第8章-非ユークリッド的応答-
空白の中心に立つサオリの眼前で、世界は折りたたまれていた。
空間は水平でも垂直でもなく、角度という概念を持たない線に沿って引き裂かれていく。
彼女の足元は“そこにある”のに、“下に落ちている”ように感じられた。
それは──非ユークリッド構造そのものによる応答だった。
円でも螺旋でもあり、点であり線である。
終わりと始まりが同じ場所にある構造が、観測者を媒介として“意味”を生成し始めた。
ラボの外では、空が逆転していた。
重力が方向を見失い、建物の影が空中に浮かび上がる。
反射光ではない。“物”そのものが、もう一つの空間へと引っ張られている。
ミゲルと美咲は、サオリの周囲に現れる変形空間を前に言葉を失っていた。
美咲「……ここ、まだ地球……なの?」
ミゲル「いや……もう違う。
これは、空間の“再解釈”だ。構造そのものが意味を塗り替えようとしている」
美咲「言葉も……形も……全部が崩れていく……」
そのとき、サオリの脳内で“音”が形になった。
波でも振動でもない。
それは、空間そのものが“声”として語りかけてきたのだ。
選択しろ。
修復か、再構築か。
観測可能な“終わり”と
不可視の“始まり”のどちらかを──
サオリは息を呑んだ。
この空白に入り、彼女はただ“観測”していたのではない。
彼女の存在が、“選択のトリガー”にされていた。
サオリ
(私が……決める? この世界の未来を?)
思考は収束し、記憶が遡る。
あの最初の音の違和感、
火が凍った屋台、
空が重なり、地球がもう一つ現れた瞬間。
すべてが構造の“呼びかけ”だった。
サオリの意識の底に、誰かの手が触れた気配がした。
いや、手ではない。概念でもない。
構造そのものが、彼女の“知覚の深部”に接触していた。
サオリ「……私は、見届けたい。この構造が、“なぜ”現れたのかを。
私たちの世界が、どうしてそこまで近づいてしまったのかを……」
空白が、静かに応えた。
世界の形が、一瞬だけ──変わった。
床が消え、天井が沈み、重力が巻き上がる。
空間は軋みながら、“選択を受け入れる形”に組み替えられていく。
その中心で、サオリの身体が浮かび上がった。
ミゲル「サオリ! 戻れ、もう危険だ、そこは……!」
美咲「違う、彼女は……まだ繋がってる! この世界に……!」
サオリの口が、意識とは別に動いた。
サオリ
「構成の定義は、未確定。
だが“境界”はもう……保存できない。
ならば私は、“意味”を渡す者になる──」
そのとき、世界に音が戻った。
だがそれは、空気の震えではなく、世界の構造が震える音だった。
“非ユークリッド構造”が、完全に観測可能な形として現実に応答した。
その構造は、物理も論理も超えて、
ただ「そこに在る」という事実だけで、すべての意味を凌駕していた。
それは、次への扉だった。
――了