額縁
最後に訪れるのは、ロマネラが待つセルヴェンカ家の邸宅だ。その離れにあるアトリエで、ロマネラと会うことになっている。そこは間違いなくテネラニが使っていたアトリエだ。離れに案内されたウィズモアは、シンザーに倣って平静を装っているが、あちこちを見て回りたい衝動を必死になって抑えていた。
「夫のスケッチブックです」
一方でテネラニに対して特に何も思っていないシンザーは、淡々と話を進めていく。まずはロマネラに頼んでいたテネラニのスケッチブックを見ることにした。芸術の道標に掲載されているものとの違いはないか?それを確認するためだ。
「拝見します」
スケッチブックを手に取ったシンザーは、そこに描かれたスケッチを1枚ずつじっくりと確かめていった。違いはない…あのツバキのスケッチも同一のものだった。
「やはり、そうでしたか」
それを見たシンザーは、自身が新たにした見立てが間違っていないことを確信した。
「何がですか?」
ロマネラの声が少し硬い。シンザーは若干の緊張感を見いだしていた。
「寄り添うツバキに描かれていたのは、テネラニ画伯とノガラ・ラベルフィーユではなかった…ということです」
だから、シンザーは自信を持って断言した。
「どういうことですか?」
シンザーが何を掴んだのか…それを知りたい。ロマネラはその気持ちを抑えきれないでいる。
「あのツバキはレガルディア第15邸宅に植えられているもの。邸宅の管理をしている老人に話を聞いてきました。テネラニ画伯がこのツバキを写生したのは去年の3月以前…つまり、寄り添うツバキという絵は、遺作とは言え、その構想はかなり前からできていたことになります」
論理的に考えると、シンザーの言う通りになる。
「それで?」
だから、ロマネラからはそれ以外の言葉は出てこなかった。
「しかし、ノガラ・ラベルフィーユはテネラニ画伯と恋に落ちたのは去年の春…桜が満開の頃だったと言っていました」
このずれが意味することは何か?それはロマネラにも分かっているはずだ。
「桜が満開…ということは4月。あの2人の恋愛が始まった時、ツバキは既に散っていたことになります」
このアトリエへの興味は一先ず置いておき、ここでもシンザーの真似をした丁寧な口調で、ウィズモアがロマネラに事実を指摘した。
「そうよ。あなた達のご推察通り。あの女は嘘を吐いているのよ」
愚かなノガラを嘲笑するようにロマネラは言い放った。
「だって、寄り添うツバキに描かれているのは、この私だもの」
ロマネラは勝ち誇ったように自説を唱えたが、それを聞いたシンザーは内心でほくそ笑んでいた。思うつぼとはこのことだ。
「ですが、もし2人が付き合っていなかったとしたら、心中はもちろんのこと、不倫のもつれによる殺人など起きるはずもないという不思議なことになります」
シンザーは感情を表に出すことなく、淡々と事実を指摘した。
「えっ…」
今になって自らが墓穴を掘ったことに気が付いたロマネラは、言葉を失っている。
「あの絵に描かれていた花は、誰のことでもなかった…そうは考えられませんか?テネラニはただ、レガルディア第15邸宅に咲いていたツバキを写生した。私にはそう思えます」
ウィズモアは過去の経験をもとにそう主張した。
「つまりは…ただの写生だったと?」
ロマネラはウィズモアの主張を繰り返すことで、落ち着きを取り戻そうとしているように見える。その様子を見ながら、シンザーは次なる手を見いだしていた。
「ええ、ただの写生です。純粋な写実に過ぎない絵が見る者の魂を揺さぶる。そのような事例は枚挙に暇がありません。そして、それが芸術というものではないでしょうか?」
ウィズモアは芸術の分野に造詣が深い。だからこそ、そう思うのだ。
「芸術論は人それぞれではないでしょうか?」
芸術の分野への造詣の深さでは、ロマネラはウィズモアに勝るとも劣らない。だから、余裕を持って答えた。
「あの額縁が気になっているのですがね…何のために額縁だけ飾ってあるのでしょう?」
得意分野の話になったことで、ロマネラは窮地を脱したと思っているはずだ。だから、シンザーはまったく別の話題をぶつけてみることにした。
シンザーが指摘した通り、そこには絵の入っていない額縁が飾られていた。重厚感のある木製のフレームには複雑な彫刻が施され、それ自体が芸術品と言っても過言ではないものだ。
「テネラニが生きていたら、この先どんな絵を描いただろう…あの額縁を見ながらそんなことを想像するんです。そうすると、あの人を近くに感じることができます」
ロマネラは少しばかり沈んだ声で、その額縁の説明をした。一聞すると、それは筋が通っているように思える。
「なるほど…ですが、この額縁は芸術の道標に刷られている寄り添うツバキの額縁と同じです。ギャラリーに飾られている寄り添うツバキは、違う額縁を使っていました。どうしてわざわざ額縁を変えたのでしょうか?」
それは芸術の道標を初めて見た時に気付いていたことだ。先程のロマネラの説明とは、明らかに矛盾している。
このシンザーの疑問に、ウィズモアはハッとしてしまった。念のために持ってきていた芸術の道標を見てみると、確かに寄り添うツバキはこの額縁に入っていた。ギャラリーに展示してある寄り添うツバキは、シンプルでありながらシックな額縁を使っていたはずだ。どうして額縁を変えたんだろう?
「ああ…あれは、ギャラリーに展示する際に、他の作品とのバランスを考えて変えたんです」
どうやら予想外の質問だったようで、答えるロマネラの声は上擦っている。
「そうでしたか」
「私は用事がありますのでこれで」
この場は一先ず納得して引き下がったシンザーに、ロマネラは冷たい声で応じると、アトリエを後にした。
結局こうなるんだよね…ノガラの時もそうだった。あと一歩のところで逃げられてしまう。でも、ここは引かざるを得ないだろう…ウィズモアはそう思っていたが、シンザーはそうではなかった。
「ん…帰らなくていいの?」
てっきりさっさと帰るものと思っていたウィズモアだが、シンザーはその予想を裏切り、アトリエを興味深そうに観察している。もちろん、ウィズモアも興味はあるが、長居をするのはどうかと思う。
「帰れとは言われてないからな。少しばかり見学させてもらっても構わないさ」
確かにロマネラはノガラのようにはっきりと帰れとは言わなかった。それでも普通は帰るところだよね…ウィズモアはそう思う。
よく言えば行動が大胆、悪く言えばずうずうしい…本人には決して言えないけれど、ウィズモアには思いもよらないことを平気でやるのがシンザーだ。やがてシンザーはあの額縁をじっと見つめ始めた。
『特に情熱は感じないな』
額縁を見つめながら、シンザーはギャラリーで寄り添うツバキを見た時のことを思い出していた。あの時はそれほどいい絵だとは思わなかったが、この額縁に飾られていれば違っていたのだろうか?
そんなことを考えながら額縁を見ていると、彫刻の部分に何かがついていることに気が付いた。ゴミか?いや違う…よく見ると、それは光沢のある紺色の繊維片だった。そして、シンザーはその繊維片に見覚えがあった。
そういうことか…ここに来て、シンザーは色んなものが繋がっていくのを感じていた。この見立てが正しければ、展示されている寄り添うツバキは贋作だ。そして、本物はおそらくあの男が持っている。やはりデレインに観察させておいたのは正解だった。ならば、答え合わせをすることにしよう。




