第1章-音の端-
水科サオリは、最初にそれを「気のせい」だと思った。
日常のざわめきの中、誰も気づかないはずの違和感。
だけど、彼女の耳だけはほんの少し違う。
駅の構内、朝のラッシュアワー。
数千の足音と構内アナウンス、そして電車の接近音。
無秩序な騒音の渦の中に、たったひとつだけ“抜けている”音があることに、彼女は気づいていた。
(……さっきの靴音、あれだけ……消えてた?)
小さくつぶやいたサオリは、バッグから携帯型の音響記録装置を取り出し、構内の雑踏とアナウンスを収録し始める。
モニターに表示された波形は、規則的なのに、どこか“不正確”だった。
彼女には、昔から音に関するある“感覚”があった。
それは“音を聴く”というより、“音の構造を見る”ような感覚。
周囲の誰も気づかない歪みや欠落に、幼い頃から違和感を覚えていた。
この日、収録した波形もまた、彼女に問いかけていた。
――この音は、どうしてこんなに綺麗なのに、“正しくない”のか?
研究室に戻ると、サオリはすぐさま音響記録の再生を始めた。
波形は鮮明。録音環境も良好。だが──何かが、おかしい。
「……“最初に音が抜けてる”」
眉を寄せながらサオリは数度再生を繰り返す。
記録上では存在するはずの冒頭のアナウンスが、実際には鳴っていない。
ノイズではない。録音ミスでもない。
「音があるはずの場所」に、音が存在しない。
だが、その“欠落”はとても自然で、気を抜けば聞き逃すほどだった。
そのとき、彼女の胸ポケットで通信機が鳴った。
美咲の声が通信機越しに響く。
「サオリ、今どこ? 会議始まってるわよ」
サオリは手元のモニターを見つめたまま答えた。
「あと3分。データの確認が終わったらすぐ行く」
彼女が所属しているのは、
民間独立研究チーム
Echo5(エコーファイブ)
音響異常・空間歪曲・振動現象など、世界中で起きつつある未解明の超常現象を扱う研究機関だった。
国にも大学にも属さず、外部の支援と独自調査で運営されている。
メンバーはサオリを含めて5人。各分野の専門家が揃うが、いずれも“表向きの肩書”は持っていない。
サオリは波形データをUSBに移し替え、モニターを閉じて研究棟の会議室へと向かった。
部屋にはすでに全員が揃っていた。
テーブルには美咲、ミゲル、健吾、椿の4人が資料を広げており、先日観測された奇妙な“音の喪失”現象について議論が交わされていた。
ミゲルが映像を再生しながら説明する。
「これが例の映像だ。高速道路の高架下、車が通るたびに周囲の音が1秒だけ完全に消えている」
モニターに映されたのは、深夜の監視カメラ映像だった。
車が画面を横切ると、環境音がふっと“消失”する。
虫の声も、風も、道路の残響も──まるで時間ごと切り取られたように。
健吾が映像を見ながら鼻で笑った。
「こんなのただのノイズだろ。編集か、誤作動だ」
それに対して椿がすぐさま反論する。
「違うわ。環境音だけじゃない、反響も消えてる。あれだけ広い空間で“音の跳ね返り”がゼロなんて、ありえない。それに、複数箇所で同じ現象が起きてるってことは──意図的な何かが働いてる」
サオリは持参した資料を差し出しながら静かに言った。
「“音が消える”現象は、ランダムじゃない。これは──構造そのものが、何かの影響を受けてる」
室内の空気が、静かに、重くなっていく。
美咲が資料に目を落としながら問いかけた。
「……構造って、空間の?」
サオリはほんのわずかうなずいた。
「空間の“外側”かもしれない。でもその“入口”は、たぶん“音”なんだと思う」
椿が感情を抑えきれないように口を開いた。
「その可能性、前から私も考えてた。音は、空間そのものに“形”を与えているのかもしれない。だから、音の異常は空間の“言語エラー”……みたいなもの」
健吾は眉をひそめ、不満げに呟いた。
「……それ、オカルトに近すぎる」
椿は彼を真っすぐ見据えながら言った。
「そう思うなら、今すぐ抜けてもいい。でもね、健吾。“観測される異常”はすでに、説明の枠を超えてるのよ」
誰も、次の言葉を出そうとしなかった。
重い沈黙が研究室を包み込む。
サオリの耳には、他の誰にも聞こえない“音の端”が、今も静かに鳴り続けていた。
それは、世界の“縫い目”に触れた者だけが感じる、
──何かが壊れかけている音だった。
――了