オーク・キング
『大丈夫だ。怖がることはない。』
私は自分にそう言い聞かせた。
『もっと格上の凶暴なオーガでさえ止めた交渉権だ。まさか本当にあの木を振り回すわけがない。』
――ブウン! ブウン!
そう思い込もうとしていたが、一本の木がまるで小枝のように軽々と振るわれる現実離れした光景に、足が少しずつ震え始めていた。
『くっ! しっかりしろ! 相手は交渉戦術として武力示威を選んだのだ。ここで怯えた様子を見せれば思うつぼだ!』
実際、オークキングはゆっくりとこちらへ歩み寄りながら、私の反応を窺っているようだった。
ここで弱みを見せれば、相手は脅しだけで押し切れると判断し、その後は何を言っても耳を貸さなくなる。
「矛盾……だ。」
私は震えを必死に隠しながら言った。
「矛盾? どういう意味だ。」
「もし肉が口に合わなかったのなら、わざわざ私を奴隷にする必要はないだろう。肉がまずいなんてのは嘘だ。本当はこの肉団子が欲しくて仕方なかったんじゃないか!」
「ほう。そこに気づいたか。で、それがどうした。」
「約束どおり、考える時間をもう少しくれ。私はとても慎重な性格でして、二時間は必要だ。」
「なるほど。約束どおり時間はやろう。」
『よし……!』
「十分。その間に結論を出せ。二時間だと? 冗談が過ぎるぞ。」
心の中で歓声を上げる間もなく、オークキングは肩に担いだ木を握り直しながら通告した。
制限時間はまだ二時間半ほど残っていたので、もしかしたらと思ったが、やはり通じなかった。
『いい。想定の範囲内だ。十分ならなんとかできる。』
私はすぐにウスキへラインを送った。
【遅くなってごめん。今どんな状況? ネゴとはどうなってる?】
【ネゴの奴、交渉すると言った途端、休まず私を嘲笑してます。】
【そうか。そうだと思った。先に言っておけばよかったな。ウスキは大丈夫か?】
【お気遣いありがとうございます! 私は大丈夫です。私はご主人様の所有物ですから。他人が何を言おうと関係ありません。】
『……ちょっと重いな。』
やはり一生責任を背負うべき子だった。
【わかった。とにかくこれから交渉シナリオを教える。大きく外れはしないはずだ。この通りにやればいい。】
そうしてネゴとの交渉シナリオをすべて送った。
『これでいいはずだ。』
私は顔を上げ、オークキングと視線を合わせた。
「ほう。もう結論が出たか。ちょうど十分快だな。さあ、見せてみろ。」
『もう十分経ったのか……。』
ウスキへシナリオを送るのに夢中で、考える暇などなかった。
だが、ほんの小さな違和感は感じていた。
「オークキング。オークの王よ。これまでの無礼をお許しください。改めて挨拶いたします。私は人間の町バザールにあるファインギルド所属、政嘉男・宇賀と申します。」
私は深々と頭を下げた。
「急に何の真似だ。意味がわからんが。」
オークキングは、本気で私の行動の意図を理解できていない様子だった。
「これは人間の礼儀です。あなたを対等な取引相手として認める、そういう意味です。」
「ほう。そういうことか。……傲慢だな。」
オークキングは肩にかけていた木を握り直した。
「対等だと? 貴様らは弱者だ。今すぐ跪き、命乞いをすべき立場だ。それを……」
「オークキングは部下をとても大事にされていましたね。まさにオークたちの王にふさわしいお方です。」
交渉が決裂する前に、慌てて言葉を挟んだ。
「そうだ。そしてその大切な部下三人を、お前たちが殺した。すでに慈悲は十分与えた。これ以上は……」
「三人が死んだことは遺憾ですが、激しい戦いの中で手加減する余裕はありませんでした。その点は心からお詫び申し上げます。」
私は再び頭を下げた。
「謝罪で済むことではない!」
だがオークキングの怒りは収まらなかった。
「こう考えてみてはいかがでしょうか。その三人が死んだ代わりに、残されたオークたち――あなたの民を救うことができる、と。」
「……なんだと?」
オークキングの動きが、ついに止まった。
『小さな違和感。それは相手の異質な外見にすぎなかった。』
私はこれまでずっと、ただ少し凶暴なだけの人間を相手にしている気分だったのだ。
しかし、相手が明らかに人間を敵視するモンスターの姿をしているため、その感覚が覆い隠されていただけだった。
『仲間の死に悲しみ、怒り、それでも相手の話を一応聞き、復讐よりも実利を選ぶ。ベルミスよりよほど人間的じゃないか。』
そう気づき、オークキングを一人の人間として見直すと、ようやく見えてきた。
『苦悩している。』
それは支配者の苦悩だ。
オークの餌がまったく味がしないというのは嘘だっただろうが、他のモンスターに対応する餌のような効果がなかったのは事実だろう。
だがオークキングはその餌を欲していた。思い返せば妙に執着していたのだ。
「つまり、食糧が必要なんですね。」
言ってしまえば、オーク社会に飢饉が訪れているということだ。
「……そこまで見抜くとは、思ったより賢い人間だ。」
『ならば、支配者として焦るのも当然だ。』
他の災厄は一地方を滅ぼすことはあっても、社会の根幹を揺るがすことはない。
むしろ幾つかの災厄は、社会をより団結させることすらある。
だが飢饉は違う。飢饉こそが社会を根底から崩壊させる大災厄だ。
天保の大飢饉は江戸時代を終わらせ、天明の世界的な飢饉はマリー・アントワネットの首を刎ねた。
支配者にとって飢饉ほど恐れるべきものはない。
『そして、失うものが多い者の苦悩こそが、ビジネスの好機だ!』
「オークキング。人間と交易をしたことはありますか?」
私はあえて当然のことを尋ねた。
「あるはずがなかろう。言葉の通じる人間すら、貴様が初めてだ。」
「ええ。人間と交易どころか、出会えば互いに殺し合うのが当たり前でしょう。当然です。ですが今は状況が違うのでは?」
「……まさか。」
「そうです。互いに理解の余地がなかった異形の二種族が、悲しい犠牲の上で反省し、対話し、新たな関係を築くのです。」
そう言って、私は餌を購入した。
『キリゲーターの餌を五つ購入しました。』
キリゲーターの餌だ。
『オークの餌は一つ25ptだが、キリゲーターの餌は800pt。だが大きさは百倍以上ある。はるかに効率的だ。』
どうせこれも肉でできている。
今のオークたちに必要なのは美食ではなく、腹を満たす糧だった。
「これは、部下三人の件に対する謝罪の印として贈るものです。持ち帰って、まずは切迫した飢えを凌いでください。」
そう言って、キリゲーターの餌五つを並べた。
「……貴様、肉塊は百個が限界だと言っていたな。やはりまだ隠し持っていたか。」
「その通りです。ですが賢明なご判断をしていただけると信じています。」
「……。」
しばし沈黙が落ちた。
「よかろう。取引をしてみよう。」
『交渉成功!
あなたはオークキングとの交渉に成功しました。
―交渉ガイドが提示した目標を超過達成しました!
大きな報酬が与えられます。
ガイド目標:オークキングの撤退
交渉成果:オーク族との交易協定
交渉ポイントが支給されます。
ポイント:100,000pt。』
『やった!』
「それで、もし差し支えなければ、そちらが差し出す品物を教えていただけますか?」
「よかろう。そこの人間の斧を借りてくれ。」
オークキングはマルコスを指差した。
「マルコスさん! その斧を、オークキングに貸していただけますか?」
「……何だと?」
「早く! 重要なことなんです!」
渋るマルコスを、私は簡潔に説得した。
「……ちっ!」
マルコスは返事もせず舌打ちし、斧をオークキングへ放り投げた。
オークキングは当然のように軽々と受け取った。
「お前ら人間は鉄で作った鋭い武器を好むようだな。」
「戦いでは、そのほうが効率的ですから。」
「我らオークが粗末な棍棒を武器にする理由を知っているか?」
「……まさか、鉄の武器を作れるのに、あえて作っていないと?」
「そのほうが武器を調達するのに効率的だからだ。」
「……ああ!」
最初は理解できなかったが、考えてみてようやく腑に落ちた。
『鉄の武器を作るには、まず鉄が必要だ。』
人間の社会は広大で、貨幣で有機的につながっている。
鉱山で鉱石を掘るだけでも生計が立ち、それを運ぶだけでも食えるし、原石を精錬して武器にするだけでも暮らせる。
だがオークの社会は、おそらくそれほど大きくはない。
ほぼ自給自足の生活で、鉄を掘り出し、何かを作るのは難しいだろう。
『だが、外部と交易して食糧を自給する必要がなくなれば、皆が優れた鍛冶師になるのか……?』
実際、ゲームではそんな描写はなかったから、オークの鍛冶技術がどの程度かはわからない。
『まあ、一度取引してみて、大したことなければ、曙とウスキを送り込んで一掃すればいい。』
オークキングがこれほど話が通じても、結局はモンスターだ。
無理に紳士的である必要はない。
――!!
「ん? 何の音だ?」
その時、遠くから不気味な音が響いた。
「ギリギリギリ!」
『しまった。この餌の匂いに釣られて来たか。』
「なっ! あ、あれはさっきのキリゲーターだ!」
今まで息を潜めて見ていた御者が叫んだ。
『やっぱり、モンスターの襲撃を感知するのは鋭いな。』
私は心の中で笑った。
「オークキングがおとなしいと思ったら、今度はキリゲーターの襲撃か!」
「もう駄目だ! 我々は終わりだ!」
「女神よ! なぜこのように過酷なのです!」
余裕のある私とは対照的に、背後では女神を恨む声すら上がり、大混乱だった。
「おい、人間。」
オークキングが私を呼んだ。
「借りたついでに少し使わせてもらうぞ。あいつは捕まえるのが面倒でな。これならちょうどいい。」
そう言って、オークキングは片手に木を、もう片手に斧を持ち、キリゲーターへ突進した。
――ブウン!
「ギリッ!?」
まず木を顔に投げつけて視界を塞ぎ、
――ブシュッ!
「ギィーー……」
刃のような鱗を一撃で砕き、頭を割った。
『すごいな。』
私は素直に感嘆した。
同じくCランクに分類されるモンスターを、一撃で倒してしまったのだ。
「人間。」
「政嘉男・宇賀です。」
「そうか。オーガ。」
「……はい?」
私は思わず間抜けな声を漏らした。
「そいつはお前らが持っていけ。贈り物だ。」
オークキングはマルコスの方へ斧を軽く投げ返し、涼しい顔で言った。
「まさか、モンスターからもモンスター扱いされるとは……。」
そして私は、巨大な肉団子を抱え、一度に持ち去って悠然と去っていくオークキングの背を、ただ黙って見送るしかなかった。




