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三ヶ月後の夕暮れ。
大蔵が大好きな本格辛口カレーのルーと材料を詰め込んだ買い物袋を手に、美咲はのろのろと一人、歩いていた。木枯らしさえ過ぎ去り、街路樹はすっかり散ってしまった。
西の寒空に沈む太陽に焼かれた雲がやけに赤くて、少し前まで空と道を真っ赤に染めていた紅葉を思い出す。たしか、こんな鮮やかな赤だった。携帯を取り出し、写真を撮る。あまりうまく撮れなかった。ついでに、
(今日じゅうに帰れそう?)
大蔵へメールを送って、ふと、エミが大好きだったチョコケーキを買って帰ろうと思いつき、病院の向かいにあるコンビニへ向かったのだが、
「え……」
隣に、あの質屋があった。まるで、前からずっと其処にあったかのように。
「うそ……あんなに探したのに」
ふらふらと導かれるように入店した美咲を、控えめに鳴った鈴が出迎えた。
「いらっしゃいませ。ああ、あなたは」
「うちの娘が、その、机を、こちらで……」
「大蔵笑美様の学習机ですね。たしかに当店へ質入れいただきました」
「本当、だったのね」
「もちろんです」
「エミがいただいた金額は、本当に一億円?」
「はい、たしかに。こちらに領収済みの振込依頼書もございます。お振込み先はご両親に内密にとのご希望でしたが、もう構わないでしょう」
キビキが差し出した振込依頼書を見るや、美咲は目を見張った。その双眸から涙が溢れ出る。
「あの娘ったら……」
一億円は、大蔵の会社が募っていた寄付金の口座に振り込まれていた。大蔵が帰国した、あの日に。なにも分かっていない幼児だと思っていたのに。
「お品をご覧になられますか? まだ奥にございますが」
「お願いします!」
即答してから、美咲は視線を宙に巡らせ、少し笑って、頭を振った。
「……いえ、やっぱり結構です。いいことも悪いことも、不思議なことも当たり前なことも、なにもかも、もう、終わった後だし」
「本当に良いのですか?」
美咲は一瞬だけ考えたが、
「ええ」
清々しい笑顔で続ける。
「エミとの思い出の品物は、たくさんあり過ぎるぐらいだから。それに見ちゃったら、どうしても買い戻したいって思っちゃうだろうし」
「承知しました。それで、本日はどのようなご用向きで?」
「ご用向き?」
「お客さまが当店にたどり着かれたということは、お客さまが当店を必要としている、ということでございまして」
「……私が?」
「ええ。逆もまた真なりではありますが」
「私が……質入れしたいもの……?」
何気なしに両手を広げてみる。手から腕、腕に着けたブレスレット、腕時計。胸、胸から下げたネックレス、腹、腰、足、アンクレット、最新モデルの靴。特別に売りたいこともなければ、売りたくない理由もない。再び両手に視線を戻して、ハッとした。
「こちらを鑑定していただけるかしら」
美咲は左手の薬指から結婚指輪を、右手の薬指からファッションリングを抜き取り、キビキに差し出した。
「拝見します」
絹の手袋を嵌めて受け取ったキビキは、バーカウンターの上の宝飾品用トレイに指輪を二つ並べて置き、片眼鏡をかけて鑑定を始めた。座った椅子は背が高すぎて、床に届かない足がかすかに宙に揺れている。
「鑑定結果が出るまで、お時間を頂戴しております」
品定めを続けながらキビキが言った。美咲には目もくれない。
「よろしければ、店内をご覧になっていてください。お気に召した商品がございましたら、販売もしておりますので」
「私、昔から欲しいものがあんまりなくって」
「左様ですか。残念です」
「代わりという訳じゃないんですが、少しお話をうかがっても?」
「構いませんよ。黙っていても聞いていますから、どうぞお気になさらず。なんなりとお話しください」
「このお店は、一体、なんなんですか?」
「当店は、質屋です。お客さまの思い出が詰まったお品を担保に、お金を融通いたします。期限までに元本の一割を利息としてお支払いいただけば、お客さまが所有権を失う質流れを止めることができます。期日までに利息もしくは元本の返済がなされなかった場合は質流れとなり、お客さまは質入れされた品物の所有権およびそれに付随する一切を当店に譲渡することになります」
「それに付随する一切って?」
「そのお品にまつわるお客さまの全ての記憶や思い出です。あらゆる感情も含めて永遠に失うことになります」
「だからエミは、急にあの学習机のことを忘れちゃったのね」
「左様です。お待たせいたしました。鑑定結果が出ましたので、どうぞそちらの席へ」
促され、キビキの正面に座る美咲。
「こちらは一万円になります」
美咲が左手につけていた結婚指輪の鑑定価格。一流ブランド、ヴォルチェで買った、ダイヤモンド付きのプラチナリング。もちろん店の証明書だってある。
「そしてこちらが、百万円になります」
右手にいつも着けていた誕生石入りのシルバーリングの鑑定価格。露天で購入したものだから、証明書などもちろん存在しない。
「まるで逆ね。つまりは、思い出深いほど高額になるってことでいいのかしら?」
「それだけでもないのですが、一つの大きな要因ではあります」
「思い出、かあ……」
美咲はカウンターの天板に頬杖をつき、シルバーリングを眺めた。
学生時代。まだ大蔵と付き合い始めて間もない頃。必死にアルバイトしてクリスマスに間に合うよう大蔵が買ってくれたものだ。
「当時はお互いに宝飾品の知識もろくにないから、怪しい露天商から買ったものを、嬉しそうに渡して、嬉しそうにもらったのよね。本当に純銀かどうかも怪しいのに」
「率直に申し上げますと、合金ですね。銀は含まれません」
「やっぱり」
美咲はひとしきり笑ってから、
「でも、幸せだったな」
遠い目をして、立ち上がった。
「この指輪二つ、質入れをお願いします」
「期限は本日より三ヶ月後でよろしいですか?」
「ええ。三ヶ月後だと……ああ、そうね。ちょうどいいわ。きっと」
「承知しました」
キビキはカウンターの下から札束を取り出し、天板に置いた。さらに一万円札を一枚だけ載せる。
「それではこちらの二品を質草として、当店はお客さまに百一万円をお貸し出しいたします。他の細かな契約内容につきましては、こちらにお目通しの上、サインを」
キビキが差し出した契約書に、さらさらとサインする美咲。
「ご利用、ありがとうございました」
優雅に一礼したキビキに見送られ、美咲は店を後にした。