LINE
「マサカオさん。」
リシがどこか不気味な声で私を呼んだ。
「はい?」
私は相変わらず腰にウスキをぶら下げたまま答えた。
「“あれ”を渡してくださらない? ウスキさんが目を覚ますまで取っておいたものでしょう?」
リシがにっこり笑って提案してきた。
「あっ、そうでした!」
不安に震えるウスキを落ち着かせることばかりに気を取られて、すっかり忘れていた。
ウスキのためのサプライズを。
「でも、この状態じゃちょっと……。」
ウスキが私から離れようとしないから、どうにもできなかったのだ。
「私が取ってきます。マサカオさんのお部屋ですよね?」
「ええ。お願いします。」
私は自分の部屋の鍵をリシに渡した。
「すぐ戻りますね!」
リシが小走りで階段を駆け上がっていった。
『それまでは、できるだけウスキをなだめておかないと。』
私は、周りが何を話していようと気にせず、ただ私の腰にしがみついて震えているウスキの頭を撫でてやった。
ゆっくりと、優しく。
『……という感じを出しているけど、これで合ってるのかな? 女の子の頭なんて撫でたことないから分からないな。』
しかし心配は杞憂に終わり、ウスキの震えは徐々に治まっていった。
「ウスキさん。」
少し落ち着いてきたように見えたので、名前を呼んでみる。
「タメ口で……。」
「え?」
胸元に顔を埋めたままつぶやく声でよく聞き取れなかった。
自分でも気づいたのか、ウスキは私を抱きしめたまま顔を上げて見上げてきた。
「タメ口で話してください。」
「えっと……。」
思いがけない要求だった。
『生前の年齢を考えても年上の方だし、タメ口はちょっと……。』
私がためらうと、ウスキはさらに悲しそうな顔になって言った。
「私はご主人様の奴隷なんです。主人が奴隷に敬語を使うなんてありえません。それなのにずっと敬語を使われると……ご主人様が本当は私の主でいたくないんじゃないかって、不安になるんです。」
彼女の今一番の問題、不安そのものを口にされてしまっては、仕方がなかった。
「……分かった。ウスキ。」
私がタメ口で答えると、彼女の顔から少し悲しみが薄れた。
それでも、逃がすまいとするようにしっかりと私を抱きしめ続けたまま。
しかも、満足したのか再び顔を胸に埋めてしまった。
「なあ、ウスキ? 俺は絶対にお前を捨てない。だからもう不安がらずに……そろそろ離してくれないか?」
そう言うと、ウスキはまた顔を上げて尋ねてきた。
「じゃあ……私、二十四時間ご主人様にくっついててもいいですか? 絶対に離れたくないんです。ご主人様が見えなくなるのは嫌……。」
『面倒なことになったな。』
彼女の要求は到底受け入れられるものではなかった。
プライベートがなくなるのは言うまでもないが、それ以上に大事な問題がある。
『使える使いを頼めるのが、ウスキしかいないんだよな。』
今の私は偶然とはいえBランクの奴隷を二人も持ってしまったが、実際に役に立つのはウスキだけだ。
オーガの知能が思ったより高いとはいえ、人間よりずっと低い。
しかも種族自体が魔物だ。
例えば、人間から何かを買ってきてもらわなければならない時、オーガを使いに出したとして、一体何ができるというのか。
買う物を間違えるのは目に見えているし、そもそも商人がまともに相手をしてくれるかどうかも怪しい。
結局、ウスキは私の使いをするために、何度も私のもとを離れなければならないのだ。
『どう説得するか……待てよ、もしかして交渉ガイドが反応するか?』
私は交渉ガイドを開いてみた。
「――交渉不可!
あなたとウスキは主従関係にあります。
主の命令は絶対です。
したがって、主と奴隷の間に交渉は成立しません。」
『……やっぱりな。』
交渉ガイドの案内を読みながら、私は心の中でため息をついた。
『主の命令は絶対、か……。』
つまり、私が「離れろ」と命じれば、ウスキは従うしかないということだ。
『でもそれは、俺が嫌なんだよな。』
いくら主従とはいえ、人と人の関係だ。
彼女の気持ちを踏みにじって、ただ命令に従う機械にするなんてしたくない。
『考えろ……。』
私はしばらく黙ったまま、再びウスキの頭を撫でてやった。彼女がまた不安に落ち込まないように。
「嫌です……ご主人様。ごまかさないでください……。」
どうやら彼女は、私が答えを避けていると受け取ったらしい。
『むしろ考える時間が減ったな……仕方ない。』
私は、今思いついた方法を試すことにした。
「ウスキ。LINEのメッセージ画面を開いてみて。」
「……はい。」
望んだ答えをすぐにもらえなかったせいか、ウスキは口を尖らせながらも、言われた通りにした。
そして彼女が状態表示を開き、LINEを起動した瞬間――私はその頭を抱き寄せ、胸に押し当てた。
「ご主人様……?」
胸に顔を埋めたまま、不思議そうな声を上げる。
「ウスキ。他の主人と奴隷の間に、LINEみたいな特別な通信があるなんて聞いたことある?」
問いかけると、彼女は小さく首を横に振った。
「このLINEメッセージは、俺だけの特別な能力なんだ。つまり、LINEそのものが俺なんだよ。」
そう言いながら、私は彼女の肩を押して少し距離を取らせた。
すると、彼女が開いていたLINEの画面が、まるで私の体から流れ出すように彼女の目の前に浮かび上がった。
「もし俺がウスキを捨てるなら、このLINEも消えるはずだ。逆に言えば、このLINEが消えない限り、俺は絶対にお前を捨てない。分かったか?」
顔を上げたウスキの視線に合わせて、LINEのウィンドウもふわりと上がる。
彼女の目には、私の顔とLINEが一体化して見えたようだった。
「そ……そうなんですか?」
この演出でも、反応はいまいち曖昧だ。
私はさらに、自分も画面を開き、同時にメッセージを送った。
「そうだ。ウスキの目の前にLINEがある限り、俺は絶対にお前を捨てない。」
【そうだ。ウスキの目の前にLINEがある限り、俺は絶対にお前を捨てない。】
本当は「なぜならこれはお前と俺を繋ぐLINEだから」と言いたかったが……なんだか企業の宣伝文句みたいで恥ずかしくなり、口には出さなかった。
半透明の画面越しに見えたウスキの顔は、ようやく明るさを取り戻していた。
「なるほど! じゃあ目の前にLINEを出しておけば、私はいつでもご主人様と一緒ってことですね! しかも会話もできるし!」
彼女はようやく納得したらしく、興奮気味に言った。
もっとも、今は私が目の前にいるのでわざわざLINEを使う必要がないと思ったのか、すぐに画面を閉じ、私を真っ直ぐに見つめた。
「……でも、あんまり頻繁に話しかけないでくれ。さっきみたいに大変だから。」
「えっ? じゃあ、どのくらいの間隔で送ればいいんですか?」
「うーん……。」
少し考えてみたが、結論として定期的な連絡時間を決めるのは良くないと思った。
『その時間に俺が何をしているか分からないしな。』
もし忙しくて返事できなかったら、またどうなるか分かったもんじゃない。
「……間隔は決めないことにしよう。悪いけど言い直す。いつでも話しかけていい。勝手に一方的に話してくれてもいい。」
ただし――と私は続けた。
「返事がすぐ来なくても、不安にならないこと。俺が忙しくて遅れるかもしれない。でもさっきも言った通り、LINEの画面が目の前にある限り、俺はお前を捨てない。それで分かったな?」
「はい! 私は、ご主人様が私を捨ててないって証だけあればいいんです。どうせ奴隷の呼びかけに答えるかどうかはご主人様が決めることですし、私は静かに待ちます!」
「うん。よく分かってくれたな。」
不安の影を消し、満面の笑みを浮かべたウスキを見て、私は満足げにうなずいた。
「持ってきましたよ~!」
「あっ、そうだ! リシさん!」
本当は、リシがサプライズを取りに行ってくれている間だけのつなぎだったのに……気がつけばウスキの不安を解消してしまっていた。
しかもかなり特殊なやり方で。
『……なんで今になって戻ってきたんだ?』
結局、私が忘れていたせいだった。
「すみません、遅くなっちゃいましたね?」
素直に謝ってきたリシに、腹は立たなかった。
「大丈夫です。ウスキはもう元気を取り戻しましたから。むしろよかった。気持ちが落ち着いた状態でサプライズを受け取る方がいいですからね。」
そう言って受け取ろうとしたら、リシはなぜか一度引っ込めた。
「……ウスキ?」
「あ、はい。実は……私が主人で、ウスキが奴隷になったので。上下関係についてもっともな指摘を受けまして、これからはウスキにはタメ口で話すことにしました。」
「……そうですか。」
リシは一瞬、打ちのめされたような顔になり、ぼんやりとしたまま品を渡してきた。
「……リシさん? 何か……。」
「あっ! ちょっと思い出したことがありまして! 先に失礼しますね!」
私の疑問を遮り、リシはそそくさと部屋を出て行った。
「……?」
私は首をかしげたが、すぐに忘れることにした。
『とにかく、まずはウスキへのサプライズだ。』
「じゃーん! これが何か分かるか?」
私は鍵と一緒に渡された品を、ウスキの目の前に差し出した。
「これは……ポーションですか? ……まさか!」
そうだ。ウスキの母親を治すためのポーションが、昨日完成してギルドに届けられていたのだ。
ギルドに個人宛てで届く品は受付嬢が受け取るため、ポーションの正体はすでに彼女たちに知られている。
ただ昨日、母親――タイラに会い、相談した結果、ウスキが目を覚ましたら彼女自身の手で母に飲ませることに決めていた。
その時、タイラの名と、母娘の過去も聞かされたのだった。
「さあ、ウスキ。お前が直接お母さんに渡すんだ。そして自分の手で治してあげろ。自分の過ちを、そこで償うんだ。」
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ウスキは震える手で、主人から手渡されたポーションをじっと見つめていた。
「行ってこい。」
主人に一人で行ってこいと送り出されたときも、母の部屋へ向かう途中ずっとポーションだけを呆然と眺めながら歩いていた。
そして――あの事件以来、初めて目にした母の明るい笑顔も、ポーションを飲んで回復していく姿も、ようやく治ったとウスキを強く抱きしめて嗚咽する姿も、
ウスキの目にはまるで映っていなかった。
ただ焦点の合わない瞳で、前だけを見据えていたのだ。
『ご主人様は偉大です。』
『ご主人様は偉大で、崇高なお方です。』
『ご主人様は神様です。』
『たとえ女神がご主人様を否定し、この世のすべての人間がご主人様を呪ったとしても、私は最後までご主人様を肯定します。』
『ご主人様は女神などよりも偉大で、そして優しいお方だから。』
長い年月、どれほど女神に祈りを捧げてきただろう。
だが結局、その祈りが報われることはなかった。
ウスキの祈りに応えてくれたのは、政嘉男――主人ただ一人だった。
『ご主人様、愛しています。』
その告白は、ただ女性が男性に抱く愛情という以上のものだった。
いわば、それは信仰。
この日を境にウスキは、女神が創り出した世界のすべてから目を逸らした。
そして主人と共にいる時を除けば、ただ主人と自分を繋いでくれるLINEだけを見つめながら、生きるようになったのである。




