親子シチュー
目を覚ますと、まだ夜明け前の薄暗い時間だった。
『なんだか、何かを忘れてる気がする……』
何か夢を見た気がするが、思い出せなかった。
『腹減った……いっそ飢え死にしようか』
まだ昨日の羞恥が完全には抜けていなかった。
しばらく無気力に横になっていたが、せっかく早起きしたのだからさっさと出勤してしまおうという気持ちになって体を起こした。
『だらだらしてて、もしリシにばったり会ったりしたら……その場で飛び降りるかも』
私は浴室へ入り、簡単に身支度を済ませて制服に着替えた。
一つひとつ身につけるたびに昨日の出来事がフラッシュバックして手が震えたが、なんとか着替えを終えた。
そして寮を出た。
『食堂ってこの時間にもうやってるかな……?』
まだ太陽も昇っていない時刻に食堂へ行っていいものか迷い、少し足を止めた。
――グゥゥゥ。
迷う間もなく、鳴り響く腹の音に背中を押され、昨日通ったギルド職員用の出入口ではなく、すぐ隣にある食堂の職員用出入口へと入った。
昨日見た玄関ホールと左右対称の構造になっている空間を抜けて食堂に入ると、正面に厨房が見えた。
「野菜の状態がなんだこれは!もっと新鮮なのはなかったのか!?クソッ、もう何ヶ月もこの調子じゃないか!」
「す、すみません!」
「仕方ない!柔らかくなってる部分は根こそぎ切り落とせ!今日のおすすめもシチューでいくぞ!」
「はい!シェフ!」
「ったくよぉ、看板掲げてるレストランだってのに、いつまでシチューだけ出してんだか……!」
厨房の中はすでに戦場のような騒がしさだった。
私は忙しそうに怒号を飛ばす五十代くらいの料理長、ガイウスに声をかけた。
「おはようございます、料理長。はじめまして」
ガイウスは私を一瞥し、口を開いた。
「初めて見る顔だな。新人?」
『この人、ゲームと台詞まで一緒だな』
料理長ガイウス。パインレストランの腫れ物扱いの存在。
地球でも異世界でも、厨房というのは火と刃物を扱う危険な場所なので、規律が厳しく性格も荒い料理人が多い。
ガイウスも長年そんな環境で働いてきたため、口調は荒いが、実は根は善人というタイプだった。
「はい。昨日入社して、本日から勤務開始の事務職新人、マサカオ・ウガと申します」
「オーガ? お前オーガお……」
『やめ、そのくだりはもう飽きた』
しつこいオーガネタは適当に聞き流した。
「ま、なんにせよ新人で勝手がわからなかったんだろうが、こっちは食堂職員専用の通路だ。次からは通らないようにな」
「はい。失礼しました。申し訳ありません」
実はわかっていて、わざと通ってきたのだが、それは黙っておく。
「まぁいい。今後ともよろしくな。飯は少し待ってくれりゃ出す。料金は知ってるな?」
「はい、存じております。ありがたくいただきます」
「くっくっく」
ギルドの台所事情を考えると、職員の給料から食費くらい再徴収しないと成り立たないように思えるが、驚くべきことにパインレストランでは職員の食事は無料だった。いや、全ての来客に対しても無料だった。
問題は、それがギルドの方針ではなく、ガイウスの独断だったということだ。
ガイウスは何かと理由をつけて人々にタダ飯を振る舞いたがる慈善事業家だった。
もらう側は嬉しいが、ギルド側としては赤字を生む張本人にしか見えない。
じゃあクビにすればいいじゃないかと思うかもしれないが、それが簡単にはいかない。
ガイウス級のキャリアと腕前を持つ料理長は、普通なら自分のレストランを持ちたがる。ギルド直営のレストランでサラリーをもらいながら働こうなんて人は稀だ。
何より、この片田舎のバザール領に、彼ほどの料理人は他にいなかった。
じゃあレストラン事業自体をやめればいい――とも思えるが、それも難しい。
『俺もよく赤字がどうこう言ってたけど、実はギルド直営レストランって、大抵は大きな利益を期待するもんじゃないんだよな』
この世界の流通事情を考えると、食材価格の暴騰は当たり前だった。
個人経営のレストランはその分を価格に上乗せするしかなく、料理一つの値段がシャレにならない。
『逆に、地域の名産料理は安すぎて数が多く、すぐに飽きるしな』
ギルドレストランは、この過酷な飲食業界の中で、領民の食文化を豊かにする社会的役割を担っている。
そんな事業を赤字が怖いからと切り捨てれば、領民の怒りを買うどころか、ギルドの信頼性自体が問われかねない。
そうなれば、いくら領内唯一のギルドでも見放される恐れがあった。
リスクを冒してでも、他の領地のギルドへ依頼しに行くという話だ。
ギルドの収入の大部分は依頼の仲介手数料によって得られる。レストランの赤字を回避するために、主収入の基盤を揺るがすようなことをすれば、本末転倒だ。
『まあ、この問題は後で考えるとして……』
今の私には何もできない。せめて無料の朝食に感謝しよう。
私はすぐ横にあるホールへと続く通路へ向かった。
中に入ると、早起きなフリーの冒険者や銀行職員などが数人いた。
適当な席に座って待っていると、ガイウスが自ら歩き回りながらシチューを配膳してくれた。
「今日は特別にタダだ!毎日タダじゃないかって?じゃあ毎日が特別ってことさ!ウハハ!」
そんなことを言いながら。
シチューにはいくつかの野菜や鶏肉、卵が入っていた
『確かに、うまいな……』。
ガイウスの存在価値を証明するかのように、そのシチューは絶品だった。
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面白いことに、ギルドの事務室の風景は、よくある会社のオフィスとほとんど同じだった。
机がぎゅっと並べられ、簡易のパーティションで席だけが区切られている構造。
違う点があるとすれば、机の上にパソコンがないことくらいか。
『まったく整理されてないな……。』
パソコンの代わりに、山のような書類が雑然と積み上がっていた。本当に、とんでもない量だ。
『こんなに仕事があるのか? 何かおかしいな……。』
何度も言うが、こんな田舎の小さなギルドに、そんなにやることがあるはずがない。
『ちょっと見てみるか。』
まだ自分の席がどこかも分からないので、近くにあった書類を適当に一枚手に取った。
[剣術教室内 투핸드소드管理表]
『はぁ……この部分、いつになったら直るんだか……。』
韓国語のように見える部分を見ながら、内心ため息をつく。
『ん? 直してくれ? 誰が?』
ふと違和感を覚えて、無意識に首をかしげた。
「あなた、誰?」
その時、いつの間にかドアが開いていて、一人の女性が入ってきた。若い女性だった。
『めずらしい……こんなに早く出勤するなんて。』
確か彼女は中堅職員のくせに、いつも一番遅く出勤してくるタイプだったはずだ。
「おはようございます、先輩! 本日からお世話になります、新人の政嘉男ウガと申します!」
「おお〜! やっぱりあんたか! 見学もせずに出社した度胸ある新人さん!」
『これで、ギルド内ヒロイン三人娘、コンプリートだな。』
「気になりすぎて我慢できなくて、早く来ちゃったの。でもあんたも初出勤早かったんだね! 昨日の反省ってやつ? くくっ!」
彼女は、ファインギルド内で出会う最後のヒロインだった。
残りのヒロインたちは、ギルドの外から来るか、外で出会うことになる。
「……」
「ん? どうしたの? ぼーっとしちゃって。何かあった?」
言葉を失っていた私を見て、不思議そうに問いかけてくる女性。
長く伸ばした淡い黒髪を活動的にまとめ、特に大きな目がいつもいたずらっぽく曲がっている活発な目つきが印象的な美女。
「あっ! 私の自己紹介、すっかり忘れてた! もう、私ったら〜! はじめまして、私の名前は……」
『セラ、不遇のヒロイン。』
設定上では、ギルド内の三人のヒロインの中で一番の美人とされているが、ゲームが始まって間もなく姿を消してしまうため、人気はそれほど高くない。
しかも、彼女が姿を消す理由はゲームが終わるまで明かされない。
そのせいで、さまざまな憶測が飛び交っていた。身分を隠した貴族だとか、スパイだったとか。
だが最も有力だったのは、ただの開発者のミスという説だった。
なぜなら、彼女がいなくなったことを誰も気にしないからだ。
『でも、ギルドタイクーンはただのゲームじゃなくて、女神が創った世界を模したシミュレーションだったわけで……存在そのものが消えたわけじゃない……って待てよ、女神が創った? そんなこと、俺どうして知ってる……?』
「ちょっと、返事しなさいよ」
一人で何か大きな疑問に呑まれかけていたその瞬間、セラに声をかけられた。
自己紹介まで終えて無反応な私に、さすがに不機嫌になったらしい。
「あっ! す、すみません! えっと……あまりにも、お美しすぎて!」
なんとか場を繕おうと、口から出任せが出てしまった。
「へえ〜、大胆ね〜」
セラは慣れている様子で、私の素直な感想をサラッと受け流した。
「まあ、今回は大目に見てあげる。でも次からは、先輩の話はちゃんと聞くように。じゃないと、痛い目見るわよ?」
慣れているとはいえ、やはり女性は“キレイ”という言葉に弱い。
「さて、せっかく早く来たことだし、昨日のロスを取り戻していこうか! 始業時間まではまだあるしね」
『こうなったら、一度ちゃんと調べてみるか……?』
単純にゲーム開発者のミスでキャラクターが消えたという可能性は今現実になって消えた。
そうなると、なぜ彼女が姿を消すのか、急に気になってきた。
『まあ、だからって今すぐどうこうできるわけじゃないけど。セラがいなくなるのは、たしか「あの飲み会」のあとだったな……』
「はい、じゃあこの書類を使って仕事の流れを説明するね。えーと、この内容によると……今晩、レストランのスタッフたちで飲み会があるみたい!」
「えっ!?」
今すぐやるべきことが、できてしまった。




