老婆
*ホラー作品です。
引っ越し先に荷物を運び終わった頃、大家がゴミ出しの曜日カレンダーを持ってきた。
玄関先で受け取って終わりにしようとしたが、運悪く隣の部屋の玄関ドアが開き、挨拶をするはめになった。
「あらぁ、笠置さん、こんにちは。いい天気ねぇ。お散歩かしら?
こちら今日からお隣になった松野さんよ。よろしくねぇ。
松野さん、松野さん、こちらお隣の笠置さんよ」
前歯を剥き出しにして笑みを作り出す大家にわざとらしく顔を向けられる。
面倒だなと思ったが、サンダルに足を入れて、通路側へ出る。すると、俺の腹あたりにボサボサの白い頭があった。一瞬驚いたが、よく見ると腰の曲がった老婆だった。
「ほら、笠置さん、お隣の松野さんですよぉ」
「今日引っ越してきた松野です。よろしく」
最低限で無難な挨拶をしたが、俺の顔をじっと見つめたまま、瞬きひとつしない。
乾燥した白髪と皺だらけの肌。俺を見つめる二つの目玉は両方とも白く濁っていて、ぞっとした。
これは生き物なのだろうか。
固まっている俺を見た大家は、口元に手をあてると小さな声で言った。
「笠置さん、耳が遠いの。目も白内障とかであんまり見えないみたいで。
何かあったら言ってちょうだい。だいたいはお部屋にいるし、息子さんたちが毎日来てるから大丈夫でしょうけど」
「それは何を注意すれば」
「今までも特に何もなかったから、大丈夫よ。通路で倒れてたら救急車とか。そういうくらいの話で念のためだから」
こそこそとやり取りをしている間も、笠置と呼ばれた老婆はじっと立っているだけだった。
しばらくすると、俺も大家も目に入っていない様子で、廊下に置かれた手押し車につかまり、ゆっくりと歩き出した。
「ここから隣にあるパン屋さんに毎日買い物に行くの。それ以外はどこにも行かないから」
「はあ。……まあ、わかりました」
「おやすみの日には会うかもしれないけど、朝晩は見かけないと思うわ」
内見が夕方だったから、隣人の老婆には会わなかった。知っていたら引っ越すのをやめただろうが、今更だ。
「ガス屋さんはまだ来てないみたいだけど、電話してみる?」
「いえ、電気調理器具で済ませるので、ガスは契約しないです」
「あら、そうだったの。笠置さんと同じなのねぇ。ごめんなさいね。余計なお世話しちゃったわ」
大家は、にっと歯茎を見せて笑うと「それじゃあね」と帰っていった。
もしかすると、あの老婆が出掛ける時間帯を見て俺の部屋に来たのではないだろうか。そう気づいたが、もう関わることもないだろうと考え直し、玄関ドアを閉めて施錠した。
翌日からは朝に出勤して夜に帰宅する生活になった。そのため、隣人である老婆に会うことは無かった。
だが、夜になっても老婆はカーテンをしめることも、電灯をつけることをしないので、曇りガラスからテレビが明滅する不規則な灯りが外からも通路側からも見えて、ひどく気味が悪かった。
物音は特にしない。夜のテレビの灯り以外には、生きているのか死んでいるのかわからない暮らしぶりだった。
もうひとつ、生存確認があるとすれば、手押し車の位置が変わっているくらいだった。
火事など不測の事態でも起きない限りは、このまま関わり合うことなく終わるのだろうと思った。
だが、仕事で隣町に出かけた時、その老婆の姿を見ることになった。
社用車で出かけたその日、会社に帰る前にコンビニに寄り、トイレと昼飯の買い物を済ませて外に出ると、老婆がひとりで歩いていた。
手押し車はなく、篠竹でできた杖をつきながら、コンビニの裏手へ消えていくのが見えた。
隣人の老婆に似ているように思ったが、アパートから距離があるので別人だろうとその時は思った。
しかし、それから1週間後に、また同じような老婆を見かけた。
場所は車で向かったスーパーマーケットで、衣料品もある大きめの店舗だった。そこのトイレから出た時、女性用のトイレに入る老婆の曲がった背中を見たのだった。
だが、俺はその時も他人の空似だろうと気にすることはなかった。
田舎で年寄りの多い地域だ。市内とはいえ、そこいらじゅうに老婆はいる。珍しいことではなかった。
ただ、他の老人たちと違って、見かける老婆は頭の位置が極端に低く、それが俺に隣人の老婆をどうしても思い出させた。
しかし、何かあったところで、年寄りが俺に危害を加えようとしても、たかが知れている。
可能性があるとすれば、隣家の火の不始末くらいだが、大家が言っていたようにガスを使っていないのなら火事の心配もない。
老婆を見かけたからなんだというのだ。息子たちが世話をしていると言っていたのだ。誰かが車に乗せて外へ連れ出しているだけだろう。
そう自分に言い聞かせて、見かけても何も考えないようにしていった。
*
引っ越しをした翌月。
転職した先での仕事にも慣れ、同僚たちが遅い歓迎会をしてくれることになった。
「サプライズにしたかったから、課長行きつけの店にしたぞ!もちろん課長のおごりで!」
「無茶言うなよ。お前らに破産させられる」
「あ、松野はもちろん金はいらないからな!たらふく食べて飲めよ!」
わいわいと金曜の夜に、車で乗り合わせて向かうと、そこは焼肉屋だった。
ひゅっと息をのんだが、この後に及んで断るわけにもいかない。
俺は網焼きではなく鉄板焼きのテーブルを選び、酔いに逃げるべく酒を浴びるように飲んでその場を凌いだ。
代行に乗せられ、真夜中にアパートに帰る。
隣の部屋からは擦りガラス越しに、不安定に揺れるテレビの灯りがいつも通りに漏れていた。
「気色悪りぃ……」
聞こえないだろう相手に悪態をついてから、俺は部屋に入った。
翌日、二日酔いで頭が割れるように痛い。
隣室がやけに騒がしいなと思ったが、関わり合いになりたくもなかったので、布団にくるまってやり過ごした。
そして、休み明けの月曜の朝、玄関を出ると、そこに老婆が立っていた。
「お、おはようございます」
顔を俺の方に向けて、じっと立っているので、一応の挨拶をしてみた。
しかし、老婆は答えることも動くこともせず、ただ静かに白濁した目で俺を見ていた。
手押し車もなく、ぼこぼこした竹の杖を持って立っている姿に、俺は胸糞悪い気持ちがして、ムカムカした。
生きているのか死んでいるのかも分からない、枯れ木のような生き物に精神を疲弊させられているのが腹立たしかった。
五秒ほど待ったが、動く様子もないので、「それじゃ」と言って横を通り抜ける。
建物の角を曲がる時に後ろを振り帰ってみたが、老婆は変わらずにそこに立っていた。
「気持ち悪っ」
吐き捨てるように言って、俺はアパートの敷地を出て会社に向かった。
*
それが毎日続くようになった。
朝でも休みの日の昼でも、出かけようと玄関を開けると、そこに老婆が立っていた。
そして、何も言わずにしわくちゃの顔で俺を見て、ただ立っている。
仕事を終えて夜に帰っても、もうテレビすら見なくなったのか真っ暗なガラス窓のままだった。
よく見たら手押し車も無くなっていた。
ある夜、眠ろうと布団に入った頃、近くで火事があったのか、消防車のサイレンが鳴り響き、何台かは窓の外を通過していった。
その音に苛立ちながら、酒を呑んで眠りについたが、久しぶりに嫌な夢を見た。
子どもの俺が、老人を焼き殺すいつもの夢だった。
*
それは夏休みも終わった風の強い日のことだった。
使いかけの花火を持ち寄って遊ぶことになり、友人と自転車でうろうろと場所を探して回った。
大人に見つかると面倒な気持ちがあったので、田んぼや畑しかないような方向に向かい、ゆるい上り坂にぎゃあぎゃあと文句を言いながら自転車を漕ぎ続けた。そして気がつけば、日中でも暗い雑木林に囲まれた曲がった道に出ていた。
そこには農業資材を置く小屋よりもみすぼらしい家が一軒だけあった。
トタン屋根のボロ小屋で、背中の曲がった爺さんが一人で住んでいた。いつ見てもツギハギで汚らしい服を来て、畑の中で何かをしている。
周りの大人たちと話しているのを見たこともない、浮いた存在だった。
なぜそういった暮らしをしていたのかは知らない。ただ、誰からも尊敬されることも褒められることもなくい。地域の大人の間では、いないものとして扱われている存在だと俺たちは認識していた。
何度思い出しても、魔がさしたとしか言いようがない。
俺と友人はその小屋のトタン屋根に向けて花火を飛ばすことにした。
飛ばすといってもロケット花火でもない普通の手持ち花火に火をつけてから、屋根に乗せるように投げるというゲームだった。
げらげらと笑いながら投げるが、屋根には乗らずに向こう側に落ちてしまうので、ムキになって何本も火をつけては投げ続けた。
屋根の上でばちばちと光るのを見ては、ただ笑っていた。
あっという間にすべての花火を使い切ったので、俺と友人はすぐに自転車に乗って帰ることにした。
下り坂を自転車で走る間ずっと、頭上でざわざわと木々が揺れていたのをなぜかよく覚えていた。
そして、家に着いて友人と一緒にテレビゲームを始めた頃、サイレンが鳴り響いた。
「火事だ」
男たちが消防団の詰め所に向かうのを見ながら、俺と友人は「どこの火事だろうか」と言い合いながら、コントローラーを操作し続けた。
日が暮れ始めて、友人が帰ろうと玄関の三和土で靴を履いていると、ちょうど母が帰ってきて、「林の中に住んでいるあのおじいちゃんの家が燃えたみたいよ」と言った。
俺と友人は顔を見合わせたが、母が見ている前ではどうすることもできず、「そうなんだ」とだけ言って終わった。
翌日、学校で会った友人と「ヤバくね?」と言い合ったが、結局は爺さんの火の不始末ということで処理がされたらしい。
小屋の裏には薪と焚き付け用の枯れた松葉などが籠に入っていて、すぐそばで生活ゴミを燃やしていた跡があった。
風が強かったが、その爺さんの小屋と小屋よりもボロい納屋が全焼しただけだった。山林まで延焼する事がなかったのも、処理が早く終わった理由のようだった。
そして、その一週間後、どこかに行っていた爺さんが焼け跡に戻り、そこでガソリンをかぶって焼身自殺をした。
それ以来、火を見ると恐怖心に囚われるようになった。ガスコンロの青い炎もだめだったが、キャンプファイヤーや焼肉屋の網から踊りあがるような赤い炎はさらに恐ろしく、何度も過呼吸を起こした。
心療内科やカウンセリングを受けたが、原因を自覚していても言うことはできなかった。
一緒にいた友人は円形脱毛症になり、気がつけば一緒に遊ぶことも無くなった。
中学を卒業してからは、一度も会うことはなかった。
その友人が自動車の事故で、焼け死んだのが去年のことだった。
俺は訃報を知ってすぐに転職し、知り合いの誰もいない遠く離れた場所に引っ越しをした。
友人は隣県に移り住んでいたらしいが、少しだけ俺よりも地元に近いところだった。
距離は関係あるのか、実際はわからない。
ただこのまま地元に戻れる距離にいると、消防団員にならなければならなくなる。そんなことはごめんだった。
記憶を思い起こすものがない、しがらみのない場所ならどこでもよかった。
前に旅行で訪れた時に住んでみたいと思ったと嘘を並べて、遠い場所の就職面接を受け続けた。
もう大丈夫だ。
ここまでくれば、大丈夫だ。
俺は逃げ切ったんだ。
そう思っていたのに、火を見ることは変わらずに恐ろしいままで、消防車のサイレンで悪夢を見続けている。
*
目を覚ますと、汗をかいていたらしく、Tシャツが濡れている感触があった。
頭が重い。
明け方なのか、カーテン越しに入る光で、部屋の中が水底のように重く見えた。
水を飲もうと起き上がり、台所に続く引き戸を開けると、そこに老婆が立っていた。
「ひっ!」
思わず声をあげる。
真っ暗な台所で、杖をついた白髪頭の老婆が、白濁した目を瞬かせることなくじっと俺を見ていた。
蝋人形のように表情は変わらず、ただそこに立っていた。
心臓が俺に危険だと訴えかけるように、早鐘を打ち始めた。
玄関の鍵は締めていた。毎回、チェーンロックまでしないと、安心して部屋にいることができない。
それなのに、この老婆は部屋の中にまで入ってきている。
「へ、部屋を間違えていますよ!」
阿呆みたいに俺は叫ぶと、老婆を突き飛ばすようにして、玄関に向かった。
鍵は締まっている。それならなぜ。
とにかく同じ部屋にいることが恐ろしくて仕方がなかった。
チェーンロックも鍵も開けると、俺はサンダルをはいて、もつれた足取りで外に出た。
ちゅんちゅんと雀が呑気に鳴いている朝の風景が広がっている中、大家の家に向かおうとした。
しかし、転びそうになった拍子に、部屋の方を振り返ったところ、老婆の姿は消えていたのだった。
*
「あら?笠置さんなら、施設に入りましたよ?」
午前中の仕事を休み、何度も隣の部屋との壁や、押し入れの中を確認した。その後、大家に隣人の老婆について訊きに行くと、思いがけない答えが返ってきた。
「施設?いえ、そんはずは。昨日の朝だって通路に立ってて」
「見間違えたんじゃないですか?
この間の土曜日に、息子さんたちがそろって来て、部屋の荷物も全部片付けましたし、掃除も頼んで終わりましたからねぇ」
前歯を見せるように作り笑いを浮かべる大家に、俺は困惑していた。
「今からちょっと風を通しに行きますから、部屋を見てみます?」
「お、お願いします」
今朝、俺の部屋にいた老婆は、いつも通路で見ていた老婆と同じ人だったはずだ。
施設に入った?
それなら、どこからここに来ていたんだ?
あり得ないことが、起きている。
手のひらに汗がじわりと滲み、気持ちが悪い。
アパートに向かう途中、大家にどこの施設に入ったのか尋ねてみると、車で一時間かかる所とのことだった。
「末の息子さんの家が近いみたいでねぇ。なかなかすぐには見つからないのに、笠置さんは早かったわねぇ」
詳しい経緯は話せないけれどね、と大家は言いながら、隣室の鍵を開けた。
身構えて中を覗いてみるが、綺麗に掃除された部屋はがらんとしていた。当然、俺の部屋がある方向の壁に穴は空いておらず、人が通り抜けできそうなものは何もなかった。
「間取りが反対になっているから、あんまり音とか聞こえないのかしらねぇ。引っ越しの時、結構うるさいかしらと心配してたのよ」
「あ、いえ、職場の飲み会で前の日遅かったので。眠ってました」
「そう、それならよかったわぁ」
大家は窓を開けて、網戸のままにして玄関まで戻ってくると、また鍵を締めた。
「入りたい人がいたら紹介してね」
そう言ってすぐに大家は帰っていった。
それを見送って、隣のパン屋で買い物をして時間を潰した後、網戸越しに隣室を覗いてみたが、さっきと同じ状態だった。
パン屋も老婆が遠い施設に入ったことを知っていた。
それじゃ、俺が見たあの老婆は、一体誰なんだ?
*
ひとりで部屋にいることもできず、仕事に向かう。
人がいる所の方が安全な気がした。だが、問題は夜だ。電灯をつけていても、あの老婆が部屋の中に立っていたら。
ぞわっと背筋に悪寒が走った。
急いで車を寄せて停車する。すると俺を追い抜いた車が、目の前で対向車と正面衝突をした。
心臓がばくばくと音を立てている。
今、まっすぐに、走っていたら。
あの老婆は、焼身自殺をしたあの爺さんの復讐をしようとしているんじゃないだろうか。
ハンドルに頭をつけながら、急に閃いた思いつきが当たっているように思え、顔を上げることができなくなった。
今、顔を上げたら、そこに老婆がいるような気がして。
そして、死ななかった俺をじっと白濁した目で見つめるのだ。
ハンドルに頭をつけたまま、下を向いて固まっていると、突如フロントガラスが強く叩かれた。
反射的に顔をあげると、そこには。
「すみません!事故車から煙が出ているので、避難してください!」
いつの間に到着していたのか、警察官が俺の車のそばに立っていた。
首を縦に何度も振り、俺はバックしてからハンドルを切り返し、そこから離れた。
やった。
やったぞ。
逃げられた。
老婆は死んだ友人と同じように、車の事故で俺を焼き殺そうとしたんだ!だが、俺は避けることができた!
俺は殺されなかった!
生きてる!
生き延びた!
極限まで恐怖に追い詰められた俺は、この時の解放感で舞い上がっていた。
混雑する道を避けて、交通量が少ない方へと車を走らせる。
逃げ切ったことを再度確認するために、バックミラーに視線を向けると。
そこには、表情の抜け落ちた老婆の顔があった。
「ひっ!」
老婆は視線を運転席に座る俺に向けたまま、瞬きもせず後部座席に座っていた。
「誰なんだ!
あんた、一体誰なんだ!
笠置とかいうばあさんじゃないんだろ?!」
狂ったように叫ぶが、老婆は答えない。
声を張り上げてもう一度叫んだ。
「あんた、一体、誰なんだ!!」
すると初めて、老婆が口元を動かした。
血色の悪い乾いた唇が、ゆっくりと上がる。
にやぁ、と、笑うと、老婆は言った。
「死神」
次の瞬間、俺は心臓発作を起こした。
その拍子に足はアクセルペダルの上に落ち、赤い炎に包まれているさっきの事故車に向かって、一気に加速した。