第二話:断たれたロープ
ヴィンセントは滑りながらも、うつ伏せに身を立て直し、アイゼンとピッケルを雪面に突き立てた。
滑落は止まった。
隣の研究員も同じようにピッケルを刺していたが、浅い。
雪に削られ、今にも落ちそうに震えている。
それは寒さではなく、恐怖だった。
パニック状態になりかけている。
「ロープっ……!」
ヴィンセントは雪面にしがみついていた。
それが彼の精一杯の声だった。
強風に掻き消されたが、ジョージは理解していた。
「分かっている!」
ジョージは最も危うい研究員の救助を優先した。
スリングを結んだロープを投げた。
「こっちだ! 腕を突っ込め!」
研究員は半ば本能的に右手を輪に押し込み、肘まで通した。
正しい手順でないことは承知していた。
だが1秒を争う今は、それしかなかった。
「確保した! 引き上げろ!!」
ジョージの号令で、複数人が一斉にロープを引いた。
吹きすさぶ風に足を取られ、雪に滑りかける者もいたが、全員が必死に踏ん張り直し、ロープに食らいついた。
ジョージの手が研究員の背負う荷を掴んだ。
歯を食いしばり、一気に引き上げた。
その瞬間だった。
ヴィンセントの周辺で小さな雪崩が起きた。
アイゼンもピッケルも、支えを失った雪と共に崩れ落ちる。
巨体は切り倒された大木のように、ずるずると斜面に引きずられていく。
何度もピッケルを突き立てるが、雪は砂のようにさらりと流れ、爪先を拒んだ。
急斜面の先は崖だった。
百キロを超える巨体が一本のロープに吊られ、張られた。
岩の角で擦れるたびに不吉な軋みを響かせる。
崖は内側に大きく抉られ窪んでおり、彼の足は空を切った。
アイゼンもピッケルも崖には届かない。
もがけば揺れ、揺れればさらにロープが食い込んだ。
その重みは鉛のようにジョージ達の方と腕にのしかかり、ほんの一瞬の緩みで全員が引きずり込もうとしていた。
斜面に拒まれて、ヴィンセントにはその様子は見えない。
だが、彼は理解はしていた。
腰のギアから素早くナイフを引き抜いた。
まるで何かの儀式のように短い連結ループに切先を当てた。
一瞬、彼は息を吸いこみ、わずかに躊躇った。
だが次の瞬間には、口の端をわずかに上げると、鋭く一気に刃を走らせていた。
「じゃあな。相棒。」
◇
ロープの抵抗が途絶え、全員一斉に後ろへ倒れ込んだ。
ジョージはロープを手繰り寄せた。
理解していても、認められなかった。
ロープの先には、支える主を失ったカラビナだけが冷たく揺れていた。
「馬鹿野郎ッ!!!」
喉に仕込んだ火薬が弾けたように、声が爆ぜた。
心臓は跳ね、膝が雪に沈んだ。
ゴーグルの奥、滲んだものが涙か汗か、自分でも分からなかった。
アーノルドは無言でジョージの肩に手を置いた。
その重さは、かつて戦場で失った仲間へ捧げた敬意の手と同じものだった。
ジョージはその手を振り払わなかった。しかし、受け取りもしなかった。
静かに立ち上がり、アーノルドと山岳ガイドに告げる。
「……ヴィンセントを探しに行く」
声は低く、掠れていたがそこに迷いはない。
ジョージは立ち上がり、ロープをまとめ直しながら短く命じた。
「アーノルド、警戒は任せる。
本部へ報告しろ。社長が落ちたと、副社長――チャットに伝えろ。」
アーノルドの返事が一泊、沈黙した。
「……了解した」
「無茶だ!」
山岳ガイドが割って入った。声は荒れた風に混じり、鋭く突き刺さる。
「仲間を助けたい気持ちは分かるが、この状況では自殺行為だ!
二次被害を招く! 許可は出せない!!」
ジョージが口を開くより先に、アーノルドが前に出た。
「行かせてやれ。こいつはあのでかい奴の十年来の相棒だ。
それに2人とも陸軍特殊部隊上がりだ。
捕虜や極限環境での生存を想定した特殊訓練を受けている。
生き延びる術は海軍だった俺よりもはるかに優れている。」
「しかし……」
「許可など要らない。邪魔をするな。」
ジョージの声は冷たく、鋭かった。
山岳ガイドは一瞬口を開きかけたが、閉じた。
そしてもう一度口を開くと漏れ出たのは言葉ではなく、重いため息だった。
そして無言のまま、懐から地図を出し、ヘッドライトで照らしながら指を這わせる。
「現在地はここ。
彼はおそらく、このあたりに落ちたと思われる。
平地だが…… 生きているかどうかは半々だ。」
ガイドは地図上で大きく弧を描いた。
「ここに行くには、このルートを辿れ。
多少迂回するが、最も安全だ。
一人なら一時間前後で彼の元に着くだろう。
ただ、二時間後には暗くなる。我々と合流するのは無理だ。
落下予測地点から南西一キロほど先に、昔の山小屋がある。
今は廃墟だが、最低限、風は防げる。
そこでビバークし、持ちこたえろ。
……我々は救助を要請する。」
ガイドはザックを開けると、ジョージに防寒着や予備の食料、そして通信機器を手渡した。
「これを持っていけ。無理はするなよ。」
「……恩に着る」
ジョージは短く答えるとそれらを自分のザックに入れ、立ち上がった。
「アーノルド、あとは頼んだ。」
「ジョージ」
アーノルドは一歩進んで言った。
「社長も現場リーダーもいなくなったら、会社はチャットが牛耳ることになる。
……正直、あいつ一人に任せる気にはならん。
だから最悪、お前だけでも戻ってこい。
転職なんざ二度とごめんだ。」
ジョージは短く頷いた。




