10
明け方近く。夜空に漂う藍色の雲が、次第に紫に滲んでいく。
小鳥たちさえ囀り始めるのを躊躇うほど、澄んだ静寂。それを打ち破り、爆音を撒き咲き始めた桜の花を散らしながら高速を降りてきた黄金色の高級スポーツカーは、速度をほとんど緩めることなくタワーマンションの地下駐車場へ滑り込んだ。
「じゃ、またね」
「ああ」
現役モデルの女と軽く唇を重ね、大蔵は車の助手席から降りた。運転席から飾り立てられた手を振る女を無視して、緩んだネクタイを抜き取る。去りゆく爆音がまだ轟くなか、見回せば、右も左も、ピカピカに磨かれた国内外の高級車がずらりと並んでいる。しかし、大蔵がさっきの女に買い与えたエストラL3000は一台もない。片田舎の車屋まで出張った甲斐があるというものだ。
自分の靴音だけが響き渡る広大な地下空間を、大蔵は鼻唄交じりにエレベータールームへ向かった。
混み合う時間帯ではないが、エレベーターが来るまでには時間がかかる。不運にも、最高層階に止まっていたからだ。携帯電話には相変わらず無数の着信履歴がある。電話、メール、その他メッセージ、それらすべてに対応する時間はない。ざっと眺めて、二件以外はすべて削除した。重要な要件なら、また向こうから連絡があるだろう。
ようやくエレベーターが到着、金属のベルが鳴った。階層を表示するローチアイアンともども、施主こだわりのアンティーク。ここを新居に決めた理由の一つだ。
勿体つけて左右に開いた分厚いドアを抜け、エレベーターへ乗り込むと、あっという間に自宅のある最上階に到着した。
エレベーターを降り、再開した鼻唄とともに通路を進む大蔵の鼻腔に満ちるカレーの香りに、
「お?」
高揚した。
「この香りは……」
以前に取引先が連れて行ってくれた名店のオリジナルブレンドのスパイス、あるいは東南アジアのあの国で食べた辛さの中に芳醇な旨味を湛えたあの一皿を彷彿とさせる。歩みが自然と速まった。
ドアのロックを指紋認証で解錠しドアを開けた瞬間、カレーの香りは倍増した。大蔵は上機嫌で玄関を上がると、
「美咲! お前、いつのまにこんなに凄いカレーをつくれるように……」
微妙な違和感。
「……なんだ?」
長い廊下の突き当たり、開け放されたドア奥のリビングに、間接照明だけが灯っている。
「美咲? 起きてるのか?」
姿は見えないが、声をかけてみる。遅くまで起きていたのか、早起きしたのか。すべての照明が点いたリビングは、いつもと変わらないように見える。整然と、掃除の行き届いた部屋。日々の大蔵による指導の賜物だ。
「美咲? 寝てるのか?」
寝室へ向かいながら、テーブルの上を見る。ラップで皿ごと覆われたカレーが一対。大蔵の分と美咲の分だ。飾ってあったエミの写真立てがなくなっている代わりに、紙切れが置かれている。慌てて手にとった。
離婚届。
妻の署名と捺印は済んでいる。
「美咲」
呆然とした。どうして、急に? そういえば、と携帯に入っていたメッセージを読み直す。
(今日だけは、絶対に今日じゅうに帰ってきてね)
今日は何の日だ? 美咲の誕生日ではない。亡くなったエミの誕生日でも、命日でもない。結婚記念日でもない。エミの一周忌はまだ先だし……と、そこで思い至った。
「入学式の日、か」
通うはずだった小学校の入学式の日。二人で亡きエミの進学を祝って、それからランドセルなどの遺品を整理しようと話していたのだ。それできっと、心の整理がつくからと。あの時、美咲は困り顔でも、笑ってもいなかった。
急いでベランダへ飛び出す。高層階のため見えるべくもないが、大蔵にはスーツケースを引いて駅へ向かい歩いていく女が、妻の美咲だと分かった。急いで玄関へ取って返し、どれだか適当に靴だけ履いた。共有の通路を足早に抜け、待機していたエレベーターのドアを開き、乗り込んだ。
鈴が鳴った。聞き慣れたベルの音ではない。
「いらっしゃいませ」
声をかけられ、驚いた。
「こ、ここは……?」
明らかにエレベーターの中ではない。別の場所……部屋だ。いや、なにかの店らしい。白熱灯がぶら下がる店内は薄暗く、木造で非常に古いが、掃除が行き届いているために不潔さは感じない。埃っぽさもなく、地方の小さな博物館、といった風情だ。
しかし、置いてある品物は雑多で、正直、訳の分からないものだらけだ。
棚に並べられた壷や鉢、食器、ガラスケースに入れられた懐かしのヒーロー人形はまだしも、使い込まれたアルミ製のスーツケース、金属製の懐中電灯、銭湯にありそうな大きな体重計、アイドルの顔写真が貼られた団扇に、羽なしの扇風機、ノーブランドの万年筆、大小様々の試験管、アルコールランプ、ベル式の目覚まし時計、跳び箱の八段目と最上段、半畳の畳、半分に割られた竹、すのこ、炊飯ジャー、真新しい剣道着、竹箒、額縁に入れられた賞状、どこにでもありそうな土鍋、百均にありそうな薬缶、マトリョーシカ。
到底、特別な価値などありそうもない品物ばかりが並ぶなか、靴音が響く。
「ようこそ、質屋〈籠〉へ」