第五話:命の燃えカス
風は山小屋の壁を叩き、隙間からは室内に雪と共に入り込む。
悲鳴のような高い音と、暖炉から薪の爆ぜる音だけが、沈んだ室内を満たしていた。
ヴィンセントの額には冷や汗が滲んでいる。
眉間にしわを寄せ、痛みを押し殺すように特殊な呼吸法へと切り替えていた。
うめき声は一切洩らさない。元軍人としての意地だった。
ジョージはタオルでその汗をこまめに拭きとった。
ヴィンセントが何度も眠りに落ちかけるたび、頬を叩いて引き戻す。
「……寝るな」
「……クソ、こんな状況、寝るなって方が無理だろ」
ヘーゼルの瞳が微かに光を返したが、それもすぐに沈んだ。
ジョージは指を食い込ませるように手を握った。
「戻れ」
「……戻った」
「それでいい。じゃあ約束しろ」
「何を」
「朝、俺の悪口を三つ言う」
ヴィンセントは弱々しく笑った。
いつもの豪快さとは程遠い、乾いた笑いだった。
「今、言ってもいいか」
「朝にしろ。朝までは、禁止だ」
ジョージはいくつ目かの食料の包装紙を破り、ドライフルーツをヴィンセントの口に運んだ。
「なあ、ジョージ」
「聞いてる」
「置いてけって言ったら、どうする」
「聞こえない」
「……ずるい答えだ」
「お前がよく使うやつだ」
ヴィンセントの口角がわずかに上がる。
だが次の瞬間、その目が遠くに行った。
ジョージは肩を軽く揺さぶる。短い沈黙。
「……怖い」
「知ってる」
「お前は」
「怖い」
「……そっか」
ヴィンセントは天井をなぞるように視線を這わせた。
「そういえば俺が、軍に入った理由、言ったことあったか?」
「ない。言え」
火がぱち、と爆ぜる。
ジョージは寝袋から左腕だけ出し、そばの薪を一本、暖炉に投げ込んだ。
「親父が早くに死んでな。残されたのは母ちゃんと弟や妹たち。
俺は五人兄弟の長男だ。……ひとりは先に逝っちまったが」
ヴィンセントは左胸のタトゥーに意識を向けた。
その近くに今、ジョージの額が寄せられている。
「家族を食わせるのに、選べる道なんてほとんどなかった。
でかい体と腐るほどの体力はあった。
だが工場や港じゃ雀の涙だ。
軍なら給料も仕送りもある。
医療や学費も保障される。
……俺にはそれが一番早かった」
ジョージは黙っていた。だが、その沈黙は聞き流すものではなかった。
「誇れる理由じゃねぇ。
誰かを守りたいだの、国のためだの……そんな綺麗事を言える余裕はなかった。
ただ、生き延びるために、家族を飢えさせないために、銃を持った」
ジョージはようやく口を開いた。
「……十分だ。俺よりまっとうだ」
ヴィンセントは目を細め、かすかに笑った。
「そうか? お前は昔、“命に所有感がない”って言ったな。
……今もそう思ってんのか?」
ジョージの声は低く、乾いていた。
「変わらない。どうせ何も残っていない。
でも……もし死ねなかったら。
その時、自分が何を感じるのか、確かめてみたかったのかもしれない」
沈黙が落ちる。暖炉の炎だけが二人の輪郭を照らした。
ヴィンセントは目を閉じた。
「……不思議だ。動機も生い立ちも肌の色も違うのに……
最後に頼りたいのは、お前だ」
ジョージは短く答えた。
「同じだ」
ヴィンセントは浅い呼吸の合間に、不意に笑った。
「……ガキの頃はな、本当は軍なんかじゃなくて、ジャズの演奏家になりたかったんだ」
ジョージは目を瞬かせた。
「サックスか?」
「トランペットだ。安物を親父が残してくれてよ。
錆びついて、音なんてまともに出やしなかったが……夜な夜な、吹いてた」
しばらく沈黙が続いた。薪のはぜる音だけが部屋を満たす。
「……だが現実は違った。家族を食わせる方が先だ。夢は音より軽かった」
ジョージはヴィンセントの心臓の鼓動を額に感じながら、低く応えた。
「それでも……生き延びれば、また吹ける」
ヴィンセントはわずかに口角を上げた。
「……馬鹿野郎。俺の演奏なんざ、死人も目ぇ覚ますぜ」
ジョージはタオルでヴィンセントと自分の身体を一巡し、汗を拭いながら軽くため息をついた。
「十七で軍か」
「お前と大して変わんねぇよ。……俺が二十三ん時十八のお前に会った」
「……それから十年か……」
「ああ」
十年分の風雪が、沈黙のあいだに積もっていくようだった。
ジョージは再び額を脇腹に戻すと、ぽつりと口を開いた。
「……なあ、ヴィンセント」
「ん?」
「お前、なんで俺を気にかけた?」
「ん」
「お前がいなきゃ、俺はとっくに死んでた。
あの戦場どころか、訓練の頃にな。
なんで……あんなに俺を守った?」
短い沈黙のあと、ヴィンセントが息を吐いた。
「お前はチビで、暗くて、冷たくて、無口で、面白みゼロ。
生きてんのか死んでんのか分かんねぇ顔で、
いつも何かと距離を置いて、
軍の食堂じゃいつも端っこで独りで飯食ってた。
目ぇ付けられて、“しごき”の名目で、十人がかりのリンチを受けても、誰かが死んでも、眉ひとつ動かさねぇ。
だがな――」
火の粉が、静かに宙を漂った。
「本当に冷たい奴は、人なんて助けねぇ。
口では仲間だ絆だって言いながら、いざとなりゃ尻向けて逃げる奴ばかりだ。
でもお前は違った。
“しごき”食らった相手ですら、血まみれで倒れりゃ迷わず担ぎ上げた。
自分を削ってでも、生かそうとする。
……そんな矛盾を抱えた奴、ほっとけるかよ。」
◇
時間は、ただ静かに流れていた。
風が遠のき、東の空が群青に染まり始める。
夜が終わることを、音ではなく色で知らせていた。
ジョージは一分ごとにヴィンセントの呼吸を確かめ、頬を叩いて意識を繋ぎとめていた。
だが、その手にこもる力は、次第に抜けていき、感覚も開いていく。
眠気が波のように押し寄せ、意識が沈みかけるたび、唇や舌を噛んで血の味で我に返った。
彼自身も、尽きかけていた。
頭の奥で、遠くの鐘が鳴っている気がした。
それが幻聴だと分かっていても、抗う術はない。
音は風のうなりと混じり、やがて意識の底に沈んでいった。
暖炉はすでに灰とわずかな火種だけを残している。
薪も、椅子だった木片も、すべて燃え尽きた。
ジョージはザックを手探りで開け、調理用の小さなガスバーナーを取り出す。
点火スイッチをひねると、青い炎が短く跳ね上がった。
だが、その火も心許なく、燃料はもう尽きかけていた。
「……朝だ……」
「……ああ……。なぁ、ジョージ……俺、まだ……冷てぇか」
「……ああ」
どちらとも、まともな発音ではなかった。
会話というより、壊れかけたエンジンのような唸りに近い。
「……だよな。お前、湯たんぽ代わりにしても……無駄かもな」
「まだ火がある」
「……火、ねぇよ。……燃えカスだ」
「燃えカスでも、温めりゃ火になる」
ヴィンセントの肌は、まだ冷たかった。
血が巡りきらず、命の温度を取り戻せていない。
ジョージはヴィンセントの太腿に手を当てた。
内側をゆっくりとさする。太い血管がわずかに震えた。
脈が動く。熱がある。まだ、《《居る》》。
ジョージが胸の上下を確かめたとき――
ヴィンセントの呼吸が、ふっと止まった。




