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質屋・籠の回顧録  作者: 甲乙イロハ
1.学習机
3/11

3

 深夜。

 大蔵はいつも通り一人、薄暗いリビングで仕事をしている。海外の有力企業への提案書。失敗が許されない重要な業務は、部下に任せず自分でやらずにいられない性分なのだ。

 一息ついて、すっかり冷え切った珈琲を口に運んだ時、携帯が唸った。メッセージが一件。


〈早く会いたいよ〉


 泣き顔の絵文字が添えられている。大蔵はすかさず、


〈俺もだよ。愛してる〉


 返信した。待望の長期海外出張まで、あと少し。その間は自由の身だ。少なくとも夜は。一緒に渡航するアリサに、今みたいな寂しい思いをさせずに済む。驚かせようと思ってまだ伝えていなかったが、寂しそうだから今すぐ伝えてやるべきだろうか。考えあぐねていた時、足音が聞こえた。美咲だ。トイレではない。リビング(こちら)へ向かってくる。携帯を横目で確認。大丈夫。画面は下に向けてある。


「あなた、ちょっと、いい?」


 開け放したドアに手をかけ、美咲が遠慮がちに問う。


「ごめんね。お仕事中に」

「大丈夫だよ。ちょうど、ひと段落ついたところだから」

「よかった。珈琲淹れるね」


 美咲はキッチンで不織布のドリップ珈琲の準備を始める。カップは一つ。美咲は珈琲が苦手だ。ほどなく、湯沸しポットが湯気を立て始めた。


「エミは寝たのか?」

「うん。今の薬、よく効くみたい。ずいぶん息が楽そう」


 沸かしたての湯を少しずつ、丁寧に注ぎながら微笑む美咲。


「そうか。高いだけの価値があって良かった」


 ノートパソコンの蓋を閉じ、両手の指を組んで、伸び。腕を下ろして、ため息を吐く。


「さっきの話なんだけどね」


 さも気乗りしなさそうな大蔵に珈琲を供し、美咲は向かいの席に腰を下ろした。テーブル脇に丸めてあった画用紙を広げる。

 大きな笑顔が三つ。大きく開いた口に差し込まれているのはレードルではなく、スプーンなのだろう。黄色と茶色のぐるぐるはカレーライスか。


「これ。幼稚園で描いたんだって。父の日のプレゼントに。パパとの一番の思い出ってお題だったみたい」

「ふうん」

「ほら、年少さんの夏休みに行った、日帰りキャンプ。小川がある原っぱの」

「ああ、あれな」


 大蔵の生返事に困った笑みを浮かべつつ、


「楽しかったよね。エミもまだ走り回れるぐらい元気だったし。エミ、ね。この絵を見せながら、またみんなで行こうねって言ってたんだけど」

「そうだな。うん。また行こう」


 大蔵の言葉に、目を輝かせた美咲が腰を浮かせる。


「そう? じゃあ、今度の三連休とか……」

「時間ができたら、な」


 携帯を手に席を立つ大蔵。美咲は無言で椅子に腰を下ろした。熱心に携帯の画面を見つめる大蔵の横顔を窺いつつ、


「そろそろエミに、本当のことを話した方がいいんじゃないかな、って思うの」


 美咲が遠慮がちに言った。


「……なにを?」

「病気のこと。エミに」

「バカ言うな」


 大蔵は呆れた顔を美咲に向けた。


「お前の病気は原因不明で、治る見込みがない。これから確実に衰弱していって、たぶん小学校にはあがれないって。伝えるのか? 本人に?」

「そうじゃないけど、そんなに時間があるわけじゃないってことだけは……」

「エミはまだ幼稚園児だぞ。説明したって分かるはずないだろ」

「だけど……」

「ランドセルだって、一応、予約したんだろ? ラベンダー色の」

「そう、よね」

「そうだよ」

「……わかった。ごめんね。変なこと言って」


 いつもの困り顔で笑う美咲。大蔵は眉間に皺を寄せ、携帯の、ブラックアウトした画面を睨みつけた。我ながら、さすがにこの顔を妻に向けるわけにはいかないなと思う。


「もう一つだけ、いい?」


 おずおずと言い出す美咲に、大蔵は口を結んだまま、うなずいた。


「エミ、学習机が欲しいんだって」


「机なんて、適当に使えばいいだろ。リビングでも、キッチンでも」

「そういうのじゃなくって。ほら、小学生になったら買うような、学習机。ビニールマットにアニメのキャラクターが描いてある、ほら、こういうの」


 美咲が差し出した家具店のチラシを一瞥し、


「ああ。これ、か」


 大蔵は祖父母が買ってくれた記憶がある。正直、ほとんど使わなかったが。


「ほしいんなら買ってやればいい。いくらぐらいなんだ?」

「値段より、エミ、あなたと一緒に買いに行きたいって言ってるの」

「俺と?」


 怪訝そうに首を傾げる大蔵に、美咲はいつもの困り笑顔を浮かべてうなずく。


「一日だけ、お休み取れない?」

「無理だ」


 大蔵は頭を横に振る。


「じゃあ、半日。いえ、二、三時間だっていいから……」

「だから無理なんだって! いつも言ってるだろ。今がどれだけ大切な時なのか。支援者と金を集めれられたら、会社うちは一気に世界へ飛躍できるんだ。千載一遇の……」

「分かってるけど」

「分かってる?」


 珍しく割って入った美咲だったが、大蔵に睨まれて目を逸らした。


「……分かってる、つもりだけど。一時間だけでもいいから。ねえ」


 困り笑顔で食い下がる美咲に大仰なため息で応えた大蔵は、パソコン作業に戻った。さっき作成した資料を細部までチェックしなければ。


「エミ?」


 物音に気付いた美咲が、開け放しのドアに向かって呼びかける。と、ドアの陰からエミが顔を半分覗かせた。


「どうしたの? おしっこ?」


 立ち上がり近づいてくる美咲に、


「これ、つかっていいよ」


 エミが差し出したのは、貯金箱だった。昔からある陶器製の、豚の貯金箱。いつか、美咲の両親がくれたものだ。


「エミ、あのね」


 諭そうと手をのばした美咲から、


「だめ!」


 盗られると思ったのか、エミは豚の貯金箱を高々と掲げ、大蔵の元へ駆けてきた。


「パパにあげるの!」


 豚の貯金箱を、大蔵へ差し出すエミ。


「えみのちょきん、ぜんぶつかってもいいんだよ」


 えっへんと胸を張るエミが差し出す貯金箱に、大蔵は言葉に窮した。


「これでおしごと、おやすみできる? つくえ、いっしょにみにいける?」


 まっすぐ見つめてくるエミに、


「この貯金は、エミのものだ」


 大蔵は言った。エミは一瞬はっとした表情を浮かべ、泣きそうになったところで、


「ちがう、ちがう」


 大蔵は慌てて続けた。


「それはエミが貯めた大事なお金だから、エミのものだ。パパは使えない。だけど机は、次の休みに、一緒に見に行こう」

「やった!」


 エミの浮かび始めていた涙が吹き飛んだ。


「ぜったい、ぜったいにやくそくだよっ!」

「ああ」


 ぴょんぴょんと跳ねまわるエミ。


「……ほんと、名前通り」


 自分も周りも、笑顔になれる子供になりますように。名付けた時の思いが甦り、大蔵と美咲は久しぶりに顔を見合わせ、微笑んだ。

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