モンスターの侵入
実はバザールの冒険者たちの間では、女冒険者の大量失踪事件が続き、一種の鬱屈とした空気が広がっていた。 そのため夜に街へ出る者はめっきり減っており、皮肉にもそれがリシを救う形となっていた。
もしそうでなければ、リシはすでに人目のない場所へと連れ込まれ、冒険者たちの玩具にされていただろう。
――カン! カン! カン! カン! カン! カン!
「モンスターの襲撃だ! オーガが攻め込んできたぞ!」
鋭い鐘の音は、泥酔した酔客たちの意識すら鮮明にするほどだった。
ましてや、酒一杯で簡単に酔ってしまったリシに至っては言うまでもない。
「いきなりオーガって……? バザールは今日で滅びるの? に、逃げ……た方がいいのかな?」
力なき者として自然に浮かんだ生存本能に身を委ねかけたリシの脳裏に、ふとある人物の顔がよぎった。
「オーガ……マサカオ……」
自分をこんな危険な夜道に彷徨わせた張本人。
「……とにかくギルドに戻らなきゃ」
悩んだ末、まずはギルドへと戻ることを決意したリシ。
その時だった。
――タタタタッ!
誰かが駆けてくる足音が響いた。
「だ、誰っ!?」
緊張して振り返ったリシの視界に映ったのは――。
「はぁ、はぁ……! リシちゃん!!! 危ないことしてどうするんですか!」
リシを探して三時間以上も走り回っていたアリスだった。
「アリス! 私を探しに来てくれたんだね、ごめん……」
申し訳なさに俯いたリシは、ふと何かに気づいて顔を上げた。
「でも、アリスも一人なの? 危ないのにどうして!」
「誰が誰に言ってるんですか!」
アリスは呆れた顔をした。
「私はですね、今この方と……」
そう言って振り返り、自分が来た道を指さした。
その指先には、成人男性というより少年に近い体格の影が立っていた。
「……ギャギャッ!」
赤い眼を光らせ、ゴブリンが二人に迫っていたのだ。
「えっ!? きゃあっ! ゴブリン!? どうしてモンスターが街中に!?」
恐怖に震えて叫ぶリシと、誰かを探すように慌てて周囲を見回すアリス。
「え、え? ど、どこ行っちゃったんですか……まさか途中で……?」
縁も恩もない関係で三時間も探し回るのは無理だったのか。
途中で勝手に消えてしまったのでは、と疑心と恐怖に囚われるアリス。
「ギャアアッ!!」
身体が硬直した二人に、ゴブリンが飛びかかった。
――ブンッ! グシャッ!
「ギャッ!?」
横合いから飛んできた斧が、ゴブリンを一撃で吹き飛ばした。
斧をまともに受けたゴブリンは、その場で即死した。
「悪いな。あっちの方でゴブリンを見つけてな。片っ端から叩き潰していたら少し遅れてしまった」
足が崩れ落ちた二人の横を通り抜け、斧を回収しながら男が低く言った。
「マルコスさん……助けてくださってありがとうございます」
呆然とした顔のまま、どうにか感謝の言葉を絞り出すアリス。
「オーガ襲来の警鐘かと思いきや、もう街中にゴブリンどもが入り込んでいる。状況は相当やばいぞ。二人とも俺に背負われろ。全力でギルドまで運んでやる」
マルコスが二人を背負おうとした、まさにその時。
「ケルルッ!」
「!」
マルコスは素早く構えを変え、殺気を放つ存在に警戒を強めた。
それは先ほどまでの小物とは次元が違う気配だった。
「悪いが……ギルドへは二人だけで戻れ。今の俺にはお前たちに構っている余裕はなくなった」
「えっ……? あ、はい! リシちゃん! 行きましょう!」
「う、うん……」
マルコスの迅速な判断に、リシとアリスは急いで逃げる準備を整えた。
「ケルルッ!」
その前に、ついにモンスターが姿を現した。
「あれはまさか……ホブゴブリンか!?」
マルコスが珍しく狼狽した声を上げた。
普段の彼は粗野に見えて、実はモンスターの知識を真面目に学んでおり、観察眼も鋭い。
だからこそ、五百年に一度現れるという希少な魔物を即座に見抜くことができたのだ。
「ホ、ホブゴブリン? あの希少種……?」
リシもその名を耳にしたことがあるらしく、震える声で驚いた。
「何をしている! 早く逃げろ! 今すぐだ!」
「は、はいっ!」
叱咤に押され、二人は慌てて走り出す。
「クハハッ! ちくしょう、少しでも時間を稼がねぇと……!」
相手がC級冒険者でも簡単に倒されるほどの強敵であることを知りながらも、マルコスは冷や汗を流しつつ、逆に獰猛な笑みを浮かべた。
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「オーガだって? オーガは縄張り意識が強いから、ここまで来ることはないって言ってたはずなのに……」
私はギルドマスターの言葉を思い出しながら、思わず独りごちていた。
「私は管理人生活がながいなので、モンスターの習性には疎いんです。申し訳ありません、ご主人様」
「え? あ、ウスキさんが謝ることじゃないです。ただの独り言ですから」
そう言ってやったものの、ウスキは何か思い悩むような顔で、ちらちらと私の様子をうかがっていた。
『なんだろう?』
訝しく思ったが、とにかく今は走りながら話を聞くしかなかった。
『くうっ……男のプライドが悲鳴をあげてるけど、今は仕方ない!』
数分間の全力疾走、そして冒険者に絡まれては短い休息を挟む。
この場違いな深夜のHIT(High-intensity interval training)マラソンで体力が底をつきかけ、普段なら絶対に口にしない頼みを、やっとのことで切り出した。
「……あの、ウスキさん」
「ひっ!? は、はいっ。なんでしょう、ご主人様」
私の呼びかけに、なぜかびくっと身を震わせるウスキ。だが気にしている余裕はなかった。
「そ、その……私を背負ってくれませんか? オーガが現れたという方角まで連れて行ってほしいのです」
恥ずかしさに身をよじりながらも、なんとかお願いした。
「えっ? そ、そうしてくださるんですか?」
「え?」
『……そんなに私を背負いたかったのか?』
もしかして、これまで満たされなかった母性本能が今になって私に爆発したのか――そう思った瞬間、ウスキはまったく違うことを口にした。
「実は……ご主人様がバザールを諦めて逃げようって仰るんじゃないかと思ってたんです。ご主人様の命令なら従うしかありませんが……でも、母は長旅に耐えられない体で……」
「ああ、そんなことは考えもしませんよ。安心してください」
『バザールが崩壊したら、この世界が滅びる確率が一気に高まるからな』
魔王ゲートの前兆は、時間とともに確実に強まる。
そして三年ほど先には、ついに魔王ゲートが開き始め、弱い魔族からこの世界に流れ込んでくる。
彼らを野放しにすれば、ゲートを中心に生態系を築き、自らの力を高め、さらにゲート完成を早めてしまう。
つまり――勇者はこの時点から、魔族討伐に全身全霊を注がなければならないのだ。
だが勇者といえども人間。食わなければ力が出ず、飢えれば死ぬ。
補給。戦争の真理とまで呼ばれる最重要課題。
その補給路を担うのが、後のバザールの役割になる。
今ここでバザールが滅びれば、森までの補給線が一日分伸びてしまう。
たかが一日――そう思うかもしれないが、モンスターの襲撃が最も多く、致命的となるのは夜。
つまり、野営を一晩余計に強いられるということだ。
それは補給線崩壊のリスクを一気に高める。
『もちろん、せいぜいC級のウスキが加わったところで何かが劇的に変わるわけじゃない』
だが――手をこまねいてバザールの滅亡を座して待つわけにはいかないのだ。
「ありがとうございます。私、ウスキは……短い間でもご主人様に仕えられたことを、たとえ死んでも後悔しません!」
ウスキは心からの様子で、深々と腰を折り感謝を捧げた。
「はは。できれば一緒に生きましょう。私はまだ死にたくありませんからね」
私は口元に笑みを浮かべて答えた。
もちろん、ただの無根拠な慰めではなかった。
『ウスキはいずれB級に覚醒する、と確かに聞いたことがある。いつかは分からないが』
ゲーム的にはギルド成長に大きな影響はなかったから深く気にしなかったが、確かにそういう情報は存在した。
可能性は極めて小さい。
ゼロよりも、むしろ一パーセントの希望のほうが残酷かもしれない。
それでも――。
『もうヤケクソだ!』
何度もこの世界で繰り返した言葉だが、どうせ失敗すれば滅びるのだ。
「…………」
ところが、ウスキは黙ったまま私をじっと見ていた。
「……ウスキさん?」
『それなりに決まった台詞を言えたと思ったんだが、調子に乗りすぎたか?』
不安になり、彼女を呼んでみた。
「はっ!? ひゃ、はいっ! ご、ご主人様! スキ……いえっ、ウスキ! ご主人様の忠実なる奴隷、ここにおります!」
顔を真っ赤にして慌てふためくウスキ。
『……私を笑うのをこらえてくれたのか。優しいな』
確かに、女におぶってくれと頼んだ男が格好をつけても、興ざめだろう。
ならば、いっそ開き直るしかない。
「さあ、ウスキさん。私を背負ってください。急ぎましょう」
私は両腕を広げ、彼女に歩み寄った。
「は、はいっ! よ、喜んで!」
ウスキはなぜか体をくねらせながら、私に背中を差し出した。
『……そこまで嫌なのに、命令だから仕方なく、か』
開き直ったはずが、少し胸が沈む。
それでも今さら止められず、私は彼女の背に身を預けた。
「ひゃうっ!」
私を背負った瞬間、ウスキの体がびくんと震えた。
『全身に鳥肌が立つほど嫌だったのか……』
「ご、ご主人様、もっとしっかりお掴まりくださ――」
『……そこまで私が情けないか!』
「ひううっ!」
ウスキの言葉を最後まで聞かず、反発心から彼女の肩に腕を回してぎゅっと抱きつき、体を密着させた。
『どうだ、どうなんだ! 情けない男が密着してる気分は! ……って、私は何をやってるんだ……』
ひとり熱くなっていたが、すぐに虚しくなり、自分の愚かさに気づいた。
「はぁっ……はぁっ……ご、ご主人様、で、では出発しますねぇ……!」
私の「虐待」に近い仕打ちに息まで荒くしながら、ウスキはなんとか足を踏み出した。
『……私はこんなに情けない男だったのか。もういっそ、オーガの拳で一撃で……痛みもなく……』
私はリシのとき以来、再び死にたい衝動に襲われていた。




