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交渉ガイド

『なんだこれ……交渉ガイドじゃないか? 空中に突然現れて……。まさか、俺にしか見えてないのか?』


思わず、孤児院の院長の顔色をうかがってしまった。


「どうしたの? 突然……」


「……い、いえ。なんでもありません」


幸いなことに、この空中に現れた案内画面は院長には見えていないようだった。


この「交渉ガイド」は、ギルドタイクーンの初心者モードにおける核心的なシステムだ。


ビジネスといえば、職種ごとに様々な業務があるが、まず思い浮かぶのはやはり「交渉」や「取引」だろう。


ギルドタイクーンでも、「交渉」は極めて重要な要素であり、交渉一つでギルドの命運が決まる場面も少なくなかった。


もちろん、このシステムには好みが分かれたが——


『俺はそれが面白くてこのゲームをやってたんだけどな』


この交渉パートを難しく感じたり、面白みを感じられなかったりするプレイヤーのために用意されていたのが「交渉ガイド」だ。


交渉ガイドは、交渉が始まると自動で議題と目的、交渉を有利に進めるための情報などを表示してくれる。


本来であれば、プレイヤー自身が状況を読み取り、選択肢や戦略を練っていくべきところを、ガイドに従うだけで最適解にたどり着けるというわけだ。


そしてその“チート”のようなシステムが、今、現実の俺の目の前に現れている——。


「もちろんね、お母さんにとっては君たちみんな、大事で大切な子供たちだよ。でもね、お母さんにも思い出の一つや二つあるの」


少し視線を外していた院長が、再び口を開いた。


「ギルドに入ったら、制服も支給されるでしょ? だからね、ごめんだけど……亡くなった夫のスーツは譲れないの。わかってくれるよね?」


申し訳なさそうにそう言う院長の声が、少しだけ震えていた。


「……はい、わかります。僕が軽率でした。すみません。それじゃ、これで本当に行きます」


「こっちこそごめんね……。元気でね。必ず一度は顔を見せに来るのよ」


それ以上は無理を言わず、俺はすんなりと引き下がった。


ギルドで制服が支給されるという話もあったし、他人の形見に執着する必要もなかったが——

それ以上に大きな理由があった。


それは、「必ずゲームの進行に従わなければならないのか?」という疑問を検証したかったからだ。


ゲーム内では、主人公が院長からスーツをもらうのは“固定イベント”だった。


『自動で進むストーリーなんだから、選択肢はない』


俺はいま、ゲームの世界に憑依している。

ならばゲームの流れに従うのが当然だろうと思った。だが——


『でも、そもそも孤児院の院長からして、ゲームと違う行動を取ってるよな?』


そう考えれば、この世界では、ゲームのストーリー——つまり主人公の運命に従わなくてもいいのかもしれない。


『……それなら、かなりありがたい話だ』


それを真剣に考えたのには、理由がある。


いわゆる「ストーリー進行」上、主人公が関わるイベントには、いくつか“死にかける”ような内容があったからだ。


『どれもこれも、地獄みたいな内容ばかり……』


正直、可能なら避けたかった。


「交渉失敗!


あなたはアンジェラとの交渉に失敗しました。


失敗のタイプ:中途放棄。


ヒント:交渉において“品位”は守りつつ、“プライド”は捨てましょう。実利を優先する姿勢を持ちましょう。」


再び交渉ガイドが現れ、失敗を知らせてきた。


『うぅ……緊張するな……』


ゲームでは交渉に失敗してもゲームオーバーにはならない。ただ、交渉に失敗したことによるペナルティを負うだけだ。


問題は、このゲームの開始地点である“スーツの入手”が、プレイヤーが介入できない「強制イベント」だったということ。


その運命に逆らった場合、一体何が起こるのか。


『ゲームオーバーはさすがにないだろうけど……まさか天罰でも下るんじゃ……?』


スーツ一着もらえなかったくらいでそんなことにはならないだろうけど、確信は持てなかった。


ちょっと軽率だったかもしれない、と後悔しているうちに、時間は容赦なく流れていった。


「…………」


しばらく様子を見てみた結果、少なくともすぐに何かしらのペナルティがあるようには思えなかった。


『ふぅ……心臓に悪い……』


もちろん、今スーツを手に入れられなかったことが後々どこかに影響するかもしれない。


だが、今は「必ずしもゲームの進行に従う必要はない」ことが確認できたことが重要だった。


『あの凶悪なイベントを、無理に体験しなくてもいいのか……』


そう思うと、心の底からホッとした。


俺は胸をなでおろしながら、孤児院のある小さな田舎町を抜けていった。


町の入口まで来ると、馬屋付きの駅のような建物が見えた。


こうした小さな町では、馬車を利用するための費用は町が共同で負担しているらしく、いわば税金で運営される無料の公共交通機関のようなものらしい。


『うわぁ……本物の旅馬車って、こういう感じなのか』


建物に近づくと、馬屋から出てきた御者が分厚い布地の幌で覆われた大きな馬車を馬につなげているところだった。


周囲には大きな荷物を持った人や、武器を所持した旅人風の者もいた。


俺は御者に声をかけた。


「こんにちは。この馬車はどこへ向かうんでしょうか?」


御者は作業を止め、こちらに顔を向けた。


「この馬車は、バザール男爵領へ向かいますよ」


ちょうど俺の目的地だった。


「空き席はありますか?」


「ええ、たくさんありますよ〜」


御者の口調は驚くほど親切だった。


『ゲームとは全然違うな……』


ゲームに出てくる御者たちは、誰に対してもぶっきらぼうで、言葉遣いも皆似たりよったりだった。


NPCに個性を持たせるなんて、コスト的にも無理だろうし当然のことだ。


だがこの御者は違った。


『なんというか……近所の面倒見のいいおじさんって感じだな』


念のため、もう少し会話を続けてみることにした。


「ご出身はどちらなんですか? いろんな村を行き来するの、大変じゃないですか?」


「ん? ははは。私は家族もいないし、特に困ってはいませんよ」


そんな他愛もない会話をしながら、御者とあれこれ話してみた。


どうやら話好きな性格らしく、向こうからどんどん話題を振ってくる。


「おっと、そろそろ出発の時間です。お客さんも席にお付きください」


ひとしきり自分の話を終えた御者が御者台に乗り込んだ。


俺も馬車に乗って空いている席に座る。


出発後は他の乗客とも軽く自己紹介を交えつつ、雑談を交わした。


そして——

俺はあるひとつの結論に至った。


『ここは“ゲームの世界”じゃない。まぎれもない“もう一つの現実”だ』


御者をはじめとする乗客のひとりひとりに、リアリティがありすぎる。


いや、“キャラクター”という言い方自体がもう正確ではない。


彼らはそれぞれに人生があり、生きている本物の“人間”なのだ。


このときようやく、俺はこの世界がゲームかどうか悩むのをやめられた。


そして胸が高鳴ってきた。


『あのクソみたいな現実よ、もうさようならだ!』


家族もいない。友達もいない。


会社には人生を捧げたと言っていい時間を費やしたが、返ってきたのは侮辱と嫌がらせだった。


それに耐えきれず退職した結果、業界内では根も葉もない悪評が広まり、再就職も絶望的に……。


そんな絶望の中で、ただゲームに逃げる毎日を送っていた俺の元に、まさかの“再出発の機会”が舞い込んできたのだ。


もちろん、これはギルドタイクーンというゲームの一部設定が再現された世界であることは否定できない。


『だけど、だから何だってんだよ!』


その事実は、もはや重要ではなかった。


あのクソ現実より、はるかに希望に満ちたこの世界のほうが、ずっといい。


あの一通のメールによって、俺は“新しい人生”を与えられたのだ。


『……あ、そういえば。あのメールって一体なんだったんだ?』


こんな非常識なことが可能な存在が、本当にいるのか……?


もしその存在が俺をこの世界に連れてきたことに別の目的があるのだとしたら、それは一体……?


『……まあ、いずれ向こうから来るだろ』


らしくもなく、やけに楽観的な結論だったが、どうせ考えたって答えが出るものでもない。


今はこの高鳴る気持ちを素直に楽しもう、そう思った。


『景色、いいな〜』


幌に隠れて後ろしか見えなかったが、それでも俺は鼻歌まじりに楽しげに景色を眺めていた。


——森を抜けて、草原に差しかかろうとしたその時。


「おい、坊主」


誰かが話しかけてきた。


すぐに誰だかわかった。


顔は怖いし言葉遣いも荒っぽいが、実は家族思いの退役傭兵・マルコスおじさんだった。


「へい〜! なんですか〜?」


妙に陽気に返事をしたら、マルコスは苦笑しながら首を振った。


「お前じゃねえ、小僧。そっちだ」


俺ではなかった。


彼の視線は、俺の隣に座っていた、同年代くらいの青年に向けられていた。


マルコスが顎で指した相手は、俺と同年代くらいに見える青年だった。


貧しい田舎出身で、父の形見の剣一本を手に、冒険者としての生活を始めた——

そんな過去を持つ、白に近い銀髪が印象的な青年・アルバス。


『いくら家族思いだからってさ、人への話し方もうちょっとマシにしてほしいよな……』


恥ずかしさをごまかすように、俺は内心でマルコスを悪く言いながら目線を下げた。


「僕、ですか? 何かご用でしょうか?」


アルバスは怪訝そうな顔で答えた。


「その剣、父親の形見って言ってたな」


マルコスの言葉に、俺も思わずアルバスの剣に目を向ける。


出発直後の会話で、確かにアルバスがその剣を父親の遺品だと言っていたのを思い出した。


マルコスもそれを聞いていたのだろう。


『でも……アルバスって貧しいって言ってなかったか?』


剣に詳しくない俺でも分かるくらい、その剣は高級感があった。


「ええ。僕にとっては大切な……」


「売る気はないのか?」


唐突に、マルコスが剣を売るよう求めてきた。


「申し訳ありませんが、僕にとっては本当に大事なもので……」


「金なら出す」


強引に言葉を遮ってまで取引を迫るマルコスに、アルバスは困った顔をした。


「でもマルコスさん、あなたの武器は斧じゃなかったですか? どうして急に僕の剣を……?」


「娘にやるんだ」


「……はあ、仕方ないですね」


諦めたようにアルバスは溜息をつきながら、荷物の中から別の剣を取り出した。


「予備用の剣です。父の形見とまったく同じように注文して作ってもらったので、気に入っていただけるかと」


「……いいな。値段は?」


念入りに剣をチェックしたマルコスが、納得したように頷いた。


アルバスは疲れたような表情で、静かに答える。


「十五万ゴールド。それ以下では売れません」


——その瞬間。


視界の前に、あの“ガイド”がまた現れた。


「交渉を開始します。


交渉当事者:マルコス、アルバス


交渉タイプ:実物商品の売買契約


交渉目標:剣の価格交渉


交渉ヒント:

① これは第三者同士の交渉です。仲介または妨害によって追加の利益を得ることが可能です。

② アルバスは150,000ゴールド以上の価格を希望しています。

③ マルコスは135,505ゴールド分の貯蓄証書と、市価180,000ゴールド相当の中古戦斧を所持しています。

④ マルコスには現金は不足していますが、十分な価値の担保品を持っています。貸付の仲介が可能です。

⑤ 推奨戦略:「融資の仲介による手数料の徴収」」


『まさか……交渉ガイドが、俺以外の交渉にも反応するとは……!』


この交渉には、俺は“当事者”ではない。


にもかかわらず、俺の視界にガイドが表示されている。


つまり——

第三者として、交渉に「介入」できるということだ。

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