酔
夕日が沈み、私たちはアゴラの兵士数名に護衛されながら、ようやくアゴラ領へと入った。
武器を売りに来たと告げると、兵士たちは私たちを領内で最も大きな商会へと案内してくれた。
疲労の色が濃い商会長は、私が持ち込んだ斧を快く買い取ってくれた。
いや、「快く」というよりは、忙しさのあまり面倒ごとを早く片づけたい、といった風だったが。
私が交渉で値を吊り上げる気もしないくらい、彼の顔には疲労が刻まれていた。
それでも――結果として、私は当初の見積額どおりの金額をあっさりと手に入れたのだった。
私は十万ゴールドの証書を百枚、つまり一千万ゴールド分の束を手にして、満足げに商会をあとにした。
「今日は祝勝会といきましょう! もちろん私の奢りです。それと皆さんには特別手当を!」
「おおーっ!」
上機嫌な仲間たちの歓声が上がる。
私たちは活気のある通りを歩き、人の多い食堂をひとつ選んで入った。
「店主! ここは何を出すんです?」
「うちは蒸しトマクラが自慢でしてね。お出ししましょうか?」
「ええ、軽い酒も一緒にお願いします!」
「はいよ!」
注文を終えると、私は懐から預金証書を取り出した。
「さて、皆さん。よく頑張ってくれました。これは会社とは別に、私からの心ばかりの金一封です!」
「うおおおっ!!」
歓声が上がる。
どんな時代でも、結局はインセンティブが忠誠心を引き上げる最短の道だ。
『マルコスは特に頑張ってくれたし、あとで少し上乗せしてやるか。』
表情には出ていないが、どこか楽しげに酒をあおるマルコスを横目で見て、私も盃を傾けた。
――そして、気分が良すぎた私は、生まれて初めて酔いつぶれるほど飲み、記憶を失ってしまった。
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夢だ。もう三度目ともなれば、すぐにわかる。
「うぅ……頭が、ぐるぐるする……。」
酒場の椅子とテーブルに突っ伏したまま目を覚ました。
だが、椅子とテーブル以外の風景は、すべて溶けるように歪んでいた。
「うわあっ!? あなた、一体どれだけ飲んだら無意識の世界まで不安定になるんですかっ!」
聞き覚えのある声。
振り向くと、さっきまで私に料理を運んでくれていた給仕の娘の姿で――女神が、片手にトレイを持ちながらぷんすか怒っていた。
「う、うぅ……。」
だが私は、ぐるぐる回る世界に目が回るばかりだった。
「これじゃウエートレスごっこもできませんねっ!」
女神はふらつく足取りで私に近づくと――
――ぱしん!
持っていたトレイで、私の頭を叩いた。
「いってぇ! な、何するんですか!」
「ようやく正気に戻ったみたいですね。」
「人を叩いといてそれは……って、あれ?」
嘘のように、歪んでいた世界が安定し、頭もすっきりしていた。
「おお、ありがとうございます。元の世界でもここまで酔ったことはありませんでしたが……二度と経験したくないですね。」
「まったく。今後はお酒を控えなさい。」
「いや、普段はちゃんと適量なんですよ。今日は、久々に自分の稼ぎが入ったもので、つい羽目を外しただけです。もうしません。」
「ふん。口だけは相変わらず達者ですね。」
どこか拗ねたような女神の反応を無視して、私は微笑んだ。
「それにしても、お久しぶりですね。今回は三週間ぶりくらいですか?」
「そうですねぇ。誰かさんが悠々と小遣い稼ぎしてる間、こっちは翻訳システムの欠陥を直すのにどれだけ苦労したことか。」
挨拶もそっちのけで、全身で拗ねているのがわかる。
「なるほど。……その件で、拗ねたんですよね?」
「べ、別に拗ねてなんかいませんけどっ!」
「誰が 見てもすねたんです。」
「な、なんですって!」
「それより、翻訳システムを直したと? まさか……!」
「ふん。そうですよ。これでカタカナの部分も正しく日本語で表記されます。さぁ、感謝の言葉は?」
「ありがとうございます! 本当にお疲れさまでした! 今日はいいこと尽くしです!」
私は素直にその手を取り、感謝を伝えた。
「そ、そこまで言われると……べ、別にいいですけど……。」
照れたように視線を逸らす女神。私はそれに気づかず、そのまま隣の席へと彼女を誘った。
「せっかくですし、もう一杯どうです? 女神様、いいお酒をひとつ、 conjure してもらえませんか?」
「……今、酒を控えろって言ったばかりでしょうが!」
「まぁまぁ。所詮ここは幻の世界、酔いなんてしませんよ。雰囲気だけでも。」
少し無理を言っている自覚はあったが、今夜ばかりは止まらなかった。
「はぁ……わかりました。そこまで言うなら、最後まで付き合ってあげます。」
そう言って彼女は小さくため息をついた。
「はいっ!」
私の明るい返事に、女神は何かを思いついたように微笑むと――
――ぎぃ、と椅子を引いて、私のすぐ隣にぴたりと座った。
「え……女神様?」
慌てて振り向くと、女神は顔をそらしながら、肩を微かに震わせていた。
「ど、どうしよう……勢いで隣に座っちゃったけど……思ったより、恥ずかしい……。」
小声のつぶやきだがここは私の無意識の世界――その言葉はすべて、私の頭に届いてしまう。
「らしくないですね。さ、早く酒を――」
そう言いかけたところで、ふと気づいた。
「女神様。」
「は、はいっ!?」
「日本語で友と“付き合う”と、男女が“付き合う”とは……」
「そ、そんなの知ってますっ!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ女神に、私は吹き出した。
「ぷっ、自分の仕掛けた冗談に自分で照れるとは。女神様もまだまだですね。」
「な、なによそれっ! 女が照れてる時は、少しくらい気を遣うものでしょ!」
さらに拗ねる女神に、私は笑いながら答えた。
「はは、残念ながら私は“彼女いない歴=年齢”なんでね。その冗談は付き合ってあげられませんね。」
「え……?じゃあ、あなた、今の全部、冗談だと?」
「違うんですか? ああ、なるほど、これは“動揺させてからのパターン”ですね。」
私は軽く笑って流した。
まさか、本気で自分に恋心を抱くはずがない――そう思っていた。
――しかし、その瞬間、女神の瞳に影が落ちた。
そして、何も言わなかった。
「すべてが見破られて悔しいですか?」
私は口角を立てて尋ねた。
-ドン!カタカタ!
急にテーブルの上に、酒瓶とグラスが落ちる音がした。
「もういいですっ! これでも飲んでなさい!」
女神は顔を背けたまま怒鳴る。
私は苦笑してグラスに酒を注ぎ、彼女の分も満たした。
「ありがとうございます。女神様もどうぞ。」
「……。」
無言のまま背を向ける女神。
私は肩をすくめ、先に杯をあおった。
……正直、まだ彼女を許せてはいない。勝手にこの世界へ連れてきたことを。
たとえ結果的に良いことだったとしても――それは他人の人生を奪う行為だ。
だから今、彼女が怒っていても、慰める気にはなれなかった。
それに彼女が勝手に始めた戯れだ。自業自得だろう。
私は黙って盃を傾けた。
「ほう、味は本物の酒と変わらない……。これなら酔わなくても、雰囲気は――」
そこまで言って、意識が途切れた。
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「……はぁ。まったく、私は何をしてるのかしら。」
女神ソチエタスは、眠り込んだままのマサカオを見つめて、小さくため息をついた。
実際、彼が“酔い潰れた”のは、女神が作り出した酒のせいではない。
彼が受け入れた「酔う」という行為――それをもとに、彼女が再び“夢の終わり”を発動させたのだ。
今度こそ、出会いの痕跡すら残らぬように。
「……あなたの言う通りね。私は万物の母。人間ひとりに心を乱されるなんて、滑稽な話よ。あなたに褒めてもらいたくて、あんな翻訳システムまで必死に直した自分が、心底情けなかった。」
女神はそっと彼の頬を指でつついた。
「最初は、ただの罪悪感でした。でも、私はあなたに素直に謝る勇気がなかった。だからあんな風に、偉そうにしていたのよ。」
彼女はその指先で優しく彼の頬をなぞる。
「なのにあなたは、私の本性をちゃんと見抜いていたのね。それでも何も言わず、黙って聞いてくれていた……。それを“好かれている”なんて、勘違いして……馬鹿みたい。」
小さな笑みが浮かぶ。
女神はその指で、彼の頬を軽くつねった。
「知ってる? 神って、自分勝手な存在なの。
私もそう。人間が私にしていいこと、いけないこと――勝手に線を引いてる。口で罵られるくらいなら、いくらでも許せるけど……。」
指先に、少しだけ力がこもる。
「神の身体に触れるのは、本来、勇者でも許されない。本気で怒れば、天罰を下すことだってできるの。もしホワイトが同じことをしたら、きっと消し飛ばしてたでしょうね。」
しかし――
そのまま手のひらを広げ、彼の頬を包み込むように撫でながら、彼女は小さく笑った。
「でも……あなたにだけは、不思議と怒れなかったの。」
暗く沈んでいく無意識の世界。
女神は最後に、柔らかな笑みを浮かべて囁いた。
「この気持ちは――“愛”と呼んでもいいでしょうね。
少なくとも、女神ソチエタスの基準では。ふふっ。」
そして、彼女の微笑みだけを残して、マサカオの意識は完全に闇へと沈んでいった。




