ゲームの世界へ
目を開けた瞬間、まず感じたのは荒く揺れる息づかいだった。
喉元に当たる温もりが、それが錯覚ではないことを物語っていた。
『だ、誰だ……?』
反射的に体を起こすと、周囲にはベッドで寝転がっている子どもたちの姿があった。
『……ここはどこだ?この子たちは?』
混乱しつつも、俺は必死に状況を把握しようとした。
その時、脳裏をよぎったのは――ある場面だった。
「!」
「ふにゃ〜……むにゃむにゃ、すぅ……」
間違いない。この場面、ギルド・タイクーンのオープニングシーンだった。
ゲームの主人公は「エンジェル孤児院」の最年長。
成人を迎え、「ファインギルド」に就職する前夜に、孤児院の子どもたちと最後の夜を過ごすという内容だった。
『俺は一体……あれ?』
ふと、自分の手に目を向けた。
荒れていて、どこか無骨だった。
たくさん働いてきた手だろうか?
少なくとも、勉強ばかりして事務職に就いていた俺の手ではない。
「なんだよ、これ……」
その声も、俺のものではなかった。
男にしては少し高めの声――聞き慣れない音色だった。
その瞬間、あのメールの内容が頭をよぎる。
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「おめでとうございます。あなたはギルド・タイクーンの世界へ招待されました。
拒否権はありませんよww。」
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『まさか……俺、憑依したのか?ギルド・タイクーンの主人公に……?』
「ん……?お兄ちゃん?どうしたの……?」
物音に気づいたのか、一人の女の子が目をこすりながら起き上がった。
その瞳には不安が浮かんでいた。
俺は本能的に首を横に振り、「なんでもないよ」と彼女の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だよ。さあ、もう一度寝よう。」
……大丈夫。
知らない子どもの髪の感触が、現実味を突きつけてくる。
夢なんかじゃない。
俺は――間違いなく、あのゲームの中に入ってしまったのだ。
子どもはまだ眠たそうに瞬きをしていた。
彼女を寝かしつけたあと、ようやく考えをまとめ始めた。
混乱してはいたが、確かに今、俺は「ギルド・タイクーン」の主人公になっている。
主人公はモンスターの襲撃によって両親を亡くした天涯孤独の少年。
普通のゲームなら、ここに「努力して勉学に励んだ」という設定が付くはずだ。
『逆境の中でも血の滲む努力をして、ついに成功を掴む――そんなカタルシスだな。』
古臭いクリシェではあるが、未だに愛される王道だ。
……だが、このゲームには、それがない。
この世界では、ギルドをはじめとした職業に学歴など必要ないのだ。
正確には、正式な教育は貴族の特権。
平民以下に求められるのは、健康な肉体と簡単な計算力のみ。
それ以外のスキルは現場で叩き込まれる。
『これ、当初はリアルな階級制度を再現した斬新な設定だと思ってたけど……』
まさか、自分がそこに放り込まれるとは思いもしなかった。
「はあ……」
思わずため息が漏れる。
そして慌てて子どもたちを見渡す。
幸い、まだみんなぐっすり眠っていた。
ゲームのプロローグは、子どもたちとの涙の別れから始まる。
『俺にとっては、今日初めて会った子たちなんだけどな……』
もちろん皆かわいらしいが、突然転生してきた俺にとっては、涙で別れを惜しむほどの情はない。
『とりあえず、園長室に行ってみよう。』
静かに部屋を抜け出し、園長室を目指して歩き出す。
『まずはプロローグを終わらせなきゃな。』
ゲームの流れに従って行動すると仮定すれば、俺は園長室で“スーツ”を受け取るはずだ。
この世界における「スーツ」とは、いわゆるファンタジーNPCの衣装――無地のシャツにベストというものだ。
『とにかく、それをもらわないと話が進まない。』
孤児院は小規模な施設だったため、園長室はすぐに見つけることができた。
静かに扉の前に立ち、ノックする。
「は〜い。」
優しげな女性の声が返ってきた。
『あ……名前、どう答えればいいんだ?』
ゲームの設定では、孤児院で育った子どもたちは幼い頃に園長が仮の名前をつけている。
そして成人し、孤児院を離れるタイミングで自分の名前を選ぶという仕組みだ。
つまり、ここでプレイヤーがキャラクターの名前を決める。
「レオ……だったっけ?」
主人公の元の名前がレオだったかは、定かではない。
『まあいいや。どうせ今日で出ていくんだし、細かいことは気にすんな。』
「失礼します。」
俺は名乗らず、そのまま園長室に足を踏み入れた。
「いらっしゃい、レオちゃん。」
園長はその優しい声にふさわしい、ふくよかな中年女性だった。
「この憎たらしい“ママ”から早く離れたかったのね。こんな早起きするなんて、ふふふ。」
「……いえ。」
ゲームでは主人公のセリフは「……」や選択肢で処理されていたため、どんな口調で話せばいいのかわからず、言葉数が自然と少なくなった。
「ふふっ、なにそれ?急に大人ぶっちゃって。もう立派な社会人だから?」
「えっと……」
考えを巡らせた。
「立派に振る舞わないとって思って。もう社会人ですから、いつまでも甘えてられません。」
「あらまぁ〜。」
園長は感激したような顔でこちらを見つめる。
「昨日まで口も聞けなかった子が、いつの間にこんなにしっかりして……」
「……はは。」
気の利いた返しが思いつかず、曖昧に笑ってごまかす。
『まさか疑っては……いないよな?』
「どんな奇跡かはわからないけど、ママは一安心だわ。」
どうやら疑われてはいないようだ。ホッと胸をなでおろす。
「で、名前は決めたの?ママは“レオ”って名前、ずっと使ってほしいんだけどな〜。」
「はい。もう決めました。」
ゲームの進行通り、園長は俺に新しい名前を尋ねてくる。
「政嘉男 宇賀です。」
「まさか……おうが?オーガみたいに強い人になりたくて、そういう名前にしたの?」
「えっ……まあ、そんな感じです。はは。」
そういえばこのゲーム、モンスターは出てこなかったから忘れてたけど、設定上はちゃんと存在してるんだよな。
『まさかゲームに出なかったモンスターが、現実に出てきたりは……しないよな?』
そんなことがないよう、心の中で祈るしかなかった。
「じゃあ、もう行きなさい。今日は初出勤の日でしょう?早めに行って、準備した方がいいわ。たまにはママのことも思い出してね。頑張るのよ。」
ぼんやりしているうちに、園長は自然と送り出してくれた。
閉じられた扉。
「……えっ?」
『あれ、スーツは?』
俺は唖然としながら、園長室の扉を見つめた。
『ゲームでは、園長からスーツを受け取ったはずなんだけど?』
再び扉をノックする。
扉はすぐに開いた。
「どうしたの?何か忘れ物でも?」
園長の表情には、特に意地悪そうな様子はない。
むしろ、スーツを渡すつもりなど最初からなかったような素っ気なさだ。
『なにこれ?ゲーム通りに進まないってこと?』
まだ確信は持てない。だが、今はゲームの進行通りにスーツをもらえるかどうか試すべきだ。
「えっと……男物のスーツを、貸していただけませんか?」
「男物なら一着あるけど……それは亡くなった主人の遺品なのよ。気軽に貸せるものじゃないわ。」
『……遺品!?そんな設定なかったけど?やっぱり、ゲームとは違う展開になるのか?』
その時だった。
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「交渉を開始します」
交渉相手:オウガオ ウガ、アンジェラ
交渉種類:物品貸与契約
交渉目的:スーツの貸与
交渉ヒント:
① あなたは実物資産を持っていません。信用取引を促すか、無償での提供を目指しましょう。
② 相手の品物は感情的価値が高く評価されています。感情の変化を誘導して優位に立ちましょう。
③ あなたは相手と深い信頼関係にあります。それを積極的に活用しましょう。
④ 推奨戦略:「感情に訴える」
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ホログラムの案内文のようなものが目の前に現れた。