ある画家の死
その日の夜、テネラニ・キリマベラジはアトリエでお白湯を飲みながらぼんやりしていた。最近のテネラニはずっとこんな感じだ。もっとも妻のロマネラ・セルヴェンカも、自身のよき理解者で最大の支援者であるラグーザ・レム・レガルディアも、それほど気にしてはいなかった。
芸術家というものは…いや、芸術家に限らず新たに何かを作り出すことを生業としている者は、一つの作品を作り終えるとしばらく休息が必要なのだ。だから、2人は気付いていない…テネラニはもう何も産み出さないということを。
何とはなしに、テネラニは壁に目をやった。そこには1枚の絵が飾られていた。その絵は、複雑な彫刻が施された重厚感のある木製のフレームを圧倒するような存在感を持っている。それは自身の遺作となる寄り添うツバキだ。
『寄り添うように咲く二輪のツバキが綺麗ね…』
それがこの絵を初めて見たロマネラの感想だった。寄り添うツバキ…その言葉の響きが気に入り、テネラニはこの絵の題名とした。
「それは自分とロマネラを表しているんだよ」
その時のやり取りを思いだし、テネラニは声に出して呟いた。
それは嘘だ。あの絵を描いている時、テネラニはロマネラのことなどこれぽっちも考えていなかった。そう言うとロマネラが喜ぶと思ったから、そう言ったのだ。思った通り、ロマネラはとても嬉しそうだった。
すべてを終わりにする時がやって来た…もう十分だ。だが、その前にやっておかなければならないことがある。テネラニは自身のアトリエになっている離れを後にし、母屋へ向かった。
なるべく音を立てないように中に入ると、テネラニは寝室へ向かった。そこには自分のベッドとロマネラのベッドがある。既にロマネラは眠っているようだ。規則正しく安らかな寝息が、この静かな寝室の唯一の音だった。
テネラニの手には、光を操る魔法剣リクトルースが握られている。その名の通り、刀身からは光が放たれているが、今はできる限り抑えている。朧げな光で足元を照らしながら、テネラニは忍び足で中に入った。
どこにもぶつかることなく寝室内のサイドテーブルにたどり着くと、そこに遺書を置き、あとは踵を返して寝室を出るだけ…だったのだが、最後にもう一度ロマネラの顔を見たくなった。この期に及んで…とは思うものの、これが今生の別れとなるのだ。それぐらいは構わないだろう。テネラニは光の魔法剣リクトルースをロマネラに近付けた。
その寝顔を見ていると、決心が鈍りそうになる。それでもテネラニは、彼女の寝顔を心に焼き付けるようにじっと見つめた。
自分には過ぎた女性だった。ロマネラがそれを知れば、そんなことはないと否定するだろう。それでもテネラニはそう思っていた。
ありがとう。だから、声に出すことなく礼を言った。そうしてテネラニが寝室を後にしようとした、その時だった。
「ぅん…」
静かな寝息をたてて眠っていたロマネラが、これまでとは明らかに違う寝言のような声を上げた。それを聞いたテネラニはギクリとし、慌てて明かりを消した。
光量を抑えていたものの、光の魔法剣リクトルースを近付けすぎてしまったのだろうか?だとしたら、とんだミスだ。息を殺し、テネラニはしばらく様子を窺った。もし、ロマネラが目を覚ましたら、バレないように遺書を回収しなければ…暗闇に包まれた部屋ではよく見えないが、すぐに行動に移せるように、テネラニはサイドテーブルがある方を見やった。
しかし、それは杞憂に終わった。闇の中でテネラニがヒヤヒヤしながらロマネラの様子を気にかける中、ロマネラは再び規則正しく安らかな寝息をたて始めた。
安堵の吐息を静かに吐いたテネラニは、光の魔法剣リクトルースを再び光らせ、足元を照らしながら忍び足で寝室を後にした。
アトリエに戻り、いつもの椅子に座ったテネラニは、光の魔法剣リクトルースをじっと見つめた。それはこのアトリエで絵を描き始めた頃に、ロマネラからプレゼントされた物。今日のように、夜遅くに母屋に戻る際には便利な代物だ。
だが、テネラニはもうどこにも行かない。今日だけでなく、光の魔法剣リクトルースは実に役に立ってくれた。もうお役御免だ。
ありがとう。再びテネラニは声に出すことなく礼を言った。
テネラニは机の上に光の魔法剣リクトルースを置くと、引き出しから別の魔法剣を取り出した。闇を操る魔法剣オルフェンだ。自身の命を絶つのに、これ以上相応しい物はないだろう。
テネラニは徐に立ち上がると、闇の魔法剣オルフェンを自身の左胸にあてがった。そして、それをためらいながら少しずつ突き立てていく。
痛い…痛い、痛い、痛い!
想像以上の激痛が走り、テネラニは顔を歪めた。揺るぎない決意をもって臨んだはずなのに、思わずその手を止めてしまう。何度も荒い息を吐いたテネラニは、やはりこんなことはやめた方がいいのでは…という思いに駆られた。
だが、迷いよりも怒りや絶望の方が大きかった。再びテネラニは手に力を込め、闇の魔法剣オルフェンを自身に刺していく。苦痛に顔を歪めながら、それでも手を止めることなく、自身の体にズブズブと飲み込まれるように刺していく。
その刃が心臓に達した時、闇の魔法剣オルフェンは死の魔法を発動した。テネラニの心臓は鼓動を止め、その体がゆっくりと床に倒れていく。
先程までは苦痛に歪んでいた表情が、今は満ち足りた晴れやかな表情になっていた。どうやっても望みが遂げられず、内心で激しい憤りを抱き、心が晴れなかった日々は終わった。テネラニは解放されたのだ。
この夜、一人の画家が自ら命を絶った。それがすべての始まりだったことなど、画家は知る由もない。それから半年程が経った。




