言葉はあなたへ帰っていく
お読みいただきありがとうございます。
今日も優しい言葉に揺り起こされました。
ママのお腹の中には、小ちゃな小ちゃな女の子が住んでいます。
「私たちの可愛いちゃん。今日はいい天気だよ、お洗濯日和ね」
可愛いちゃんはお腹の中でキャッキャと喜びました。最近雨が続いて、ママが落ち込んでいたのを知っています。ママが嬉しいと可愛いちゃんもまた嬉しいのです。
次の日、ママはチョコを食べながらお腹を優しく撫でました。
「私たちの大切ちゃん。ママはねチョコが好きなのよ、パパはカレーが好きなの。大切ちゃんは何が好きなの? ママ頑張って作っちゃうよ」
大切ちゃんはうむむ、と頑張って考えます。ちょこ、分からない。かれえ、分からない。しょんぼりと大切ちゃんは未だない肩を落としました。でもママが幸せそうに食べているちょこは、大層美味しいのでしょう。ちょこ、ちょこと体を揺らしました。
それから少し時間が経ちました。昨日はママとパパの愛しい子という名前だった女の子は、新しい名前を貰いました。
「うん、決めたわ! この子の名前は七菜ちゃん。明るく元気に育って欲しいもの。ねー、私たちの可愛い七菜ちゃん」
「うん、凄い可愛い名前だよ。さすがママ」
「漢字はパパが考えてくれたでしょう? とっても素敵な漢字よ、さすがパパね」
七菜ちゃんは二人の言葉を聞きながら、相槌を打ちます。
『ななちゃんのなまえ、ななちゃんうれしい』
嬉しさを表すように両手をばたつかせれば、ママが「今動いたわ」そうパパを手招きしました。
『ままとぱぱ、ななちゃんとってもうれしいのよ』
拙い言葉で喜ぶ七菜ちゃんをママとパパは知りません。けれど二人は顔を見合わせ顔を綻ばせました。
「七菜ちゃん。ママとパパの下に来てくれてありがとう」
「ええ、本当に。七菜ちゃんが私たちの幸せなの。会えるその日を、待っているわ。生まれて来てくれて、ありがとう」
『うん、うん。ななちゃんもだよ』
ママとパパの愛に溢れた、満天の星々のように輝く言葉が七菜ちゃんに降り注ぎます。七菜ちゃんは幸せがいっぱい胸に詰まったまま、微睡みました。お昼寝のお時間です。
最近ちょっぴり首が苦しいけど、七菜ちゃんには理由がよく分かりません。小さな頭の隅に、疑問は放置します。代わりにママとパパの愛してるという言葉に七菜ちゃんもあいしてると返して、意識は遠のいていきました。
「七菜ちゃん」
名前を呼ばれて目が覚めました。一体いつまで寝ていたのでしょう。七菜ちゃんはぼんやりと辺りを見回します。
『あれ? あれぇ?』
パパの困っている時の口癖を真似しながら、忙しなく目を動かします。七菜ちゃんはとっても不思議でした。目の前にママとパパがいるのですから。
二人が泣いているのですから。
『まま、ななちゃん生まれてきたよ。うれしいよ?』
袖にしがみつこうとしました。できませんでした。七菜ちゃんにいつものように笑いかける代わりに、ママは声を荒げました。七菜ちゃんがビクリと体を震わせます。
「七菜ちゃんが死んだなんて、そんなの嘘よ! あ、あんなに、あんなに元気だった筈なのに……!」
「ママ……」
パパが眉根を下げママに寄り添っています。ママはパパを気にも留めず、目の前の医者に掴みかからん勢いです。
「どうして、どうしてよ!」
「落ち着いてママ」
「パパの方こそ、どうしてそんな落ち着いていられるの! 七菜ちゃんが、七菜ちゃんがぁ……」
「……っ僕だって」
一転。静寂が訪れました。ママのすすり泣く声が反響します。
『しぬ、ってなんだろう。ままは、しぬがうれしくないのかな』
一人首を傾げ続ける七菜ちゃんに、返事をする人がいました。
『死ぬが嬉しいわけないじゃない。これだから子供って嫌いなのよ』
『う……?』
七菜ちゃんが顔を上げると、すぐ側に女の子が立っています。十五歳くらいの女の子の背中には一対の翼が揺れ、むぎゅりと掴んだら女の子が七菜ちゃんを睨みつけました。
『ちょっとやめてよね。痛くなくても、体に触られるの嫌なの』
『ななちゃんとおはなしできるの!?』
きゃあ、と七菜ちゃんは頬に手を当てます。ママとパパには、七菜ちゃんの言葉は届きません。喜び手をばたつかせる七菜ちゃんに唇を尖らせた少女がバツが悪そうに、
『そっか、魂は精神の年齢に引っ張られるから四歳くらいに見えるけど、あなたまだ生まれてすらなかったのよね……』
知らない言葉が多くて、七菜ちゃんは目をまん丸くさせることしかできません。
『……ま、いっか。私は天使様、行くわよ』
ついてこい、とジェスチャーで示されましたが、七菜ちゃんは首を横に振りました。
『ななちゃん、まだいかない』
ママが泣いている姿を、七菜ちゃんは初めて見ました。涙なんて知らないのに、それを見ると胸がきゅうきゅう痛むのです。
面倒くさそうに七菜ちゃんを一瞥した天使様でしたが、長い逡巡の末ため息を零すのでした。
『しょうがないわね、少しだけよ』
天使様の羽が七菜ちゃんの左半分を埋めます。体を羽に委ねながら、七菜ちゃんは花みたいに笑いました。
『ありがとう、てんしさま!』
七菜ちゃんには時間の流れが分かりません。ですが、空が暗くなったり明るくなったりを三回程繰り返しました。産院着に身を包んだママは、心ここにあらずな様子で波打つシーツをなぞっています。七菜ちゃんは天使様に、今日が出産の日だと教えて貰いました。七菜ちゃんの体が、まだお腹の中に残っているそうです。
七菜ちゃんはママの顔を覗き込みました。今日はお洗濯日和なのに顔を俯かせたままです。最近ママはそうです。晴れていても雨が降っていても窓に目も向けず、時折泣いては「ごめんなさい……」と繰り返しています。
晴れていることを教えたくてママの周りを動き回る七菜ちゃんを、天使様は頬杖をつきながらじっと観察します。不意に窓に目をやった天使様の声は、七菜ちゃんには届きませんでした。
『沢山言葉を貰ったから、あなたの心は四歳程まで育まれたのね』
静かな羨望を孕んだ言葉は、病室に溶けていきました。
夜が訪れました。紺碧の空に星がちらちら瞬いています。ママはスーツ姿で病室にやって来たパパと共に、どこかの部屋へ連れて行かれます。
『まま、ぱぱ。まって』
ママとパパと一緒にその部屋に入ろうとした七菜ちゃんでしたが、天使様の手によって阻まれました。
『……あなたの心には少し負荷が大きいと思うから、この先に行くのは駄目よ』
『えー……』
『わがまま言わないの。ほら、ここで待つわよ』
役目は終えたとばかりにその場に座り込んだ天使様に倣って、七菜ちゃんもちょこんと腰を下ろし真白の壁を見つめます。
きっと今、空は深い藍色なのでしょう。月が世界を支配し、星を連れて空を泳ぎます。
『ねえ、人って死んだら星になるんだって。ただの迷信だけど』
七菜ちゃんと同じ、先ほどの空を思い浮かべているようでした。真っ白な壁を眺める天使様はどこか寂しそうです。七菜ちゃんは膝に顔をうずめます。
『ねえ、しぬってなあに?』
『もう誰にも会えないこと。全てのことから自由になることよ』
分かった風に頷いてみますが、その実七菜ちゃんはちっとも天使様の言っていることが分かりません。だって感じるのです、お腹を触ればママとの繋がりを。
不意に、周りから聞こえる産声をかき消す一閃の悲鳴が聞こえました。いえ、悲鳴ではなく嗚咽でした。ママの声でした。七菜ちゃんは無意識に自分のお腹に手を当てます。
『……あれ? あれえ?』
さっきまであったママとの繋がりを感じられません。おろおろする七菜ちゃんにかける天使様の声はいたって平坦です。
『終わりの時間が近づいているのよ』
おわりのじかん。やっぱり言葉の意味は分かりません。ですが涙が頬を伝いました。次から次へ止め処なく溢れ、七菜ちゃんの小さな頬を濡らします。
『そっか。もう、おわりのじかんなんだね』
言葉を一つ知りました。涙は暫く止まりませんでした。
ママは朝方に、病室に戻りました。白い光が差し込み、ママは目を細めます。
そのまま自分の薄くなった腹を力いっぱい叩きつけました。
「ママ……!」
パパがママの手を掴み止めようとしますが、ママは止まりません。何度も何度も。壊れてしまうくらい強い力です。七菜ちゃんは足がすくんでしまって、なにも出来ません。
「私がっ、七菜ちゃんを殺したのよ……!」
絞り出した声に、パパが息を呑みます。
「違う、違うよ。誰のせいでもないんだ」
「じゃあどうして七菜ちゃんは死んじゃったの? 答えてよ!」
ママがパパの襟首を掴みましたが、パパは穏やかな海のように優しくママを抱きしめます。ママの声は、不鮮明でともすれば落っこちてしまいそうです。
「私が、望まなければ……っ。七菜ちゃんは……幸せにっ、生きられたかも、しれないのに。私が……私がっ」
『ななちゃんしあわせよ。とってもしあわせだよ』
言葉は届きません。縋りついても触れません。助けを求め振り向いた七菜ちゃんは、天使様を仰ぎ見ました。
『てんしさま、ななちゃんどうすればいいの』
『無理よ。私たちは死者なんだから』
いやいや、と首を振る七菜ちゃんに天使様は顔を俯かせました。
『……あなたがここでなにかしなくても、彼女たちはいつか立ち直るわ』
『でも』
胸の前で握りしめた両手が震えます。大粒の涙が一滴落ちて、手を濡らしました。ですがそこまででした。鼻をふすふすさせながらも、顔を上げた七菜ちゃんには決意の光が宿っています。天使様は驚いたように目を見開きます。
『ななちゃん、しあわせだよ。ままに、そういいたいの』
真剣な眼差しに気圧され顔を背けた天使様でしたが、そろりと七菜ちゃんと視線を合わせ、それから泣き崩れる二人を見ます。唾液を嚥下する音が大きく響きました。
口を開いた天使様は躊躇うようでしたが、眼差しは強く七菜ちゃん射貫きました。
『……あるわ、もう一度だけ話す方法。でもそれを行えば、あなたの魂がどうなるか分からないの。生まれ直すどころか……そうね、あの星の一つにもきっとなれない』
『うん』
やっぱり難しいことはよく分からない七菜ちゃんですが、それでも決意しました。
『ななちゃん、いましあわせなの』
『そう……』
深く息を吐いた天使様は穏やかに笑いました。手を差し出します。
その手と小さな手が重なった瞬間、光が四方に散りました。病室全体が、淡く色づきます。ママとパパは困惑しながらも目を強くつむり、光が弱まってから薄く目を開けました。
開けた視界の先には、二人の少女が立っています。
「……あなたたちは……」
七菜ちゃんがぱっと笑います。
「ななちゃんは、ななちゃんだよ!」
「……っ」
うそ。そんな呟きが二人のどちらかから漏れました。隣に立つ天使様が、ママとパパに説明します。
「間違いなく、この子はあなたたちの子供よ。私のことは気にせず話しなさい。けどこの子に触るのは駄目よ」
最後に、七菜ちゃんに耳打ちしました。
「言いたいこと、全部言いなさい」
「うん!」
七菜ちゃんはママとパパに向き合います。呆けた顔をしていたママですが、はっとなって顔を歪めます。
「ごめんなさい七菜ちゃん。私のせいで、苦しい思いをさせて。許してほしいなんて思ってないの、だけど言いたくて、」
「まま」
七菜ちゃんの言葉を一つだって取り零さまいとママが口を噤みます。それは罰を待つ罪人のようでした。
「ななちゃんね――ままとぱぱが、だいすきなの」
「……え」
肩がふるりと揺れました。
「んっとね、えっとね。ままとぱぱは、ななちゃんのかわいこちゃんなんだよ!」
「……まさか」
震える声が、七菜ちゃんに向けられます。続きを促すように、病室は糸を張り詰めた静けさで満ちています。
「まま、ぱぱ。うまれてきてくれて、ありがとう」
七菜ちゃんは、どんな言葉を言えば良いのか見当もつきません。だから紡ぎました。ママとパパがくれた言葉たちを。だって七菜ちゃんは、とても嬉しかったのです。ママのお腹に宿った七菜ちゃんの魂には、最初耳も心臓もありませんでした。だけどずっと、自分を待ち望む人たちを知っていました。愛で導かれるように、七菜ちゃんの心は育まれたのですから。
優しい言葉は七菜ちゃんの心で、枯れることなく息づいています。それを精一杯、七菜ちゃんは大切な二人に伝えます。
「ななちゃんのしあわせは、ままとぱぱなの。ななちゃんのもとにきてくれて、ありがとう!」
七菜ちゃんの頬をホロリとなにかが擽ります。涙かと思ったけれどそれは違くて。七菜ちゃんの体が崩壊を始めているのでした。
これがおわりのじかんだと、七菜ちゃんは気づきました。天使様の手をもう一度握りしめて、最後の言葉を振り絞ります。
「ままとぱぱは、しあわせじゃなかった?」
ママが首を横に振ります。それは自分で自分への肯定でした。
「幸せだったわ。幸せじゃない時なんか、一度だってなかった」
パパも七菜ちゃんを優しく見つめます。
「大好きだよ、七菜ちゃん。七菜ちゃんが生まれてくると知った日から、ずっとずっと大好きだよ」
安堵の笑みを、七菜ちゃんはえへへと笑って誤魔化します。耐えきれず、上がった口角を涙がなぞりました。
「……うれしい。もういっかいね、ななちゃんききたかったの」
ホロホロ体は崩れていきます。
ばいばい、七菜ちゃんがそう手を振ると、ぱぱとままも手を振り返してくれました。
「ばいばい、七菜ちゃん。ありがとう」
ママとパパと別れた後、水が張った夜空の道を七菜ちゃんと天使様は歩きます。
手を引かれながら、七菜ちゃんは問いかけました。
『どこにいくの?』
振り向いた天使様は、晴れ晴れとした表情をしていました。彼女の体も、ホロホロと崩れかけています。
『生まれ変わるのよ』
『ななちゃん、ほしにもなれないんでしょ……?』
当然の疑問を口にする七菜ちゃんに、足を止めた天使様が自身の胸に手を当て答えます。
『私の魂も使ったから。二人で生まれ変わるのよ』
『……どおして』
『それをあなたが言うの? 慈しみあうこともできるって、あなたが教えてくれたんでしょ』
天使様は笑みを引っ込め、天上を見上げます。
『この世には天使も神もいないわ。いるのは、ハリボテの天使だけ。自分と同じ目に遭わせないために、天使は魂を良い人の下へ導くの』
天使様の瞳の色が暗くなります。今はいない誰かを想っているようでした。
『私と同じ天使だった子はね、生まれ変わってしまったの。理解できなかったわ。だって、私にとって生きることは死ぬことだから』
話が難しくて、ちんぷんかんになってしまった七菜ちゃんはすすす、と天使様の傍に行き羽に埋もれます。ふはっ、と吹きだす声はとても優しいです。
それからふと、瞳が揺らぎます。
『生きるって、幸せじゃないことばかりなの。嫌なことばっかり。でもあなたとならね、辛いことも全部愛せると思ったの。……ねえ、私と一緒に生きてくれる?』
最後の言葉だけ七菜ちゃんは頭ではなく心で言葉を理解し、生まれたのは安らぎでした。
ママとの繋がりが消えたあの時から。七菜ちゃんの心を孤独が巣食っていました。言葉にならない不安で、押し潰されてしまいそうでした。でも一人ではないのなら、
『うん。ななちゃんとてんしさま、ずっといっしょ』
刹那、天使様の羽が解れて一つ残らず辺りを舞いました。ふわふわ、二人を優しく包み込みます。
七菜ちゃんと天使様は横並びになってまた歩きだしました。歩く度に、水面に波紋が広がります。ぴちょんぴちょんという足音は、雨のようです。
ママとパパが住まう街には今、二人の嗚咽を隠すように雨が降っているのでしょう。
明日はお洗濯日和です。
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