何かが抜けたような交渉
やはり伯爵邸は華やかだった。
大門を抜けると、広い庭園が広がっていた。
一番目を引くのはやはり送水路だ。
その水路から横へ落ちる水がちょうど当たるように、全体は丸みを帯びて先が尖った構造物が据えられていた。
その先端に水流が当たると、一部は四方に弾け、一部は構造物に沿って流れ落ちる――噴水になっている。
もちろん、飛び散る水が見物人に届かないよう、下の水受けは非常に大きく作られていた。
そうした噴水が、幹線に沿って一定間隔ごとに左右に設置されている。
『電気ポンプのない世界では、こういう形で噴水を作るのか』と私は思った。
噴水の向こうには、言うまでもなく色とりどりの花が咲き誇る庭園が広がっていた。
ゆっくりとした足取りで十分ほど歩き、ようやく館の玄関にたどり着く。
邸内に入ると、伯爵は中央の階段を上り二階へ、私たちは応接間へ通された。
「どうぞごゆっくり。旦那様が少し支度をしてからお戻りになりますので」
邸のメイドがそう言い、丁寧に頭を下げて出て行った。
そのメイドが出てから間もなく、別のメイドがトロリーを押して入ってきた。
「申し訳ございません。旦那様が予定より早くお戻りになりまして、支度が少々遅れております」
トロリーの上にはクッキーや菓子類を中心としたケータリングが載っていた。
「ご賞味ください。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
菓子を運んだメイドも丁寧に挨拶して出て行った。
「お、うまそうだな」
護衛の一人が真っ先に菓子を口に運ぶと、マルコスを除く他の者たちも一つずつ手に取って食べ始めた。
『さて、ここからどうするか──』
しかし私は、これから伯爵との会談でどう話を進めるかを考えていて、食事が喉を通らなかった。
『正直、気楽な気持ちで来たのに、事が妙にややこしくなったな』
結果的には失敗だったが、あの状況でアルバスの話題を切り出したのは合理的な判断だった。
そもそも私が伯爵に接近するために最初に考えた方法は、単なる街宣だった。
伯爵の邸の近くで「バザールでオーガがサーカスをやっています!ぜひ見に来てください!」と大声で呼びかけるつもりだったのだ。
捕まる寸前になったのも、想定シナリオの範囲内ではあった。命がかかるほどになるとは思っていなかっただけだ。
『もちろん一度で信じてもらえるとは思っていない』
要は伯爵に「オーガのサーカス」という言葉で興味を持たせることが目的だった。
伯爵の関心を引いて一言でも会話に入る機会が来れば、交渉ガイドを使ってでもなんとかできると自信はあった。
『ただ、今はちょっと事情が違う』
交渉に自信がないわけではない。
だが、私が知っているアルバスの情報があの貴族にとってどれほどの価値があるのか、望むものを得るためにどこまで情報を差し出すべきか、アルバスが本当に勇者ならば絶対に隠すべき情報は何か──そうした整理がついておらず、混乱しているだけだった。
『どうせ私の知っている情報でアルバスの現在地を特定できる材料はないだろうしな』
実際、私の知っている中で一番価値のある情報である容姿は既に暴露してしまっている。残りの情報はどれも大差ないから、残さず全部吐いてしまっても構わない気はしていた。
だが最後に点検はしておきたい。自分が見落としている点はないかと。
そうやって思考を整理しているうちに、少し時間が経った。
「当主がお入りになります」
アゴラ伯爵が入ってきた。
「我は少し忙しいから、早速本題に入るぞ」
「かしこまりました」
私は少し緊張して答えた。
「名が同じというあの男について話してみよ」
『話してみよ、か……』
私は伯爵の性格を推し量った。
『くっ。ウスキを連れてきていれば、こんな悩みはしなくて済んだのに』
伯爵の従者の中に、B級以上の実力者は見当たらなかった。
私の奴隷二名が二人ともB級だから、B級が多く見えるかもしれないが、実際には大陸全体でも五百人に満たない最上位の実力者である。
事実、C級でもどこへ行っても引けを取らない。こうした華やかな伯爵領でも、B級すらいない場合が珍しくない。
それに、明らかな強者がいるなら、その強者は貴族の権威そのものに公然と挑まない限り、ある程度羽目を外しても簡単には手出しされない。
人権のない世界の弱肉強食の論理だ。
『まだオーガのサーカスという手が残っている。ここではむしろ情報は無償でばらまいて親交を深めよう。翻訳能力に関するところだけは抜いておいて』
「私が初めてバザールに行ったときの話です。私は森の、パトゥム村の出身で、仕事を求めてバザールに移り住んだのです」
そう切り出し、私はアルバスといたときの出来事をすべて話した。
特に、アルバスが伯爵家の家侍だと考えるに至った決め手であるナパズ帝国語が話せたことを強調した。
もちろん、私の翻訳能力のことは伏せて、適当に脚色して話した。
「……話は以上です」
「ふむ」
伯爵は話を聞き終えると、考え込んだ。
『悪い兆候ではなさそうだが……』
顔まで白い伯爵の表情は暗くはなかった。
私は少し間を計ってから、伯爵が自分で何らかの結論を出す前に口を挟んだ。
「伯爵様。伯爵様はそのアルバス、伯爵様のお名前を騙る者が勇者だと疑っておいでなのですよね?剣の件で」
「なんだ。お前らも知っていたのか」
「はい。実はその通りです。もしもお悩みの点やもっとお知りになりたいことがあれば、遠慮なくお尋ねください」
「……」
最初は私の言葉を聞いても伯爵は一人で思案しようとしていた。
しかし人間というものは、すべてを自分一人で解決しなければならないときと、他人と意見を分かち合えるときでは、後者の方が決断力が鈍りやすい。
最高の結果を得るためには、当然多くの人と意見を交換するのが望ましい。
だが最善を求めるよりも速やかな結論を出すことが求められる時、独りで考えた方が早いのも事実だ。
それでも、人の欲望というのは決断の時間がまだ残っていると、更に良い方法がないか迷うものだ。
そういうとき、そばに悩みを共有できそうな相手がいると、決断をためらってしまう。
結局、伯爵は私を再び見た。
「今は勇者を守るために別途兵を割くのは難しい状況だ」
『保護……か。笑わせる』
貴族が勇者を自分の足元に置きたがる理由は明白だ。
そしてそれが決して公共の利益のためであるはずがない。
「山の向こうのマケット子爵が、最近露骨に外部の送水路に対するテロを試みようとしている兆候が捉えられたのだ」
伯爵が続けた。
『こんな状況でも勇者を欲しがるのか?いや、こういう状況だからこそ、勇者を確保して彼を利用してマケット子爵を葬り去ろうということだな』
使える情報を得た。
「マケットという野蛮な奴は野蛮ゆえにむしろ軍事力が高い。私はそいつらを、少なくとも私が治めている間は大人しくさせておきたい。方法はないか?」
伯爵の問いに私はすぐに答えた。
「私がお力を貸します」
『オーガのサーカスは現地出張サービスになるだろう。内容は少し残虐になるが』
「なんのことだ?」
もちろん、いきなり私がオーガの奴隷のオーナーだと明かしても、簡単には信じてもらえないだろう。
だがそれは既に結論の出た事柄である。少なくともオーガを単に従えていると信じさせるのは、オーガでサーカスを企てていると信じさせるよりははるかに容易だ。
「最近、バザールで新しい事業を始めまして」
もちろん、方法自体が簡単だという意味ではない。
「それは何だ?」
「木材の輸出業です」
「……木材か」
唐突に木材事業の話を切り出した私を、伯爵は不思議そうに見た。
『全体の情勢から見ると、利権はある程度放棄しよう』
最優先の目的が別にある相手にとって魅力ある提案にするには、受け入れられる代償を払う必要があった。
「我々は生産だけを行います。これらの木材をそちらで流通させてください。現在バザールには既に百トンの木材が蓄えてあり、我々が戻るころには百五十トンほどになるでしょう」
オークキングとの会談以降、遠隔命令で伐採隊をもう一度遠征に出していた。
そして伐採隊の遠征は週に一度行くことでとりあえず結論を出していた。
「我々は今、新しい商取引を望んでいるわけではない」
伯爵は首を振ったが、私にはまだ提案が残っている。
「これを最初は無償で差し上げます」
ネゴを略奪したおかげで、当面金や食料に困る状況ではなかった。
私は遠方のネゴ商団を略奪するよう軽く指示しただけだが、その商団は半年に一度、バザールが半年を暮らせるだけの物資を一度に運んでくる存在だった。
正直言って、人口が半分以上減った影響もあって、今回確保した物資があればバザールは何もせずとも一年以上持ちこたえられるほどだった。
これが私がアゴラに来てからあまり急いで動かなかった理由であり、私がこうして破格の提案をできる理由でもあった。
「無償で、か?」
伯爵も約百五十トンほどの木材を無償で得られる機会にはそそられたらしく、問い返してきた。
「はい。それを売って資金を調達していただければ、軍事力も増やせるはずです」
「そして見返りとして、そなたらはただ定期的な納品契約を望むのか?」
「その通りです」
当初は初回の取引だけ伯爵に委託して得た資金で自前の商団を組織するつもりだった。しかし現状を考え、それは断念した。
変更した私の計画は、流通と貿易は伯爵に任せ、伯爵の商団にアケボノを見せてオーガ奴隷の存在を明らかにし、それによって契約条件を更新するというものだった。
『この人とも今後よく会うことになるだろうな』
私は結局肯定的な返答をしたアゴラ伯爵を見つめ、ふと気づいた。
『ああ、そうだ!交渉ガイド!』
この世界に来てから初めて交渉ガイドなしで交渉を進めていたことに気づいたのだ。
私は慌てて開いた。
「交渉失敗!
あなたはアルバス·アゴラとの交渉に失敗しました。
失敗のタイプ:ガイド目標未達。
ヒント:状況が切迫しているのは相手の方でした。こんな時は交渉を先延ばしにするのも、相手を屈服させる方法です」
結果に満足している私とは裏腹に、断固として交渉失敗を主張する交渉ガイドだった。




