奴隷の交渉
「おい、どこ見てやがんだ、あん!? 人が話してんだ、目ェ合わせろや!」
ウスキはいつものようにラインを浮かべ、そこに視線を固定していた。
そこには主人から送られたシナリオが記されていた。
普通の人間がこれを見たならば、「まさか本当に交渉がこんなふうに進むものか」と疑っただろう。
だが、主人を無限に愛する彼女は一片の疑念もなく、シナリオの最初の台詞をそのまま口にした。
「その程度でもう十分です。そろそろ黙ってください」
その一言に、休むことなくウスキを嘲っていたネゴの口が、初めて閉ざされた。
『これで予定通りの反応が来るはず』
三流のチンピラじみた態度を取っていたネゴの目が鋭くなるのを見て、ウスキは主人のシナリオ通りに進むと信じた。
「へっ……おい、ガキ。テメェの言葉、しかと受け取ったぜ。……じゃあな、俺ァもう帰らぁ」
それまでの乱暴狼藉が嘘のように、重々しい声音でそう告げると、ネゴはゆっくりと腰を上げた。
その様子にウスキの目がわずかに見開かれる。
『まさか、そんなはずが……』
一瞬、呆けてしまうウスキ。
隣で見ていたギルドマスター、エイタンは焦り始めた。
ネゴが訪れると聞いて戦々恐々としていたところへ、窓から飛び込んできて「ネゴとの交渉の全権を自分に任せてほしい」と頼み込んできたウスキ。
「主人とはどれだけ離れていても即座に文をやりとりできる」などと訳の分からぬことを口走っていたが、ともあれB級の高位実力者が前に出るならネゴも無茶はできまいと、エイタンは渋々承諾したのだ。
だが、いざ交渉が始まれば十分以上も何も言えず、一方的に嘲られ続け、結局我慢できず暴言を吐いてすべてを台無しにした。
エイタンの目にはそう映っていた。
「ま、待ちなされっ……!」
ネゴを引き止めようと立ち上がったその瞬間、ウスキの顔が視界をかすめた。
『もう、ご主人様ったら……』
ウスキは薄く笑っていた。
『“おい、ガキ”が抜けちゃってますよ。こういう人間らしいミスもなさって、かわいいんだから』
実際、ネゴの返答は政嘉男のシナリオにあった台詞から“一文だけが”抜け落ちていたのだ。
それが可能だったのは、政嘉男がゲームで初めて出会う悪党・ネゴの台詞をほとんど暗記していたからだった。
「……何がおかしい?」
席を立ちかけたネゴが、ウスキの微笑を見て不快げに問う。
『しまった! 私の不用意な仕草でご主人様のシナリオを壊すわけにはいかない。些細な単語の違いなんて気にする必要ないわ。流れを崩さなければ大丈夫。さっさと修正しないと』
ウスキは慌てて次の台詞を紡いだ。
「このままではむしろ損をするのはあなたです。なぜなら、私たちはすでにチャルシ子爵に伝書を送っていますから」
「ほぉ……ちょっと仕掛けてやがったか。そいつが何か、素直に吐いてもらおうじゃねぇか」
ネゴが威圧的な動きを見せながら問う。
『くっ! 私のせいでネゴの台詞がだいぶ変わってしまった……。けど、まだ流れ自体は外れてない。予定通り、伝書の中身を訊いてきたんだから』
ウスキは迷わず定められた台詞を口にした。
「あなたが行ってきた詐欺や欺瞞、横領のすべてを記した告発状です」
「……フハハ! たいそうなことを言うと思えば、その程度かよ。おい。チャルシ子爵様はな、自分に関わりのねぇ領地で俺が何しようと気にも――」
「気にもされませんよね」
「……あァ?」
『よし! ご主人様のシナリオ通りに戻った!』
ウスキは安堵しつつ、予定通りネゴの言葉を遮った。
「ご自身に関わらないことなら、貴族の権威に真っ向から挑むような話でもない限り、別に関心はお持ちにならない。すでに承知しています」
「……まさか……」
ネゴの顔色が変わった。
「ええ。告発状に書かれているのは、あなたがチャルシ子爵に対してやったこと。子爵がまだ後継者争いの渦中にいた頃、幼い彼を騙して金をむしり取った、その詳細です」
「黙れッ!」
ついにネゴが声を荒らげた。
気づけばいつの間にか、ひとりの男がウスキの首筋に刃を突きつけていた。
「フッ……ククク! 交渉の最中に武器を抜くなんて、野蛮ですこと」
今度の笑みは計算されたものだった。
「チッ! 刃を見ても取り乱さねぇか……。俺も子ども相手にマジになりすぎたかよ」
ネゴが再び立ち上がろうとした。
それに合わせるように、部下がウスキへと刃を振り下ろす。
――ガキィン! ガラガラッ!
「ん? 何だァ?」
鉄が砕け、潰れる音にネゴが振り向いた。
「まだ交渉中です。座ってください」
平然と告げるウスキの傍らには、球のように歪んでしまった剣を握ったまま、声ひとつ出せず気絶している部下の姿があった。
「な、何が起きやがった……?」
呆然とするネゴ。
その胸倉にウスキの念動力が触れた。
「いいから、大人しく座ってください!」
「ぐぉっ!?」
少し強めに諭しながら、ウスキは念動力でネゴをソファに押し込む。
「ゴホッ、ゴホッ……て、テメェ……B、B級か……」
この規模の念動力を扱えるのは、B級以上の実力者のみ。
ネゴも辺境の領地を荒らし回り、資源を都に売り払う中で、何度かB級の実力者を目にしたことがあった。
「わかったら、大人しく交渉に応じなさい」
ウスキの言葉通り、ネゴはもはや大人しくするしかなかった。
チャルシ子爵にはB級の戦力など存在しないのだから。
ネゴはこれまで数多くの領地を回り、いろんな貴族どもとつながりを作ってきた。
だが、チャルシーほど確実に恩を売っておいた相手はいない。
特に伯爵領の中じゃ、バザールに一番近いアゴラ伯爵との関係も微妙なもんだった。
もし自分が濡れ衣を着せられたって訴えた場合、両方に明確な非がねぇならアゴラ伯爵はネゴの肩を持つ可能性が高ぇ。
だが、今みてぇにこっちに明確な大義名分がある時は、アゴラ伯爵も出しゃばりはしねぇだろう。
ここまでの台本は、そういうための布石ってわけだ。
そして、ここからが本格的な交渉だった。
「もちろん、チャルシー子爵様があんたの悪事を知ったとしても、すぐに切り捨てはしねぇでしょう。後継争いの時にあんたは大きな功績を立てましたからね」
相手の手の内を先に口にすることで、相手にこう思わせることができる。
――『それを知っていてなお、こう仕掛けてくるってことは、俺の知らねぇ切り札を持っているのか?』と。
……普通の状況なら、だが。
「そ、そうだ! てめぇ! 馬鹿な真似をしたな! チャルシー子爵様がたかが金の横領ごときで、俺を切り捨てるはずがねぇ!」
だが相手が何の備えもない間抜けなら、むしろ自分が知らなかった可能性ばかりに囚われて、相手の意図なんざ考えもしねぇ。
そもそも相手の意図を読もうともしねぇ奴を馬鹿とは呼ばないが。
「だから、伝書鳩でちょっと追伸を送ろうと思ってます」
「な、なにっ!?」
こんな馬鹿を相手に、真面目に取り合う必要もないんだ。
「あなたがわざわざ田舎の領地ばかり回って商売してる理由。私はそれを――チャルシー子爵を攻撃する私兵を集めて隠すためだと、そう送るつもりですよ」
目には目を。ペテンにはペテンを。
馬鹿には、もっともらしい嘘を数言並べりゃ十分だ。
そもそも伝書鳩を送ったって話自体、真っ赤な嘘なんだが。
「ぬ、抜かすな! 子爵様がそんなもん信じるわけが――!」
「信じますよ」
またしても言葉を遮ったウスキ。
「子爵様が昔の借りのせいであんたを切り捨てないだけで、疑念はもう芽生えてるんです。そこにさらに悪い噂が入ってくれば、疑念は確信に変わる。信じざるを得なくなるんですよ」
「……こ、このっ……!!!」
ネゴは頭のてっぺんまでカッと血が昇ったが、相手がB級と分かってる以上、手を出すこともできず顔だけ真っ赤にしていた。
『やっぱ頭が回らねぇ奴だったな。ご主人様を疑ったわけじゃねぇが、まさか人間がここまで間抜けだとは……。やっぱりご主人様はすべてお見通しなんだ。女神なんかよりずっと偉大なお方だ……』
ウスキの妄信はますます深まり、彼女は少し戦慄を感じながら口を開いた。
「もう長々と言うつもりはありません。あんたが今持ってる財産をすべて差し出しなさい。そうすれば大人しく黙っていてあげます」
「な、なんだと……!? そ、そんなのはあんまりにも……」
「じゃあ、このままチャルシー子爵と敵対して、子爵の庇護の下でやってきた悪行の報いを受けますか?」
ウスキの声音は一貫して落ち着いていた。
「……うぐうっ!」
『よし!』
これでご主人様から送られたシナリオが、きっちり最後まで噛み合った。
もちろん途中で何度か台本通りにいかない台詞もあったが、マサカオはすでに『多少ずれても構わない』と伝えてくれていた。
そしてネゴは、一度も流れを外さず、哀れにマサカオのシナリオの中で踊らされたのだ。
『ご主人様からの使命を果たせて嬉しい! なんて幸せなんだろう!』
ウスキは一種の神懸りの巫女の万能感に酔いしれていた。
「交渉成功!
あなたはご主人マサカオの忠実なる奴隷として、ネゴとの交渉に成功しました。
―交渉ガイドが提示した目標を達成しました!
報酬が与えられます。
ガイド目標:ネゴの現財産をすべて奪取すること。
交渉成果:ネゴの現財産をすべて奪取すること。
交渉ポイントが付与されます。
ポイント:1,000pt
※奴隷代理交渉の実績を達成!
報酬:①遠隔交渉ガイドが解放されました。奴隷視界共有スキルを通じて、ご主人が任意に発動できます。奴隷視界共有スキルが必要です。
②主人と奴隷の運命の糸が解放されました。これからは人間奴隷、あるいは知能の高い魔物奴隷と主人は距離に関係なく互いの存在を感じ取ることができます。知能の低い魔物奴隷の場合、ご主人にだけ存在が伝わり、魔物奴隷は感覚を遮断されます」
「……あら?」
目の前に再び現れた見慣れぬメッセージ。
そして、その最後に書かれていた通り、アゴラ伯爵領の方角、遠くからご主人様だと確信できる気配が伝わってきた。
【成功したか?】
突然、ご主人様からラインが飛んできた。
【あっ! 申し訳ありません!】
【ん? 何が?】
【成功のご報告を先に差し上げるべきでしたのに……ご主人様の偉大さに感嘆して、つい……(˃̩̩̥ɷ˂̩̩̥)】
【だからそういう絵文字みたいなのをどうやって……いや、いい。交渉に成功したならそれで充分だ。ネゴの奴が変な真似しないか見張っとけ。バザールから追い出したら休め】
【はい。寛大なお言葉、ありがとうございます】
「さて、決まったならさっさと出て行ってください。最低限の食料だけは許します。それだけ持って出て行くんです。バザールを完全に離れるまで、私が付き添って監視しますから。さぁ、早く!」
マサカオは「いい」と言っていたのに、主人に対して後ろめたい思いを抱いたウスキは、ついネゴを必要以上に急き立てていた。




