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第一話:雪山滑落

 “ついさっきまで”はほぼ青と白の世界だった。

 空気は澄み渡り、音は深雪に吸い込まれ、代わりに静寂を吐き出していた。

 聞こえるのは自分の呼吸音と、雪を踏み締めた時に鳴るあの締め付けるような音だけ。


 たまに誰かが喋れば、それは反響することもなく、声は呼吸音と共に単発で沈んで行った。


 顔を上げて見渡せば、雪を裂くようにのぞかせる岩肌が見え、そしてさらにその向こう側は、まるで永遠と続くような山の稜線が見えた。


 下山は順調だった。

 鉱石サンプルを抱えた研究員が4人、安堵したような、ウィスキーに浮かぶ緩んだ氷のような柔らかい笑みを唇の端に浮かべ、静かに雪を踏み締めていた。


 その研究員たちとハーネスとロープで繋がり、ペアになって歩くのは、彼らに雇われた山岳ガイド。

 そして3人のボディガード――ヴィンセント、ジョージ、アーノルド。


 ヴィンセントの深い褐色の肌は太陽に照らされ、鈍く、深く反射をしている。

 がっしりと引き締まったたくましい体躯は、分厚いウェア越しでも容易に想像できた。


 白い大地はもはや、彼を演出するためのキャンバスにすぎなかった。

 吹きすさぶ風が熱を奪っても、ヴィンセントの体は炉のように揺るがなかった。

 彼の何代か前の先祖がアフリカのサバンナを踏みしめていたように、大地の呼吸と共に彼はそこに“在った”。


 一方のジョージは、ヴィンセントの後を影のように歩いていた。

 大きな荷物は小さい彼をさらに小さく見せていたが、その重心はブレる事なく安定している。

 黄色味がかった淡いベージュの肌。


 アーモンド型の目に、鋭利な刀の切っ先を走らせたような目尻。

 そのわずかな角度が、全体の印象を決定づけている。

 まるで古井戸の底のような黒い瞳には、警戒と慎重さが滲んでいた。


 ヴィンセントは大きすぎたし、一方のジョージは小さすぎた。

 2人の身長の差は30センチほどもあり、並んで歩けばその差は歴然だった。

 最後尾のアーノルドはまるで1人の平均を体現しているかのようだった。


 ガイドは天然の落とし穴――雪庇(せっぴ)やクレバス、そして急変する天候を気にかけていた。

 一方の、元軍人たちは吹雪そのものよりも、敵の影を恐れていた。


 米政府絡みのこの研究には敵が多かった。

 だから彼らはヴィンセント達を雇ったのだ。


「あのちょっと変わったドラゴンのような形をした岩肌が、見えますか?」


 先頭を歩く山岳ガイドが杖で対象物を指し示した。


「あそこが通過ポイントです。

 越えれば山小屋があります。順調にいけば40分ほどで着きます。

 今夜はそこで過ごします。もう少し頑張りましょう」



 だが安堵は長くは続かなかった。


 雪山の天気は政治家の言葉以上に変わりやすい。

 さっきまで青と白で満ちていた世界は、安い藁半紙のような灰色に塗りつぶされた。

 雪混じりの風が頬を削り、感覚を奪っていく。


 悲劇に事前通知なんてものはないし、鈴も付いていない。

 映画やドラマのように、効果音やBGMが流れるわけでもない。


 それは一瞬で、実に静かに起こった。

 ヴィンセントとペアになっていた研究員の1人――雪を踏み締めた途端、場所を境に崖に向かって雪が足元から崩れ落ちた。

 地面だと思って踏み締めたその場所は、強風で崖に迫り出したただけの雪の床――雪庇(せっぴ)だった。


「ジョージ!!!」


 ヴィンセントは瞬時に動いた。相棒の名を呼んだ。


 体制を崩しながらも、研究員と繋がったロープを腕に巻きつけ腰を落とした。

 ロープが張り、彼の腕を激しく締め付ける。

 ウェアを通して激痛が骨まで響いた。


 しかし彼の巨体でさえも、雪の摩擦には抗えなかった。

 鋭角の斜面にずるずると引き摺られていく。


 ジョージは駆け寄りヴィンセントに手を伸ばしたが、その手は空を切った。






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