怪しいアゴラ
ネゴが持ってきた物資のおかげで余裕ができ、私たちは出張の日程をゆったりと調整していた。
ところが思いがけず伯爵と顔を合わせ、交渉もとんとん拍子に終わってしまったせいで、自由な時間が少しできた。
そのため伯爵邸を出た私たちは、宿を取り二日ほど休むことにした。
もっとも私は実務者との協議や契約の細かい調整が残っていたので、すぐには休めなかったが。
アゴラは伯爵領、かなり大きな都市だった。
ただし伯爵家が直接運営する商会を除けば、民間の商会は存在しなかった。
正確に言うなら五つほど商会はあったが、いずれも伯爵家の親族や家臣が経営している。今は伯爵の子息がまだ幼いため、すべて家臣たちが委託されて運営していた。
私が会ったのは三番目の規模を持つ商会だった。
一番大きな商会は、絶え間なく争うマケット子爵との諍いのせいで軍需物資の供給に追われている。
二番目は都市全般の管理に必要な建材の流通や整備事業を担っている。
そして三番目が対外貿易を任されている商会だった。
「それは少し難しいかと存じますな。」
その三番目の商会――マニャリウスの会長を務める、アゴラの家臣プラヴィスが首を振った。
彼の指は契約書の木材輸送の部分で止まっていた。
「伯爵様と話を済ませた件です。ご確認くださって構いませんよ。」
「主様がそんなことを……? では確認いたしましょう。」
そう言うとプラヴィスは私を置いたまま部屋を出て行った。
『……警戒心がまるでないな。』
バザールのような田舎なら、機密どころかまともな書類すらろくにないから仕方ないとも言えるが……
伯爵の庇護下にある商会の会長がこの程度の意識では、私のような人間に弱みを握られるのも当然だ。
私はすぐさま立ち上がり、重要な書類が集められているらしい書棚へと向かった。
ちなみにこの世界には金庫がない。
金庫などどれほど堅牢に作っても、D級程度の魔法使いを呼べばたやすく破られてしまうからだ。
『さて……これは普通の貿易帳簿か。これは……社員名簿だな。これは……ん?』
いくつか書類束を取り出していた私は、奇妙な書類を発見した。
「워터・소스の퀀티티と리버の레이트お메저ための資金援助の要請の件.
……
1,000,000골드」
「메저먼트結果:
아퀘덕트の레이트とほぼ어코드.
브리지の컨스트럭트お푸싱するばい、어라운드のすべての리버が드라이すると予される.
特に마케트바이카운티は다이렉트な데미지が어보이드ない」
「아퀘덕트の컨스트럭트お푸싱するための밀리터리増大お決定.
會主からの미션:
必要서플라이と암즈お시큐어すること」
『なんだ、これは?』
今までも時折見かけて慣れてはいたが、ここまで韓国語がびっしり出てきたのは初めてだ。
『そうだよ! 前から直してくれって頼ん……だっけ? 誰に?』
一瞬、混乱に陥る。
『まあ読むことはできる。ハングルもひらがなのように表音文字だから、形さえ覚えれば音は拾える。だが……』
今回の内容は声に出すことはできても、意味がさっぱり分からない言葉ばかりだった。
――カツ、カツ。
ぼんやりしているうちに、プラヴィスの靴音が近づいてきた。
私は名残惜しい気持ちを抑え、書類を慌てて元の場所に戻し、椅子へ腰を下ろした。
「確認いたしました。契約書通り進めましょう。」
入ってきたプラヴィスがそう告げた。
「ええ。他の部分も問題ないですか?」
「はい、この程度で結構です。」
「ありがとうございます。」
私はようやく伯爵邸を後にすることができた。
『あの書類は一体なんだったのか……。』
気にはなったが、無理に追及する必要はないと頭の隅に追いやった。
【ウスキ。交渉は無事に終えた。知らせてくれ。】
バザールで待っている人々に、契約が無事に成立したと伝えた。
【思ったより早いですね。さすがご主人様! 分かりました。残りの予定、ゆっくり楽しんできてくださいね。(๑ - ̫ • )♡】
『あの残酷なかくれんぼを楽しんでいた少女とは思えないほど素直になったな……。私にだけなのか?』
できれば他人にも優しく接する人間になってほしいとも思う。
だが同時に、このまま私にだけ甘く、他人には容赦のない性格のままでもいいとも思う。
そのほうが私にとって都合がいいからだ。
ビジネスの世界であからさまに暴力を振るうのは禁物だ。
しかし力を匂わせ、相手の気勢を削ぐのは実に有効な戦術である。それが権力でも財力でも構わない。
だがこの世界では武力ですら十分に有効だ。
『まあ、どちらにも一長一短がある。深入りはよそう。もう休暇だ。』
これからは旅を楽しむつもりだった。
『もう一度広場に行ってみるか。まだ食べていないものがあるはずだ。』
今度は食べすぎないよう心に誓い、私は再び広場へ向かった。
『そういえば、この上に登れる場所はあるのか?』
コロッセオを思わせる広場の外壁に差し掛かった時、ふと上からの景色が気になった。
まるで本当にコロッセオのように上階へ続く階段があるかどうか、探してみた。
『あった!』
私は嬉々として階段を駆け上がった。
――さらさら。
上へ行くにつれて涼しくなり、壁の中を流れる水音が鮮明に聞こえてきた。
気温が下がって汗が引き、水音が鼓動と共鳴して私を急き立てるかのようで、ますます足が速くなる。
そしてついに頂上にたどり着いた。
『おお……期待には及ばないが、それでも悪くないな。』
安定した美しい水道橋のアーチは上から見ると視界を遮り、都市全体を一望することはできなかった。
それでも新しい風景を目にすれば気分は高揚する。
水音と景色を楽しみながら、しばし立ち尽くしていた。
『ん? あの人は何者だ?』
景色を眺めていると、周囲と少し違う装いの男が目に入った。
この地の住民は基本的にローマ風のトガに似た服を着ているのに、その男は普通にズボンとシャツ姿だった。
それだけなら大して不思議でもない。
だが彼は地図を広げ、目的地を探すようにきょろきょろと辺りを見回していた。
どう見ても旅行者だった。
『この地の名物といえば水路はそこら中にあるし、名所といえば広場だろう。大通りを真っ直ぐ来れば着くのに……私の知らない有名な場所でもあるのか?』
私はアゴラについて詳しくない。
ゲームではバザール以外だと首都ケイナンにしか行かなかった。それが一番効率的だったからだ。
私の知らない観光名所があっても不思議ではない。
『よし、ついて行ってみるか!』
いまは休暇、つまり本当に観光旅行に来ているようなものだ。
新しい名所を見つけるつもりで、私は嬉々として階段を下りた。
転げ落ちるように下りた甲斐があった。
ちょうどその男が方向を変え、ある路地に入っていくところだったのだ。
私は慌てて駆け寄り、後を追った。
だが彼を尾行しているうちに、だんだん妙な気配を感じ始めた。
『なぜ路地ばかりに入っていく?』
男はどんどん奥まった路地へと進んでいく。
やがて目的地に着いたらしく、路地の途中で立ち止まった。
私は角の陰に身を隠した。
『うっ……臭いが……。』
このヨンジの便所は水洗式で構成されていたため、嗅ぐことがないと思っていた匂い。それが急に漂い始めたのだ。
『まさか……!?』
嫌な予感を覚えながら、覗き込んだ。
『……違うか。』
幸いにして、男が直接用を足しているわけではなかった。
彼はただ、道端の一部を持ち上げていたのだ。
そしてもう片方の手で、何やら液体を注ぎ込んでいた。
『……なんだ? 化学薬品みたいなものか?』
思い浮かんだのは、よくあるパニック映画。人為的な原因で災害が起こる映画で、環境や人体に致命的な毒物を下水に流すシーン。
『もしアゴラで妙な災害でも起きたら、貿易に支障が出かねん……だが確証はない、特徴だけ覚えておこう。』
本当に災害を起こすつもりなら、この地の住民ではないはずだ。
私は彼が作業を終えて戻ってくるのを見届け、先に路地を抜けて大通りへ出た。
『近くに巡回中の兵士や騎士が……いないな。』
これではスリの濡れ衣を着せて身元を割る作戦は使えない。
『だが手がないわけじゃない。』
私はしばし待ち伏せた。
そして男の姿が見えたところで声をかけた。
「おおっ! マルコスさん! こんな所で会えるとは!」
「……ん? 俺のことか?」
「ええ! 私ですよ、私! バザールで会ったじゃありませんか!」
私は嬉しげに手を差し出した。
……途中で、彼がさっき素手で下水の蓋を開けていたのを思い出したが、堪えて手を握り、上下に振った。
これは相手を「知り合い」だと強引に決めつけて、正体を吐かせる作戦だった。
もちろん正体を明かさず去る者もいるだろう。
だがその場合は無理に引き留め、突き飛ばされるなど接触があった時に騒ぎを起こして、兵士を呼ぶつもりだった。
ところが思いがけない反応が返ってきた。
「あ、ああ! そうだったな! バザールで会ったな! 元気だったか?」
『……え?』
まさか相手のほうも「知り合いのふり」をしてきたのだ。
「え、ええ! 元気でしたとも! どれだけ元気かって、こんな遠い所まで旅をしてきたくらいですよ! ははは!」
「そ、そうか! ははは!」
まさかこんな反応が返ってくるとは思わず、私も言葉が妙に絡まり、彼もぎこちなく笑いながら手を振った。
そしてマルコス(?)はぎこちない仕草で身体を反らした。
「ま、会えて嬉しいが、少々急ぎの用があってな。また機会があれば話そう。失礼する。」
そう言って彼は足早に立ち去ろうとした。
『……余計に怪しい。やはり引き止めねば……!』
「ちょっ……!」
私が無理に声をかけようとしたその時――。
「何をしてんだ。貴様。」
背後から懐かしい声が響いた。
私は反射的に振り返る。
「お前がマルコスか? 会えて嬉しいぞ。俺はマルコスだ。怪しい野郎め。」
斧を携えたマルコスが、もう一人のマルコスを睨みつけながら獰猛に笑っていた。




