人事交渉
前話に追加の内容がございます。
すでにお読みいただいた方も、恐れ入りますがもう一度ご確認いただけますと幸いです。
混乱を招いてしまい、申し訳ありません。
「ひとまず立ちなさい。」
ギルドマスターは不機嫌そうな声で私に言った。
私はギルドマスターのズボンの裾から手を離し、そっと立ち上がった。
「で? 一体どういうことじゃ?」
私はベルミスを指差し、事実そのままを伝えた。
「ベルミスさんが、私を思いきり投げ飛ばしました。」
私の言葉に、ベルミスはまるで冤罪でも着せられたかのように叫んだ。
「先にちょっかいをかけてきたのはあいつです! 私は驚いて、反射的に腕を振っただけなんです!」
『さて、どう出るか見ものだな。』
まずは状況を見極めようと思った。
私はこの世界の職場文化おまだよく分からない。うかつに行動するのは危険だ。
『ゲームにはこういう職場の文化とか、上下関係なんて一切出てこなかったからな。』
ギルドタイクーンの主なコンテンツはギルド運営だ。
リシのようなヒロインや数人の主要人物を除けば、皆キャラの薄いNPCばかりだった。
『最悪の場合、サラリー冒険者を極端に優遇する文化かもしれない。』
企業の第一の目的は何といっても金だ。結局、金になる側に権力が集まるのが世の常。
ギルドの性質によってはレストラン部門が収益の柱になっているところもあるが、ファインレストランはまったく稼ぎがない。文字通り、ゼロだ。
『しかもこの世界には人権というものが存在しない。』
つまり、ベルミスが新入りの事務員を見下し、堂々と受付嬢にセクハラをするのも「そうしても問題にならない世界だから」かもしれないのだ。
「なるほど。大体の事情は分かったわい。」
しばらく口を閉じていたギルドマスターが、重々しく口を開いた。
だが、その次に放たれた言葉は、なんとも残念なものだった。
「ベルミス、理由はどうあれギルド内での暴力は処罰対象じゃ。十週分の給料カットじゃな。頼むからもう問題を起こさんでくれぃ。」
口調と態度に、一応は処罰委員らしい威厳を漂わせてはいた。
『……って、なにが「処罰」だよ。これはただのお願いじゃないか。』
「ギルドマスター。」
私はあえて平静な声でギルドマスターを呼んだ。
逃げるように階段を登ろうとしていたギルドマスターが、怪訝そうな顔で振り返った。
「なんじゃ?」
「あの男はギルドの役には立ちません。解雇してください。」
「なんだとこの野郎!」
私の率直な発言に、ベルミスが反発してきた。
「……面接でちょっといい印象を持ったからって、調子に乗るんじゃないよ。」
ギルドマスターもあまりいい顔はしなかった。
だが私は見逃さなかった。発言の直前、ギルドマスターの瞳が揺れたことを。
『やっぱり、悪いとは思ってるんだな。なら話は早い。』
「私が無茶な越権行為をしようとしてるんじゃありません。この問題児ベルミスに代わる、新たな人材を推薦しようとしているんです。」
何事にも一長一短がある。
この世界の遅れたビジネスシステムにも、利点はいくつかある。
「なんだとコラ、この野郎!」
「お主は黙っとれ!」
「えっ!? マスター、それは……!」
堪忍袋の緒が切れたのか、ベルミスが壁際に追い詰められたゴキブリのように飛びかかろうとした瞬間、ギルドマスターのたった一言で動きを封じられた。
『第一の利点、ギルドマスターの権限は絶大。権力も実力も。』
ギルドマスターはバザールに四人しかいないCランクの一人だった。
本気を出せば、ベルミスをクビにするどころか、半身不随にして追い出すことすらできる。
それでも今までベルミスの狼藉を黙認してきたのは、バザールのような田舎町では代替人材がなかなか見つからないからだ。
「言ってみなさい。」
ギルドマスターは私を見て言った。
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「交渉を開始します」
交渉当事者:マサかオ•ウガ、エイタン
交渉種別:他人の人事交渉
交渉目標:ベルミスの解雇
交渉ヒント:
① 相手は代替人材を求めています。
② あなたには即戦力となる人材はいません。
③ 相手の目標はあなたと一致しています。条件を満たせば即成立します。
④ 今すぐ動かせる人材はいませんが、説得可能な人脈は存在します。
⑤ 推奨戦略:時間を稼ぐこと。
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私は交渉ガイドを開いた。
『おっ。名前が変わってる。』
最初にガイドが表示されたときは、レオって名前になってたのに。
『まあ、そんなことはどうでもいい。大事なのはその下だ。』
交渉種別に注目した。
『異世界ビジネスの第二の利点、原則がないからこそ発揮される無限の柔軟性。』
「他人の人事交渉」―現代ビジネスではあり得ない言葉が堂々と書かれていた。
『もちろん、コネ入社ってのは現実にもあるけど……。』
コネ入社はそれなりの地位にある者が職権を乱用することであり、原則的には許されない。
それなのに、役職も何も持たない新入社員が他人の人事に介入するなんて、本来ならあり得ないことだ。
もちろん、小さな個人会社で若い女の子が社長をたぶらかして好き勝手してる、みたいな話も聞いたことはあるが、私はギルドマスターを誘惑するつもりは毛頭ない。
「私がアルバスさんに会ったのは、この町に向かう馬車の中でした。」
私は馬車での出来事を、アルバスを中心にして話し始めた。
特に強調したのはゴブリン襲撃の場面だ。実際は馬車のキャノピーの陰に隠れていただけだが、護衛の戦いぶりを目撃したかのように誇張して描写した。
「……ほうほう! ……ふむふむ! そんな逸材がバザールにいたとはな!」
ギルドマスターは明るい表情でうなずきながら、私の話にいちいち反応を返してくれる。
その一方で、ベルミスの顔は話が進むにつれてどんどん青ざめていった。
「……そんなわけで、無事にバザールまで辿り着けたというわけです。」
アルバスの英雄譚が終わった。
「ほほう、人格まで申し分なし。ところでその男、今ここに呼べるかね?」
「はい! すぐに呼んできます!」
泣きそうなベルミスを無視して、私は階段へと向かった。
『正直、今回の件はそう難しいことじゃなかった。』
雇用、面接、人事異動――
人事とはざっくり言えば「人間を扱う商売」だ。つまり、人間が商品ということ。
商品が自ら喋れないからこそ売り手が必要なのだ。
だが、商品と直接意思疎通できるのなら、買い手は売り手を介さず、直接話をしてみたいと思うのが自然だろう。
この場合、売り手である私の役割は、買い手と商品をつなぐ橋渡しをすることだけだった。
わざわざ交渉ガイドに頼るようなことではなかった。ただ、もっと良い方法があるかもしれないと確認しただけだ。
『アルバスも正社員のオファーは嬉しいはずだ。本家からどれだけ援助を受けてるかは知らないが、今は金に困ってるのは事実っぽいしな。』
1階に降りると、まだ受付嬢と話しているアルバスの姿が見えた。
「おっ! アルバスさん、まだいらっしゃいましたか!」
「ええ。最近バザールで妙なことが起きてるようなので、それを調べていたんです。」
「妙なこと?」
私は思わず、アルバスと話していた受付嬢に目を向けた。
紫がかった髪に、成人したばかりくらいの年頃、そしてどこかぽやっとした表情が可愛らしい女の子だった。
『この子は知らないな。受付嬢の中ではリシ以外、全部NPCだったから。』
ゲームでは顔すら表示されていないモブキャラだった。
『名前はミアか。』
私は名札の名前を確認し、もう一度彼女と目を合わせた。
「……」
「……?」
『何も説明してくれないのか?』
「妙なこと」について教えてくれると思っていたが、ミアはただぽけーっとこちらを見ているだけだった。
『まあいい。どうせこの件で来たわけじゃないしな。』
私は視線をアルバスへ戻した。
「実はアルバスさんにお願いがありまして……。」
そしてこれまでの経緯を説明した。
「すみません、私は用があって。バザールもすぐに離れるつもりです。」
それがアルバスの返答だった。
「……ええぇぇぇぇぇっ!?」
思わず漫画みたいに大げさに動いて、叫び声まで上げてしまった。
「いや、すぐってわけじゃないですよ。この事件を解決してからです。」
「安定した収入が必要じゃありませんか? サラリーマンって、よくご存知のはずです。」
「お金も必要ですが、それより大事なことがあるんです。」
私の必死の視線にも、アルバスは微動だにしなかった。
『くっ、こうなったら交渉ガイド!』
私は交渉ガイドを開こうとした。
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交渉は不可能です。
相手に交渉の余地がありません。
※アイテムの使用も不可能な相手です。
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『え? アイテム使用もダメ? そんなパターンもあるのか……』
もちろん、以前ちらっと見た「強制交渉権」を買うのに必要なポイントは全然足りなかった。
でも、あのチートだと思ってたアイテムが使用不可って言われると、さすがに戸惑ってしまう。
『ちゃんとショップのシステムも調べておかないとな。……でも今それどころじゃない!』
私は焦って、どうにか説得の言葉を探そうとあちこちに視線を彷徨わせた。
だが、もし説得可能であれば、「説得ガイド」として別の形でガイドが現れていたはずだ。
『どうする……?』
交渉には常にリスクが付き物だが、今回の交渉は私にとって大きすぎるリスクがかかっていた。
今あるのは、ようやく得たギルドマスターの信頼くらい。その信頼すら失ってしまいかねないのだ。
そして何よりもベルミスから脅威が絶えないだろう。
そんな風に焦りがピークに達しようとしていた時、小さな奇跡が起こった。少なくとも私には、そう思えた。
ふと正面玄関に視線を向けると、マルコスが入ってきたのだ。
どうやら傭兵の葬儀をギルドに任せ、戻ってきたところらしい。
「マルコスさん!」
私は思い切り声を張ってマルコスのもとへ駆け寄った。
『あの人は絶対、最初は断るだろうな。ここは交渉ガイドにもう一度賭けるしかない!』
他人の下で働くのを嫌がりそうなマルコスに、どんな餌をぶら下げればいいかを考えながら、私は彼の前に立った。
「どうした?」
マルコスは無表情のまま私に尋ねた。
「はっ……はぁ……マ、マルコスさん、実は……」
走ってきたせいで息を切らせながら、私は2階で起きたことを説明した。
「……それで、マルコスさんにサラリー冒険者になっていただけないかと……」
そう言って、交渉ガイドを開こうとした、その時だった。
「ほう。それが可能であれば、私はもちろん歓迎だ。」
マルコスは、意外にもあっさりと私の提案を受け入れた。
「可能であれば、な。」
不穏な言葉を添えて。