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スパイ

バザールは田舎だし、一人静かに領地内政に力を注いでいる……そう思われがちだが、実際はそうでもなかった。


シュク――バザールから二番目に近く、同じく男爵領であるその土地の名だ。


シュク男爵はバザール男爵の犬猿の仲にしてライバルだった。


つまりこいうことだ。


「スパイだ! シュクの間者がここにいるんだ!」


あちらで聞こえた声は、こちからにも伝わるものだ。


まだ楽器はアリの巣穴に差し込んだままだったので、すぐに叫んだ。


「どうしてそれが分かったんだ!?」


『まさか、本物だったのか!?』


状況をどうにかしようと、いい加減に吐き捨てた言葉だったのだが、偶然にも的中してしまった。


――ガララッ。バタンッ!


互いに動揺していたその時、隣の部屋の扉が開く音がした。


私は硬直していたスパイに飛びかかり、背中から投げ飛ばした。


「うわっ!」


もし相手がDランクだったとしても、男爵がすぐ隣の部屋にいる以上、何らかの対策は立てていた。


だが、私の力で簡単に投げられたところを見ると、せいぜいEランクといったところか。


私は部屋の出入り口を背にして立ち、まるで自分が今部屋に入ってその男を見つけたかのような構図を演出した。


「シュクの間者だと!? どういうことだ!」


ちょうどバザール男爵が現れた。


「あいつ、あの変な道具を使って先生の部屋を覗いてました! 早く衛兵を!」


私は堂々と指を差し、自分がやったことを間者に図々しく押し付けた。


わざと「先生」と呼んだのは、男爵であることを私が知っていると気づかれるのを避けるためだった。


『スパイにとって肝心なのは迅速さと隠密性だろうに。何のんびり歩いてきて声なんかかけてんだ。』


おそらく、本職のスパイや情報屋ではなく、こういう仕事は初めての冒険者なのだろう。


「……くっ!」


シュクの間者はそのまま窓に向かって飛び出した。


――ガシャーン!


窓を破って二階から外へと身を投げた間者は、軽やかに着地して逃走した。


「……今後は衛兵を何人か待機させておかねばな。」


「おじ様、何が……えっ? マサカオーガ!?」


男爵が何かを呟いている間に、セラがそっと顔を出して、私を見つけた。


正体を隠す気があるのか、部屋の中とは違った雰囲気で話しかけてきた。


「アハハ~、セラ先輩。こんなところでお会いするとは。」


私は頭を掻きながら気まずく笑った。


「知り合いか?」


男爵がセラに尋ねた。


「はい。今日から一緒に働く新人です。」


「ふむ。今日から? 出身はどこだ? バザールにはいつ来た?」


男爵は疑いの目を向けて私に問いかけた。


『あーあ、偉い人ってやつは……』


疑いの芽を放置しない。


理由が明らかでなければ, それが好意であっても必ず疑ってかかる。


まさに優れた政治家と言えるだろう。


『さて、リシが何て言ってたっけな……』


私はリシと初めて会ったとき、彼女が一方的に喋ってくれた情報を思い出した。


「私はパトゥム村のエンジェル孤児院出身です。昨日バザールに初めて来て、今日領地内を見て回っていたところ、看板もないのに酒の匂いがしたので、つい惹かれて入ってしまっただけです。決して怪しい者ではありません。」


すると、男爵から意外な反応が返ってきた。


「ほう、アンジェラの養子か。分かった。」


私の出身を聞いただけで、すんなりと疑いを解いたのだ。


『孤児院長、意外と人望あるな……?』


私はいきなり主人公の体を 빼앗ったようなものだが、正直孤児院長とはもう縁が切れたと思っていた。


『……暇ができたら、挨拶ぐらいはしておくか。』


「私は戻る。セラ、お前はその者を頼む。」


男爵は私を指差してそう言った。


「……分かりました。お身体を大切になさってください。」


セラはなぜか厳かな顔でそう答えた。


男爵はあくまで平然とした態度で背を向け、酒場を後にした。


『何食わぬ顔をしているが、頭の中ではスパイにどこまで情報を抜かれたか考えながら、対策を練るので手一杯だろうな。』


男爵がこんな普通の酒場を秘密の執務室にしていたのは、私の知る限り、セキュリティの問題からだった。


しかし、どう見ても一つの村を治める領主の安全対策としては心許ない。


『だから実際に情報を盗まれたわけだしな。』


男爵は個人としての能力やカリスマ性には欠けていなかったが、仕事の進め方には抜けがあった。


ゲームでも、男爵のミスによって派生するサブクエストが定期的にギルドに舞い込んでいたぐらいだ。


『それはまた後の話、今はとりあえず帰るとしよう。』


私はセラと一緒に酒場を出た。


だが、意外にもセラの方から先に話しかけてきた。


「私、ちょっと寄るところがあるの。一人で戻ってくれる?」


「え?」


『男爵がわざわざ私を任せたのに、即座に命令無視? 違うな……すでに何か合図でもあったんだろう。』


どうやらセラには、まだ隠された一面があるようだった。


『ま、どうでもいいか。どうせ結婚してここを去る人だし。』


私はすぐに興味を失った。


「あ、はい。じゃあ先に戻ります。」


私は軽く頭を下げ、ギルドへと向かって歩き出した。


---


セラはマサカオの姿が見えなくなるまで、見送るふりをしながらその背中をじっと見つめていた。


そして、領主の言葉を思い出す。


『その者を頼む』


マサカオはそれを特に気にも留めず、ただの帰宅命令として受け取っていたが、そう言うには妙に引っかかる言い回しだった。


つまり、本当に「頼む」のはマサカオではなく――逃げたスパイの方だったのだ。


やがてマサカオが完全に視界から消えると、セラは再び店の中へと戻っていった。


扉をくぐるとすぐ、彼女の目に入ってきたのは、いつも彼女を苛立たせる男の顔だった。


「更衣室、借りるわ。」


セラは乾いた口調でそう告げ、店の奥へと歩を進める。


「どうぞご自由に、お愛しき妹よ。」


――ピタリ。


突然飛んできた兄の挑発に、妹の顔は怒気を孕んでゆがんだ。


「領地に問題が起きるたびに尻拭いしてるのが誰だと思ってんの? その癇癪の喋り方、やめてくれない?」


「ほっほっほ。今日は一段と荒ぶっておるのう、愛しき妹よ。」


もうやめだ。


兄妹同士で対話を二言以上交わすなんて多すぎた。


セラはすぐに精神干渉魔法で隠していたレイピアを腰から抜いた。


「これが最後の情けよ、エイヴ。遺言。」


喉元すれすれで鋭く光る剣先を向けられても、カップを磨いていた店主はからかうように言った。


「自分の仕事に集中しなさい。俺はさっき領主様にたっぷり叱られたばかりなんだ。店を閉めて、のんびり心を癒すつもりさ。今日はジンジャーエールでも飲もうかな。」


その一言で、レイピアが小刻みに震え始める。


そしてついに、熟練の剣士が風を切って剣を振るうような、鋭い悲鳴がセラの口から放たれた。


「きゃああああああっ! 今すぐ代わって! お願いだから! 私だってただの事務職で平穏な人生送りたいの!!」


「いやだ。さっさとスパイでも捕まえてきな。」


「なんでよ!」


エイヴは答えず、爽やかな笑顔だけを浮かべていた。


この世界では、若いうちに配偶者を失うのも珍しくなく、再婚家庭や異父兄妹も多い。


セラとエイヴも、父親が違う異父兄妹だった。


この世界が特に父系社会というわけではないが、バザール男爵家はガイウスの家系だ。


厳密には、エイヴはバザールの血筋ではなく、貴族社会では血統に対して非常に厳密である。


つまりエイヴには、バザール領に対する権利もなければ、義務もない、ということだ。


「いやあああ! 本当にいやっ! やりたくないっ! 戦いたくなーい!!」


セラは地団駄を踏みながら全力で駄々をこねた。


「そうこうしてるうちに、あのスパイはどんどん遠くへ逃げているぞ。おバカな妹よ。」


冷静な兄の言葉に、セラの肩がガックリと落ちた。


「……資格がないって、あれほど言われたのに、こっそり家庭教師から魔法を盗み学んだドロボウのくせに。」


結局セラは、子供の頃のことまで蒸し返してきた。


それに、さすがのエイヴも、ついに唇をちょっと尖らせた。


「おかげで、私の夢だったこの店が領主様の秘密アジトになっちゃったじゃないか。借金返せとか言われてさ。こんなパッとしない建物に、看板もなしで酒を出して、誰が来るっていうんだよ。」


彼の嘆きとは裏腹に、店には意外と常連もいて、時折新しい客も来る。


だから、ガオンやスパイの出入りもそこまで気にしていなかったのだ。


エイヴの言葉は、ただの商人としてもっと稼ぎたいという愚痴にすぎなかった。


それを分かっていたセラは、彼の言葉を軽く無視した。


「はぁ……さっさと終わらせて、今日は久しぶりに本家でマッサージでも受けよっと。」


そうつぶやきながら、店の奥の更衣室へと向かったセラは、素早く着替えた後、だるそうに歩いて出てきた。


硬い革製の服に急所を守る装備をつけ、無地の仮面をつけた、どこにでもいそうな女性冒険者の姿だった。


つまり、上下ともに短く、お腹を大胆に露出しているということだ。


「ぷっ!」


その姿を見て、エイヴが思わず吹き出した。


ケイナンの貴族たちは、へそ出しファッションを下品だと見なしているからだ。


「それが遺言かしら?」


その嘲笑を聞いた途端、セラは今度こそ本気でレイピアを突き出した。


エイヴは磨いていたフォークで素早くレイピアの軌道を受け止めた。


――キィィンッ!


一般人なら吐き気を催すほど、空気が激しく震えた。


マナの才能というのは遺伝するものではない。


もし母親の件がなければ、大陸レベルで名を馳せていたかもしれない才能の持ち主であるウスキの両親は、どちらも華奢な一般人だった。


セラとエイヴの母親も、同じくマナを感じることすらできない一般人だ。


だというのに、この実力者兄妹は、バザール領に四人しかいないCランクのうち、二人を占める、領内最高戦力だった。


『どこが「戦いたくない」んだか……』


「ほっほっほ。この兄が悪かった。もうやめにしないか?」


セラがこれ以上ヒートアップすれば、本当に店がぶっ壊れる勢いで戦い始めかねないので、エイヴはついに折れた。


「ふん、今さら分かったならいいわ。」


セラは、たった一合でしっかりストレスが発散できたのか、軽やかな足取りで店を出ていった。


「ふぅ……」


その背中を見送りながら、エイヴはほっと息をついた。


その後、シュクの間者はセラの手によって、わずか三十分で捕まることとなった。

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