正体
ガイウスが食堂を出た直後、私はその後をこっそりと追い始めた。
もちろんだが、誰かを尾行した経験なんて一度もない。
いっそ、まだ顔見知りでなければ「偶然ですね〜」なんて言い訳しながら堂々とついて行けたかもしれないが、すでに自己紹介も済ませた仲では、それは無理がある。
『うまく怪しまれずに尾行する方法……って、あれ、この道は!?』
自分でもバレバレじゃないかと焦っていたその時、ふと気づいて身を引いた。
ゲームでは領地間の移動は自動スキップが基本だった。
オプションで切り替えられるが、韓国人のように勇者プレイをしたい人はオフにすることもある。だが、最も近い領地でも朝出て夜に着くほどの距離だ。
一方、領地内の移動はすべて自分で歩かなければならない。
つまり、私はこのバザールの地理にかなり詳しいというわけだ。
『この先は、たしか……プライベート酒場のはずだ』
看板のない、特別な酒場。
そこは、ある人物の秘密の執務室でもあった。
『まさか、あの人と関わっていたのか……』
それなら、このまま尾行するのはまずい。
どうせ目的地はわかっているのだから、準備してから向かった方がいい。
『やっぱり、借金しておいて正解だったな』
私はすぐに、ある店へと駆け出した。
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この異世界における空間と時間の感覚は、現代人とは少しズレている。
たとえば「近くにオーガが出た」と聞いたとき、その「近く」は本当にすぐそばの場合もあれば、馬車で一〜二日かかる場所を指すこともある。
マナに目覚めた者の多くは冒険者を目指すが、一般人はいまだにのどかな農民生活を送っている世界。
「一〜二日」という時間は、いわば「すぐにやって来る未来」なのだ。
「ギャギャッ! ギャギャギャ!!」
「ケル! ケルルッ!」
そして、こいつらはその「一日」の半分を、疲れも見せずに走り続けていた。
──グオォォォォォォッ!!
自分たちを狩ろうとする、さらに大きな怪物から逃れるために。
特別な個体であるホブゴブリンでさえ抗えない惡災を人間に押しつけるために。
安眠を妨げたざこどもを、弱肉強食の原理に従って片っ端から叩き潰すために。
それぞれが走り続けるその間に……
やがて日は沈み、すぐに月が昇った。
人間の街にも、「間もなく到着する」だろう。
バザールに災厄が襲いかかるまで、あと約四時間。
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『もう九時か』
必要な物を買い集めて街をあちこち走り回っているうちに、時間はすっかり遅くなっていた。
『リシさん、相当怒ってるかもな……』
ようやくたどり着いたプライベート酒場の一室に入りながら、私はリシのことを思い出した。
申し訳ないとは思ったが、この件はわざわざ最大額まで借金までして臨んだのだ。何も得られないまま終わらせたくはなかった。
『……って、重っ!』
私はまずコイン袋を放り出した。
お釣りを金貨で受け取ったために、ずっしりと量が増えてしまったのだ。
大きな領地では、貯金証書をまるで紙幣のように小さな単位で切って使うこともできるが、バザールのような田舎町ではまだまだ金貨と併用されている。
紙幣のように使うためには、大量の証書を事前に刷っておく必要があるが、田舎の小さな銀行ではそんな紙すら不足しているのが現実だ。
『これのせいで……!』
私は買ってきた品、サクソフォンに似た楽器を睨みつけた。
値段は十五万ゴールド。一番安い物でも、アルバスの剣と同額である。
魔法で無機物を生成するのは簡単だ。だから純金製の金貨がたった1ゴールドであることも普通にある。
だが、生成した物質を成形するのは、魔法であってもかなり高度な技術を要する。特に音を一定に鳴らす必要がある楽器の製作となると、なおさらだ。
だから、この世界でも楽器は非常に高価なのだ。
ともかく、この楽器を買うために10万ゴールドの貯金証書を2枚出したら、店主はお釣りとして49,831ゴールドの証書と金貨169枚を渡してきた。
金貨1枚あたり、おおよそ50グラム。
借金時に無料でくれた空のコイン袋は、突然8.5キロの凶器に変貌した。
『……これ、日本に持って帰れたらな』
ふとそんなことも思ったが、すぐに首を振る。
私はもう、この異世界で生きる住人だ。無意味な妄想に過ぎない。
『よし、そろそろ始めるか』
ゲームでは、これと同じことをするミニイベントがあった。
名付けて「隣の部屋の会話を盗み聞き」。
私はまさに今、それを再現しようとしているのだ。
現実世界のサクソフォンはマウスピースが取り外せるが、この世界のものは一体型。
だから、マウスピース部分を削り取って、丸い穴を開けるための道具も別に買ってきた。
これを切り取ってしまえば、もはや15万ゴールドの楽器は売ることすらできず、自力で稼いで返すしかない。
『でも、俺の予想が正しければ、15万なんて安いもんだ!』
私はとうとうマウスピースを切り落とした。
そして、部屋に入ってすぐ確認していた小さなネズミ穴に、楽器をそっと近づけた。
ゲームでも最初から用意されていた穴だ。
初めて見た時は「開発者、さすがに都合良すぎだろ!」と思ったが、実際に現実で見つけたらちゃんと存在していた。
部屋の構造上、目立たない位置にあるから、相手は気づいていないようだ。
『よし、今だ!』
私は切り取ったマウスピース部分をネズミ穴に深く差し込んだ。
すると、隣の部屋の声が、楽器を通して聞こえてきた。
「……のためのことだ。従え」
中低音で響きのある声だった。
「嫌だって、何度言えばわかるんだよ!」
『やっぱりガイウスだ』
何かの提案を拒否するようなその口調は、かなり荒々しかった。
「……下賤な連中と何年もつるんだせいで、お前も似たような口を利くようになったな、この愚か者」
「……料理人を侮辱するな」
「侮辱したのは職業ではなく、お前らの品性だ」
『……まさか、ガイウスが!?』
短いやり取りだったが、私は驚くべき事実を知ることができた。
難しい話じゃない。
ガイウスが話している相手は……
「私も嫌です」
──その時、意外な声が聞こえた。
「どうかご容赦ください。私はまだ結婚する気はありません、家長様」
『セラ!? 家長様って……まさかセラも!?』
改めて言うが、私がここまで驚いた理由は複雑な話ではない。
二人が話している相手は──
「貴族間の縁談が、お前一人の意思でどうにかなると思うな。お前はバザールの一員として、この家長の意向に従え」
──バザール領の領主、ダリウス・バザール男爵だったのだ。
『セラがバザール男爵を家長様と呼んでいて、縁談を強いられてる。ガイウスはその男爵に対して口汚く言ってる。つまり、二人は貴族だったんだ』
しかし、家を出てギルドで事務員や料理長をしていたことを考えると、直系ではなく分家の出身のようだ。
『じゃあ、セラとガイウスの関係は?』
この疑問の答えもすぐに出た。
「それでも嫌です。正直に言います。私は自分で選んだ人と結婚します!」
「……はあ。こういうところを見ると、やはりガイウスの血筋だな」
『セラはガイウスの娘だったのか……!』
すべての謎が解けた。
バザール男爵は、ゲームを進めれば必ず関わる人物。彼のことはよく知っていた。
彼はセラとの縁談を必ず成立させるだろう。
つまり、セラがゲーム中で突然いなくなる理由は、貴族の縁談でお嫁に行ったからだ。
『ギルドの皆がセラの不在を気にしなかったのも、おそらく口止めされていたんだろうな』
身分制度が明確な世界で、たとえ分家でも貴族の令嬢が平民相手にギルドで事務員として働いていたという事実は、相手の家には絶対に隠したかったはずだ。
『こんな裏事情があったとは……って、なーんだ、大したことなかったな』
もちろん、今日仕入れた情報を日本に持ち帰ってネタバレすれば、関連掲示板は騒然となるだろうが、今の私には何の意味もない情報だった。
バザール男爵とは、どうせギルドを成長させれば遅かれ早かれ関わる。
セラは有能ではあったが、代わりの利かない存在ではない。
ガイウスが貴族だと分かったことで、逆に手を出しにくくなっただけだった。
私が期待していたのは、男爵の弱点となるような黒い秘密。
どんなに身分が高くても、小さな領地では民の心を掴むのが大事だ。
『セラには悪いが……』
たとえば、領地一番の美少女と噂されるセラに目をつけた男爵が、ガイウスを買収してこっそり誘拐した……みたいな話だったなら。
それくらいなら、男爵の弱点として使える余地があったが、今回の話ではせいぜい「縁談中の姪に傷がつく」程度。
決定打にすらならない情報を、男爵の前で口に出せば、見返りもなく命を落とす羽目になりかねなかった。
『はぁ……もう帰るか。収穫なし、明日からまた社畜生活か……』
大きく落胆してその場を離れようとした、その時だった。
──ガラッ、バタン!
引き戸の音が乱暴に響いた。
「どなたですか?」
私は開いた扉の向こうを怪訝そうに見た。
全身を覆うローブに帽子、マスク。どう見ても怪しい人物だった。
その者は私に近づくと、低く囁いた。
「勝手に他人の穴を使ったら、使用料を払ってもらわなきゃ困るよ?」
目が合ったその男の瞳には、殺気が宿っていた。
8/7 変更事項
モンスターが襲来するまでの残り時間に誤りがありました。
3時間を4時間に変更いたします。
混乱を招いてしまい、申し訳ありません。




