欺き
「奴隷契約の魔法……使えはしますが、モンスターには通用しません」
ワナ様は、私が何をしようとしているのかすでに察しているようだった。
「どうしてです?」
契約というものは、必ず相互の同意を必要とする。たとえ強制契約であっても、相手の屈服を前提に、形式的にでも同意を得なければならない。
だが、ウスキが勝手に奴隷契約を結んだとき、私は同意していなかったのに、何の問題もなく奴隷契約が成立してしまった。
そこに何か抜け道のようなものがある気がしてならなかった。
「奴隷契約魔法は、全て奴隷になる側の心構えにかかっています。主人として仕える者に、真心から命さえ差し出す覚悟……それが必要なのです。あのモンスターがそんな覚悟を持つとは思えませんが」
「真心……ですか」
私はしばし考え込んだ。
「その“真心”って、嘘をついていない程度なら……範囲内ですか?」
「ええ……たぶん、それでも成立するでしょう」
「嘘さえつかなければいい、か……」
それでも難しいことに変わりはない。
特に、あの中途半端に高い知能が厄介だった。
小学生の目の前でチョコレートをひらひらさせながら『僕のために死んでくれる?』と訊いたら、十中八九は無邪気に『うん!』と返すだろう。だが百パーセント嘘だ。チョコを受け取ったら即座に逃げ出すのがオチである。
『……それでも、試す価値のある博打だ。失敗すれば制限時間で命を落とす。だが成功すれば、B級モンスターを自由に扱える』
「では、奴隷契約をするときは必ず、主人となる者が奴隷の胸に手を当てなければならないのですか?」
「いえ、それが最も効率的なだけで、必須ではありません」
「……そうですか」
その瞬間、不意にウスキの感触が頭をよぎり――
『煩悩退散!』
「ワナサマ。やりましょう。魔法の準備をお願いします」
「……本気で?」
店長はやや反対の表情を浮かべた。
のんびり説得している余裕などない。私は図々しくも嘘を吐くことにした。
「これしか方法がありません。失敗すれば全滅です」
「……承知しました」
どうせ私を信じるしかない状況だということは、店長も分かっていたのだろう。やがて小さくうなずいた。
私は踵を返し、角を曲がった。
「……あれ?」
「どうなさいました?」
「クオ……うまい。もっと食べたい。でももう一つ食べるために我慢する」
角を曲がった先で見えたオーガは、意外にもまだ団子を我慢していた。
『ちっ……これじゃ余計に難しい』
マシュマロ実験というのは、もともと子供の忍耐力を試す実験だ。
未来の大きな利益や重要な価値のために、目の前の誘惑に耐えられるか。
オーガは、それに耐えていた。
『制限時間は?』
「残り時間 ― 9:46」
『少し余裕はあるが……待つべきか? ……いや、無意味だ』
実際の実験では、大半の子供がしばらく我慢した後、結局は耐え切れず食べてしまったという結果が出ている。
オーガも、時間が長引けば耐えられなくなるかもしれない。
だが、今の状況で重要なのは“どれほど耐えられるか”ではなく、“一度は耐えた”という事実だ。
生き物にとって、自分の命より大事なものなどないのだから。
『無駄に説得の時間を削るだけだ。すぐ行こう』
私はすぐさまオーガに駆け寄った。
「クオ! 来た! 見ろ! 我慢した!」
「はいはい、よく頑張ったな」
『オーガの餌を購入しました』
私は機嫌を取るために、もう一つ餌を買った。
『残りポイントは……』
「あなたのポイント : 5080pt」
『ギルドへ戻る途中に道を塞いでいた冒険者たちのおかげか……あの時は苛立ったが』
あの時、金をばら撒いた分、ポイントは十分に余っていた。
「ほら、約束より一つ多く、二つだ。全部食べていいぞ」
「クオオオ! ありがと! いい人間!」
オーガは雄叫びを上げ、団子を貪り食い始めた。
「なあ。俺はお前にとって“いい人間”なのか?」
「いい人間だ!」
『……飲み込んでから喋れよ。……まあ、人間の道を説いたところで無駄か』
多少は不快な光景だったが、まあ口の中にあるのが人間の肉でないだけマシだ。
「じゃあ、お前は俺に何をしてくれる? 団子をやらなかったとしても、だ」
「クオ? 団子って、このうまいもののことか?」
「ああ」
「うまいものをくれないのに、なぜお前の言うことを聞かねばならん?」
『……だから言っただろう。人の道なんて通じないって。道理や礼儀は知能とは無関係だからな。くそ!』
まあ、同じ人間でも非常識な奴はどこにでもいる。知能が低いからそんな真似をするのではないことくらい分かっている。
ただ、機嫌を取るために団子を一つ余計に買った意味がなくなったことが、ただただ腹立たしかった。
『……いや、違う。団子を余分にやったことで、少なくとも反応は引き出せた。無駄ではない』
オーガは私を「いい人間」と呼んだ。それを私は絆の兆しと捉えることにした。
きわめて人間的な解釈だった。
『道理や礼儀は知能とは関係ない。当たり前だ。道理や礼儀は、知能ではなく文化に関わることなのだから』
たとえば、多くの国で称賛の意味を持つ“親指を立てる”という仕草も、ある国では逆に“中指を立てる”のと同じ侮辱の意味を持つことがある。
ならば、私がその国へ旅行し、料理を食べて「うまい」という意味で料理人に親指を立てたら袋叩きにあった……その場合、非常識なのはどちらなのか。
『もちろん、この例えに従えば人間の街に侵入したオーガが人間の文化に合わせるべきなんだろうけど、あいつは知能が低いし、下手に刺激해서機嫌を損ねたらこちらが全滅する。だったら私が合わせるしかない』
何より忘れてはいけないのは、この平和は交渉ガイドの制限時間内でしか成立しないということだ。
団子の供給者という立場を利用して、表面上は自分の安全を確保しているように見える。だが交渉ガイドには、制限時間を過ぎればオーガが私を最優先で殺すと明記されていた。
団子の供給者として生かすのか、それともガイドの言葉通り殺すのか。
どうなるかは分からないが、少なくとも自分の命を賭けて試す気にはなれない。
『オーガの立場で考えろ。この化け物が、どんな状況なら他人に自分の命を捧げる気になる?』
オーガ。モンスター。弱肉強食。生存。巣。縄張り意識。狩り。短い足。狩りの失敗。飢え。
「!」
思い出した。こいつが城壁を破壊して侵入してきたとき、最初に言った言葉は確か――『腹が減ったから人間を食う』だった。
「おい、オーガ」
「クオ! 言え、人間!」
「もしある日、私が突然その美味い団子をもう与えなくなったらどうする? また別のモンスターを狩って食って生きていくのか?」
「嫌だ! もう他のは食べたくないんだ! 美味いのを一生くるのだ!」
「じゃあ、もし私が死んでしまったら? 仕方なく狩りをするしかないだろう」
「狩りは嫌だ! 疲れるんだ! 小さい奴ら、無駄に勘がいいだ! どれだけ忍んでもすぐ気付かれて逃げられだ! そしたら俺も走らなきゃいけないんだ! 嫌だ!」
「……そうか」
私は辺りを見回し、落ちていた剣を一本拾い上げた。
「実を言うと、私はお前が憎い」
そしてその剣をオーガに向けて言った。
「クオ? お前は“優しい人間”じゃなかったのか?」
「お前を憎んだら悪い人間なのか?違う。私は優しい人間だからこそ、お前を憎んでいるんだ」
周囲に散乱する無惨な死体を指差す。
「お前が殺して喰ったこの人たちは、みんな私の家族であり、友であり、大切な人たちだった」
何も知らないオーガを前に、虚勢を張る必要はなかった。
実際には私の大切な人ではなくても、誰かにとっては大切な人たちだっただろう。
彼らの死に私は怒っている。それは紛れもない事実だ。
「彼らが死んだことで私は悲しい。そしてその原因であるお前が憎い。全部お前のせいだ。お前が悪い」
「クオ? 俺が憎いとどうなるんだ?」
「美味いものをやらない」
「クオ!?」
『オーガが慌てる姿か……これはA級のオーガ専門狩人でもなければ、私が初めて見たんじゃないか?』
「なぜやらない!お前、頼みを聞けば美味いものをくれると言った!」
「もう頼みもしないし、美味いものもやらない」
「クオオ!なら俺はお前を巣に連れて帰るんだ!閉じ込めて、美味いものだけ作らせるんだ!」
そう言ってオーガが私に手を伸ばした。
『そう来ると思ったさ』
私は剣の刃を反転させ、自分の首筋に当てた。
「無駄だ。私はここで死ぬ」
「クオ!?」
『二度目だった』
さっき私が死んでは困ると言った話を、こいつは覚えていた。
オーガの手が止まる。
「大切な人が死んで悲しくて、一番憎いお前が私を必要としている。ならもう私に生きている理由はない。私が死ぬのは、今お前にとって一番悲しいことのはずだ」
「駄目だ! 死んじゃだめだ!」
「駄々をこねても無駄だ。私は命を賭けた。お前も命ぐらい賭けろ」
「俺はどうすればお前が死なないんだ!」
『かかった』
オーガは目先の欲を我慢して大きな利益を取れる。
逆に言えば、大きな損失を避けるためなら目の前の犠牲を受け入れることもできる。
だが知能が多少高いといっても、人間の大人ほどではなく、ましてや人間ですらない。
結局は生存だ。今日どうやって餌を手に入れて命を繋ぐか、それが一番の問題。
そこを突く。
「オーガ、お前の命を私に賭けろ。私の奴隷になれ。そうすれば頼みを聞かなくても、団子を毎日十個くれてやる」
団子十個で1500pt。今のポイントでは三日で尽きる量だ。
「毎日十個! 俺が奴隷になればくれるのか!」
「ああ。お前は私の与える団子以外、何も食えないと思え。どうせ私が団子をやらなければお前は飢え死にする。そう考えれば悪い話じゃない」
詭弁の塊だ。
だが言ったとおり、いくら知能が高くても人間様の足元にも及ばない。
「分かった! 俺はお前の奴隷になる!」
思わず口元がほころぶ。
私は血で濡れた剣を投げ捨て、ワナ様を呼んだ。
「奴隷契約、進めてください」
「……本当なのですか?」
酒場の店長は信じられないという顔で問い返してきた。
「はい。あいつにわざわざ触れる必要はないんですよね?」
――この日は、私がB級奴隷を手に入れた日として記録されることになった。




