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ちん、と電子音が鳴り、エレベーターは三階に到着した。
忌々しげに舌打ちした大蔵は、逃げるようにエレベーターから降りた。郊外の賃貸アパートには相応の、この安っぽい電子音がどうしても気に障る。娘が通院する病院に一番近いという理由で選び、限られた予算内で不本意ながら引っ越した新居だが、いつまでもこんな場所で燻ってはいられない。
足早に進む大蔵の鼻腔に満ちるカレーの香りに、
「はあ」
ため息をついた。
「またカレーかよ」
妻の美咲がつくるカレーは、ごく普通の、市販のカレールウを使った家庭の味だ。しかも子供用の甘口。まだ幼い娘がいる以上、仕方がないとはいえ、取引先が連れて行ってくれた名店のような、オリジナルブレンドのスパイスでもなければ、特別な具材を使っているわけでもない。東南アジアのあの国で食べた、辛さの中に芳醇な旨味を湛えたあの一皿を思い出すうち、自宅へ到着した。
303号室。その薄っぺらいスチールの扉を開けると、
「パパ、おかえりなさいっ!」
廊下を駆けてきたエミが飛びついてきた。
「えみちゃんね、らいねんから一年生なんだよっ。それでね、今日ね……」
大輪の花のような笑顔のエミを、
「危ないだろ! 急に飛びついたりして!」
大蔵が怒鳴りつけた。
「いつまでも赤ん坊じゃないんだ。そんなんじゃ立派な一年生になんかなれないぞ!」
「パパ、きらい!」
頬を膨らませたエミがそっぽを向く。大蔵は靴を脱ぎながら大仰にため息をついた、そこへ、
「エミ」
エプロンをつけたままの美咲が、キッチンから顔をのぞかせる。
「パパお仕事で疲れてるから。ほら。パパのお鞄、持ってあげて」
「いやっ!」
走り去っていくエミを眺め、舌打ちする大蔵。
「ったく。なんなんだよ。面倒くせえ」
小声で悪態をつく大蔵に、美咲は困り顔で微笑んで、
「エミね、あなたが帰ってくるの、楽しみに待ってたのよ。今日、幼稚園で父の日の……」
美咲が言いかけた時、大蔵の携帯が鳴った。取引先からのメールだ。
「後で聞くよ。先にメシにしてくれ」
携帯の画面を見つめた大蔵の表情が、みるみる険しくなっていく。
「なんだよ、てめえらが約束した納期だろうがよ。くそっ!」
壁に拳を叩きつけた大蔵に、
「じゃ、後で」
小声で言い残し、忍び足でキッチンへ向かう美咲に、
「子供の躾ぐらい、しっかりやってくれよ」
大蔵が言い放った。美咲の足がピタリと止まる。
「おまえは一日中、家にいられるんだ。それぐらい、ちゃんとやれなくてどうすんだ」
「……ごめんなさい」
肩越しに振り返った美咲は、いつも通り眉根を八の字に困らせたまま、笑顔で謝った。なにを考えているのか分からない表情。困り笑い。大蔵は内心で舌打ちした。