死の意味
「勝ち目はない! だが大人しく死んでやるな! 人類のしぶとさを思い知らせてやれ!」
領主は最期の時が迫ると、先ほどまでの無力さが嘘のように咆哮し始めた。
「戦士たち! 少しでも踏ん張れ! 魔法使いたち! 一撃で倒れても構わん! 全力の魔力を溜めろ!」
領主の指示に従い、幹部たちが必死に兵を鼓舞する。
――グオオオオ!
だが怪物は待ってはくれなかった。
――ブウン!
オーガが腕を軽く振るう。
――ドガァン!
「ぐあああっ!」
「な、なんだ!? ただ腕を払っただけで爆発が!?」
「あ、足がァッ!!!」
それだけで大地が揺れるほどの衝撃波が走り、陣形は一瞬にして崩れ、戦場は阿鼻叫喚に変わった。
――まずは一匹食うか。ワァンッ
問題は、それが本気の攻撃ではなく、ただ食事をつまみ取っただけだということだ。
「いやだっ! 助けてくれ! こんな死に方は嫌だああ!」
オーガに掴まれた兵が恐怖に絶叫する。
だが誰一人、救えない。
――カリッ!
私は思わず視線を逸らした。だが咀嚼する音だけは、やけに鮮明に耳に届いてしまった。
『いや、錯覚だ。この距離で聞こえるはずがない』
オーガと私の距離はざっと六十メートル以上。あまりに生々しい恐怖に、私は幻聴を聞いたのだろう。
『くっ……震えてる場合じゃない! どうにかしてあの化け物に私の声を届けなければ!』
私はアリスと来る途中、交渉準備ショップでポーションの材料を含め必要なアイテムをすべて買いそろえていた。
ショップで購入した物は、実体が存在するものなら一時的なインベントリのような場所に格納され、望めば取り出せる。ただし、戻すことはできない。
抽象的な商品も同様に一時的に保管され、使用すれば効果を発揮する。
その中で今必要なのは「モンスター交渉権」だ。
文字どおり、人間と対話しないモンスターを強制的に交渉の場に座らせる、一種の洗脳魔法のスクロール。
だが、これを購入するとカタログには載っていなかった使用条件が追加で記されていた。
――発動した後、対象のモンスターに「交渉しよう」という提案を直接聞かせなければならない。
つまり、どうあっても私の声を奴の耳に届かせる必要があるのだ。
しかし――
――ウオオオオオオ!
「ぎゃあああああっ!!!」
「逃げるな! 戦って死ね!」
「嫌だ! もう怖いんだ! 助けてくれえええ!」
厳しい規律の中で生きてきた警備兵たちでさえ、すでに戦意を喪失して久しい。
近くで必死に兵を鼓舞していた領主も、想像以上にあっけなく蹂躙されていく兵士や冒険者たちの姿に絶望していた。
私より明らかに強い冒険者たちですら、オーガが暴れ始めて一分と経たぬうちに半数が消えていた。
吹き飛ばされて姿が見えないか、あるいはすでにオーガの腹の中か。
この状況で、私一人にできることはなかった。
『ほんの一瞬でいい……オーガの注意を引きつけ、周囲を静められれば……! やはりC級たちが連携して……?』
「……待て?」
策を練りながら、私は一つの違和感に気付いた。
「肝心のバザール最大戦力であるC級たちはどこに行ったんだ?」
私の奴隷となったウスキは別行動させていたから除外するとして、残り三人のC級が戦場にいない。
私の独り言に、領主がびくりと身を震わせた。
「……領主様?」
嫌な予感に駆られ、私は問いかけた。
「クフフ……フハハハハッ! そうだ! 私が送った! 領地の反対側にな! 彼らまで犬死にさせるわけにはいかなかったのだ!」
領主は狂ったように哄笑しながら罪を吐露した。
「な、何を……! なぜそんな卑劣なことを!」
先ほどまで領主の威圧に押され、今は戦場の惨状に怯え、ただ震えるばかりだったアリスが、初めて怒りを露わにした。
だが領主は開き直っていた。
「Cランクに到達する人材は、こんなバザールの片田舎で腐らせていい者ではない!彼らはもっと大きな世界に羽ばたき、さらなる研鑽を積み、大きな偉業を成し遂げるだろう。そしてその時、我らの命の復讐おしてくれるのだ!」
その言葉を聞いて、私はついに怒りを爆発させた。
「ふざけるな、この野郎! こんなにも多くの命が無残に失われ、俺たちもこれから死ぬというのに、復讐が何の意味になる! お前は天上に行こうが地下に堕ちようが、『復讐は果たされた』と一人ほくそ笑むだろうがな! だが家族や、大切な人と無理やり引き裂かれた者たちの想いを、復讐なんて上っ面の言葉でどう慰めるつもりだ!」
もはや生き残る可能性が消え失せた状況で、私は感情を隠さず叩きつけた。
「安心しろ。オーガはバザールの誰一人残さず喰い尽くすだろう。天上か、地下の底か? 面白い言い回しだな。だが女神様が人の死後に行く場所として定められたのは一つだけだ。別れは長くはないさ」
「……くそ!」
私は憤ったが、それ以上は言葉を続けなかった。
女神が定めた死後の世界、人権のないこの世界。
もしかしたら領主の考えがこの世界では常識であり、逆に私が異端の信念を唱えているだけなのかもしれないと思ったからだ。
だが、私が言葉を失ったその時――
隣でアリスが一歩踏み出す気配を感じた。
「ふざけないで! 人間は誰だって生きたいのよ! 死ぬにしても、美しく死にたいと願うの! 崇高な精神を持つ人が他人を救うために犠牲になる、それは確かに美しいことよ! でも、こんな犬死になんて、誰が望むっていうのよ!」
アリスが戦場を指さして叫んだ。
「助けてよ! こんなところで死にたくない!」
「エイタンのクソ野郎! 領主のくたばれジジイ! 名誉のために抵抗して死ねだと!? そんなむざむざの死、お前らだけでやってろ! 私は生きたいんだ!」
混乱に陥った警備兵や冒険者たち。彼らが口々に叫ぶのは、生きたいという言葉だけだった。
「死ぬ覚悟で集まったんじゃなかったのか。」
「どうせ死ぬなら名誉ある死を、なんて言葉に踊らされただけでしょ! 実際は最初から人々を避難させていれば、多くが助かったはずなのに! それなのに、今や彼らは名誉ある死どころかモンスターの餌になってるじゃないか、この犬チクショ野郎!」
ついにアリスの口からも乱暴な罵りが飛び出した。
領地の支配者が一介の平民から罵倒を浴びたのだ。
しかし、ダリウス・バザールはアリスの叱責に、ようやく自らの過ちを悟ったかのように顔を蒼白にし、その場に崩れ落ちた。
私はアリスの言葉に、この世界でも私の価値観は間違っていないのだと確信を得た。
ただ、感情は抑えた。アリスが代わりに怒ってくれていたから、落ち着いていられた。
「そもそも弱い者たちを死地に追いやり、逆に強い者たちを後ろに隠すこと自体が、すでに名誉とは程遠い行いです。名誉ある死を説くつもりだったのなら、C級たちも連れてくるべきでした。」
私の言葉に、領主は力なく弁解した。
「だが惜しいのは事実だ。さらに大成できる人材が無駄に散れば、それは人類全体の損失だ。」
「それでも連れてくるべきでした。」
「意地を張るのか? それとも、彼らがここにいれば状況が変わっていたとでも?」
私は頷いた。
「はい、変わっていたでしょう。私にはオーガを解決する手立てがあり、作戦がありました。しかしその作戦にはC級の実力者が必要だったんです。領主様のせいで、それを試すことすらできませんでしたけど。」
「そうか……。」
私の作戦を聞きもしないまま、領主は罪悪感に押し潰されるようにうなだれた。
『根は悪い人じゃない。』
ただ能力、特に判断力が欠けているだけだ。
とはいえ、普通なら故意でない無能による失敗は情状酌量の余地もあるけど支配者の無能は、それ自体が罪だ。
領主のせいで多くの人間が死んでいったのも事実だった。
『さて、どうする? 私だって死にたくはない。早く新しい作戦を……。』
貴族を叩きのめすのは一旦やめて、別の策を考えようとした、その時だった。
「その作戦、ちょっと聞かせてもらえる?」
背後から快活な女性の声がした。
聞き覚えのある声だ。
私は驚いて振り返った。
「セラ先輩!?」
セラだった。
私もアリスも驚き、領主もまた、さっきまで罪悪感に沈んでいたのが嘘のように飛び上がった。
「セラ! なぜここに……! 反対側の城門で待機せよと命じておいたはずだ!」
「ええ、確かに叔父さんは宥めたりすかしたり怒鳴ったりしながら、無理やり私たちを連れて行きましたよ。でも反対側の城門の前でじっと座って考えれば考えるほど、これは違うって思ったんです。だから来ました。みんな一緒に死ぬために。私たちはみんなバザールですから。」
セラの言葉に、後ろにいた二人の男も前に出た。
「私はただの平民ですが。」
「うるさいわよ。バザールでファイン・ギルドの後ろ盾をしてきたのはあなただったでしょう。」
「ははは。」
冗談めかして笑いながら、ギルドのマスターがセラの隣に並んだ。
「私も貴族じゃないが……。」
「あんたは黙ってろ。」
そしてセラと軽口を叩き合いながらも、しっかり隣に立った、どこかで見覚えのある男。
「あれ? 酒場の主人じゃないですか?」
思わず私は口を挟んでいた。
「おや、私をご存知とは。うちの店の常連でしたかな?」
男は接客用の笑顔を浮かべて応じた。
「ああ、今日あの店でシュクのスパイを告発したのが私です。」
「なるほど。それはそれは。今後はぜひご贔屓に。精一杯もてなしますよ。」
私たちは、場違いにも日常の社交辞令を交わしてしまった。
「さあ、私たちも来たことだし、その作戦とやらを聞かせてくれない?」
セラが、間に入りながら私に言った。
「え? 私がなぜ?」
私は首をかしげた。
「いや、それより先輩こそどうしてここに? 非力な一般人がこんな恐ろしい戦場に足を踏み入れるものじゃありませんよ。まあ私も一般人ですけど、とにかく戻ってください。そこに一緒にいたC級たちがいるでしょう。ケンサマとワナサマ。急いで戻って彼らを呼んできてください。」
「……ふふっ!」
私が小言を並べる間、セラは優しい顔で黙って聞いていただけだったが、終わると小さく笑った。
「……なんです、その反応は。」
「私はまだ、あんたが賢いのか馬鹿なのか、よくわからないわ。」
「え? それはどういう……。」
「じゃーん!」
私が聞き返そうとしたとき、セラは満面の笑みを浮かべて、何かを取り出して見せた。
見覚えのある仮面だった。
「これ、知ってるでしょ? 私がケンサマとして活動するときに使ってる仮面よ。で、こっちがワナサマ。あんたが探してるC級は、ここに全員そろってるんだから、さあ作戦を話してちょうだい。」
私は一瞬、セラの言葉を理解できず、呆然としてしまった。
するとセラはさらに快活に笑った。
「ふふふっ! ば〜か。」




