったから画廊の奥のことなどまったく気にしていなかった、ということだ。黒い霧の排出には送風の魔法が必須だ。でも、どこに掛ければいいのか?それが分からない。
仕方がない…ウィズモアは少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。分からないのであれば、あちこちに掛けちゃおう。そして、その様子を見ながら対処すればいい。
そうと決まれば話は早い。ウィズモアは見えない画廊の奥に、次から次へと送風の魔法を掛けていった。
闇雲に掛けられた送風の魔法は、なかなか効果を発揮しない。それでも霧の粒子の動きを見ながら送風の魔法を掛け直し、不必要なものは解除していく。根気強くこの作業を続けていくと、少しずつ黒い霧の濃度が薄まってきた。
状況が分かってくると、さらに効率的に黒い霧を排出できるように最適な位置に送風の魔法を掛けていく。どうやら奥にも出入口があるようで、黒い霧はそこから排出されているようだ。
だったらそこに黒い霧をどんどん送り込んでしまおう。外から見ると、火事でも起こっているんじゃないかと勘違いされそうだけど、気にしたら負けだから…ウィズモアは自分にそう言い聞かせて、黒い霧をどんどん排出していく。やがて黒い霧は跡形もなく消え失せた。
「あの…大丈夫ですか?」
一仕事を終えてホッと一安心しそうになったが、そういう訳にもいかない。ウィズモアは人質にされた男性を慮った。
人質の男性はまだショックから立ち直れていないようで、茫然自失としている。それでもウィズモアに声を掛けられたことに気が付いて、こくこくと頷いた。
心ここにあらずという感じだけど、たぶん大丈夫なんじゃないかな…ウィズモアはそう判断した。それじゃあ、もう一つやるべきことがあるので、それをやってしまおう。
「みなさん、申し訳ありませんが、指示があるまで画廊を出ないようにしてください。お願いします」
ウィズモアは丁寧な口調で画廊にいる人々に要請し、深々と頭を下げた。
自分にこんなことを言う権限があるのだろうか?それはウィズモアにもよく分からない。でも、事ここに至ってはしょうがない…何か問題があったらシンザーのせいにしてしまおう。任せたぞ!って言ったのはシンザーだからね。
どうなるのか不安だったが、物腰柔らかなお願いが功を奏したようだ。画廊から出ていく人はいなかった。この後は聞き込みをすることになるはずだが、自分が率先してやっていいのかと言われると…それは違うような気がする。それでは、自分がやるべきことは何か?
ウィズモアは再び人質にされた男性に歩み寄った。今は画廊の女性スタッフが付き添ってくれているが、あの切り裂き男に突き飛ばされた際に頬を切ったようだ。そこをハンカチで押さえながら、ぼんやりと虚空を見つめている。
「治しますので…ハンカチを外してもらえますか?」
男はハッとしたようにウィズモアを見やった。どうもウィズモアが近付いてきたことに、気付いていなかったようだ。
それでも男はウィズモアの求めに応じ、ハンカチを取った。あんなことに巻き込まれるなんて、思ってもみなかったんだろうな…ウィズモアは動揺を隠せない男の頬に、いとおしむように手をかざした。
ルビーのような深い真紅の光が、ウィズモアの手に生じる。状況を考えると、傷の治療だけでなく気持ちを落ち着かせる魔法もセットで掛けた方が良さそうだ。光が収まった時には男の傷は塞がり、落ち着きを取り戻したように見えた。
「あくまでも応急処置なので…後で診療所に行ってくださいね」
大事なことなのでウィズモアはしっかりと念を押し、それに対して男はこくりと頷いた。
これでやるべきことはすべてやったと思う…そうなってくると、ウィズモアは急に不安になってきた。シンザーはどこまで追いかけていったんだろう?早く帰って来ないかな…。
それほど長い間、一人で待っている訳ではなかった。それでも随分と待っているような気がする。やきもきする時間をどれだけ過ごしただろう…ようやくシンザーが戻ってきた。




