8
三ヶ月後。
街路樹の葉が思い思いに色づき始めたころ、風鈴にしてはやや時節遅れの音を響かせて、薄いスチールの扉が開いた。
「お邪魔しまーすだわさ」
土足のまま、明かりの点いていない玄関を上がろうとするブレイシルドに、
「靴を脱いでください」
「いやだわさ。面倒くさい」
「いいえ、いけません。ここはそういう文化圏なのですから」
咎められたブレイシルドは不機嫌に眉を寄せつつも、黙ってブーツを脱いで、玄関を上がった。
「文化の違いというのは、なかなか理解し合えないものですね。お互いに」
キビキが独り言ちている間に、廊下の突き当たりまで進んだブレイシルドが振り返って、両手を広げた。
「どこの部屋だわさ」
「はい。右側、一つ手前の子供部屋です。扉は開け放しになっているはず。そこに子供用の、小さめの机と椅子のセットが置いてあるかと」
玄関で待つキビキの指示通り、ブレイシルドは室内を移動した。ほどなく、
「あっただわさ」
見えないながら応えがあった。
「そちらを回収してください。壁などにぶつけないように」
「了解だわさ」
ブレイシルドは椅子を逆向きにして天板に乗せると、掛け声もかけずに軽々と子供用の学習机を持ち上げた。柱や壁にもぶつけないよう慎重に玄関の方へ搬出し、そのままドアをくぐって質屋へ搬入していく。
このために空けておいたスペースに、ブレイシルドが学習机セットを下ろしたところで、キビキはブレイシルドが脱ぎ捨てたブーツを回収、慇懃に頭を垂れた。
「ご利用、ありがとうございました」
スチール製のドアが閉まると、鈴の音が一回、長く鳴った。
数分後。
「ただいま。ほら、エミ。帰ってきたよ」
同じドアを開けたのは美咲だった。車椅子に乗せられたエミを抱きかかえる。移動させられても、エミは起きない。ずいぶん衰弱しているようだ。
「おつかれさま。入院、がんばったね。これからはもう、ずっとおうちにいて良いからね」
医療用キャップを被ったその小さな頭をなでると、エミは目を開けないながらも小さくうなずいた。美咲は困り顔で微笑む。
寝室で寝かしつけたエミの隣で美咲がまどろんでいると、バッグの中の携帯が震えだした。飛び起きて携帯を取り出す。
「あなた?」
『ああ。いま空港に着いた。なあおい。さっき会社の寄付金の口座を見たら、いくら増えてたと思う?』
「……あなた、あのね」
『一億だぞ、一億! 匿名で一億近い寄付があったんだ!』
「……おめでとう」
『あえてパソコンユーザー向けのWEB戦略が当たったんじゃないかな。万人ウケしなくていいから、たった一人、大口の協賛を得られたらいいと思ってやったのが、良かったんだろうな。あの企画はさ、若いけど有能なうちの秘書が……』
大蔵が自慢げに語るのを美咲はきゅっと口を結び聞いている。話が尽きるまで相槌を打ち続けてから、
「何時ごろ帰れそう? 私たち今さっき帰ってきたところで……」
美咲が切り出した、が。
『いや……会社に寄ってから帰るから、遅くなる』
「……そう」
肩を落とす美咲。
「だあれ? パパ?」
寝室から細い声。ぺた、ぺた、と、小さな素足が廊下を踏む音。
「えみも、パパとおはなしする」
エミが目を擦り擦りやってくる。ちょっと歩いただけで、あんなに息が切れるなんて。美咲はエミに早足で歩み寄り、やさしく抱き上げた。携帯をエミに向ける。
「パパ?」
『エミ? エミか。パパだよ』
「パパ、はやくかえってきてね。えみ、このごろ、すぐねむくなっちゃうの」
『分かった。できるだけ早く帰るよ。明日から、また一緒にお勉強しような。あの机で……』
「なあに、つくえって?」
きょとんとした表情のエミに、電話口の大蔵も、抱っこする美咲も目を見張る。
『なに言ってるんだよ。あの、未来から来た青い猫型ロボットの……』
キャラクターの名前をど忘れして出てこない大蔵に、エミは少し笑って、
「それはわかるけど、つくえってなあに?」
「どうしちゃったの、エミ? ほら、自分のお部屋にあるでしょ」
エミを子供部屋まで連れて行く美咲。そこで、
「ない……」
買ってからずっと置いてあったはずの学習机がない。
『どうしたんだ、おい!』
「机が……エミのあの机が……ないの」
『そんなバカな! あんな大きな家具が、なくなるわけないだろ!』
通話口の怒号を耳にしながら、美咲は思い出した。病院からエミがいなくなって大騒ぎになったあの日。病院の向かいのコンビニ前のベンチで、ぼんやり一人すわっていたエミが手にしていた契約書。あれに確か、エミの学習机を一億円で質入れすると記載されていた。ご丁寧に、エミの拇印まで押して。あの時は、質屋のあの少年が通りすがりに構ってくれたのだとばかり思い、いつかお礼に行かないと、程度に……
『おい、聞いてるのか! おいっ!』
大蔵の怒声に、我に返る美咲。
「思い出したわ。ちょっと待って」
美咲はエミを寝室のベッドに寝かせ、子供部屋のアルバムの隣に置いた大きめの衣装ケースを引っ張り出した。エミが生まれてから今まで、描いたり作ったりした塗り絵や折り紙や工作の数々。どれも捨てられず片っ端から取っておいたそのなかに、
「あった」
あの契約書だ。
「品名、大蔵笑美様の学習机セット。数量、一式。貸付金額、壱億圓也、返済期限が……昨日? 期日までに返金されなかった場合、乙は、品物の所有権およびそれに付随する一切を甲に譲渡する……」
『なんだ、それ?』
「ほら、病院の近くにあったあの質屋さん。そこの契約書。エミが机を一億円で質入れしたみたい」
『なんだって? い、一億? 一億をエミが持ってるのか?』
「持ってるわけないじゃない。私、てっきりお遊びか何かだと思って」
『とりあえず店へ行って、話を聞いてこい。もし机があったら、警察へ電話だ』
「でももし、この契約書が本物で、取り戻すのに一億円が必要だったらどうしたらいいの?」
『あの机が一億もするわけないだろ! だいたい、金の問題じゃない! 俺とエミの大事な、思い出の机なんだ。とにかく早く行けって』
「せっかく帰ってきたばかりなのに。エミだって置いていけないし」
『つれてきゃいいだろ!』
胸元のエミは瞼を閉じてはいるが、呼吸は浅い。喘息が出る前兆だ。
『いいか、ちょっとは自分の頭で考えろ。ああ、もうタクシーの順番来たから。じゃあな』
ほんと、使えねえ。通話を切る間際、小声で最後に言い捨てたのが聞こえた。エミを抱えたまま、その場に座り込む美咲。まだ灯りもつけていない薄暗い廊下で、寝室の時計の針の音だけがぼんやり聞こえる。
「……ねえ、ママ」
いつのまにか目を開けていたエミが、美咲を見上げていた。
「えみ、も一回、あのしちやさんへいってみたいな」
「……ごめんね」
美咲は今までに大蔵がくれた宝飾品や腕時計、未使用の香水など、換金できそうなものを全て掻き集め、ぐったりしたエミを再び車椅子に乗せて出かけた。
しかし結局、質屋〈籠〉を見つけることはできなかった。