第四十三話 砕かれた世界
「各領域の現状については――私とトリヤが、時空の権能をもって直接あなたに見せよう」
「創造の剣がなくても、私たちは逆世守護神に対処できるよ」
トリヤとガリシュが同時に手を掲げた、その瞬間だった。
きらめく星空のような空間の中で、パーリセウスの双眸には、塵世のあらゆる場所と、その前後に連なる因果までもが一挙に映し出された。だが同時に彼は悟る。逆世守護神が塵世へ侵入した、その瞬間から――塵世守護神の力そのものが、すでに制限を受けているのだと。まるで、彼らがただ存在しているだけで守護神の権能を損ない、両者の力を無理やり均衡へ近づけてしまっているかのようだった。
風の音はない。
魔力が炸裂する轟音もない。
トリヤとガリシュは、ただ静かに立っているだけだった。空間そのものが戦場へと置き換えられる、その過程はほんの一瞬にすぎない。だがパーリセウスの体感では、その刹那だけ時間が異様に引き延ばされていた。そして彼の視界は、塵世全体へと同時に引き裂かれるように広がっていく。広漠たる星河。なお辛うじて持ちこたえる五大領域。戦火に呑まれた都市。悪魔と軍団が殺し合う惨烈な光景。それらすべてが時空の力に導かれ、何一つ隠されることなく彼の前に展開された。まるでその場に立って見ているかのようでありながら、決して手を触れられぬ幻でもあった。
最初に映し出されたのは、光の領域の主星――ソル星。
そこは、パーリセウスの故郷だった。
光の都の広場の外れには、隠光大聖堂がそびえ立っている。光の領域において、もっとも信仰と秩序に近しいはずのその場所は、今や最も目を覆いたくなる屠場へと変わり果てていた。
教会の外壁は、群がる悪魔たちに踏みにじられ、ことごとく砕けている。純白の石段には血と焦げ跡が幾重にもこびりつき、守護神を象徴する六芒星の聖徽は折れ、荘厳であるはずの神像は打ち倒されていた。辛うじて揺れている鐘楼だけが残っている。だが、その鐘の音はもはや神聖ではない。ただ、この大地の悲鳴を代わりに鳴らしているようにしか聞こえなかった。
裂けた空間からは、途切れることなく悪魔たちがあふれ出し、広場と街路を蹂躙していた。彼らにとって、冒涜という概念そのものが存在しない。避難の間に合わなかった婦人も、子どもも、老人も、利爪と牙のあいだへ食い物のように引きずり込まれていく。そこにあったのは戦闘ではなく、虐殺だった。征服ですらない。残酷さそのものを見せつける、悪趣味な饗宴だった。
だが、光の領域とて無抵抗ではない。
隠光軍団の中でも最精鋭に属する王剣騎士たちは、なお死守していた。輝く剣閃で幾重もの防線を築き、その後方では黄金魔法師たちが光の幕を維持しながら悪魔を押し返し、治癒を施し、純然たる光の魔法を絶えず撃ち放っていた。廃墟の中で、また大地を覆う滅びの黒霧の中で、その金色の輝きは明滅を繰り返している。消えかけながらもなお燃え尽きぬ、無数の火種のように。
だが問題は、そこではない。
一体一体の悪魔の力は、マルフォンやザンカフロスのような使者級悪魔には遠く及ばない。にもかかわらず、その数だけが果てしなかった。
一群を斬り伏せても、次の一群が裂け目からすぐにあふれ出る。王剣騎士たちが悪魔の肉と骨を断ち切っても、その欠けた穴も千切れた残骸も、新たな滅びの黒霧にたちまち埋め尽くされる。黄金魔法師が一角の負傷者を救い上げたかと思えば、別の区域が次の瞬間には黒霧と利爪に呑まれていた。
それでもなお、崩れた祭壇の前に跪いて祈りを捧げる神官たちがいた。
彼らは、生への希求を手放していなかった。たとえ戦士たちが、もはや悪魔の攻勢を押し留めきれなくなりつつあるように見えても。
だが、そのときだった。
光帝・カルロ・ジックが、隠光軍団の兵を率いてこの大地へ降臨したのである。砕け散る流星の破片のような光の魔法が、戦場を覆う滅びの黒霧と絶望を容赦なく撃ち砕いた。創世帝の命を受け、彼は自ら光の領域全体の防衛線を組み上げた。空間の裂け目が星の表面に直接、次々と開くなど想定外だったとはいえ、塵世最速の機動力と、悪魔に対して絶大な効力を持つ光の力によって、戦況は急速に安定へと向かっていた。だが、それでもなお、増え続ける宇宙裂隙を前に、誰もが深い無力感を抱かずにはいられなかった。
次に展開されたのは、氷の領域だった。
そこには光の領域のような、信仰を踏みにじられた混乱はない。
代わりにあったのは、残酷なほど整然とした秩序だった。
吹雪はなおも唸りを上げ、氷山のような巨大宮殿は変わらず聳えている。だが、その永遠と不変を象徴していたはずの蒼白の世界には、今や暴風雪の奥深くに、不吉な空間の傷口が幾筋も口を開いていた。悪魔たちは大地の果てから押し寄せてくるのではない。吹雪の只中から、裂け目の深部から、波のように、幾度となく湧き出してくるのだ。
王座には、亡き父帝に代わって即位した新たな氷帝――グラシューの娘、ポールトル・ノール・グリネットが、微動だにせず座していた。彼女は前線へ飛び出しもしなければ、恐慌も見せない。ポールトル族の成人の儀を終えたばかりの若き女王は、ただ大殿の奥から戦況を見据え、自らの静止そのものをもって、氷の領域最後の秩序を支えているかのようだった。
そして宮殿前では、アクファが冷静沈着に軍勢を指揮していた。
寒氷の巨人たちは巨大な氷斧と重盾を掲げ、最初に裂けた空間の前を塞ぎ、移動する氷壁のように悪魔の群れを何度も粉砕していく。寒氷騎士たちは吹雪の中を高速で駆け抜け、氷青色の輝きを宿した長槍と巨剣で、あらゆる方角から湧き出る悪魔をその場で刺し貫いていた。
その光景は、パーリセウスにひどく滑稽な何かを連想させた。
まるで、この吹雪そのものが悪魔を吐き出す無数の穴となり、氷の領域の軍は、その穴を一つずつ塞ぎ、一つずつ抑え込み続けているようだった。こちらで一群を叩き潰せば、次の裂け目が遠方に開く。こちらで一角の黒霧を凍てつかせれば、別の場所から新たな悪魔が吹雪を裂いて現れる。
彼らが弱いのではない。むしろ逆だ。
龍の領域に次ぐ強さを誇る極氷騎士団は、今なお戦場において優位を保ち、女王と氷の領域の威光を守り抜いていた。
だが、この戦争は、もはや強弱だけで終わる戦いではなかった。
続いて開かれたのは、風の領域。
その瞬間、パーリセウスの瞳がわずかに収縮する。
光の領域にあったのは凄惨な流血であり、氷の領域にあったのは熾烈な膠着だった。
だが風の領域の崩壊は、それらとは異なる。もっと静かで、もっと無音のまま進行する墜落だった。
塵世でもっとも広大な版図を誇るこの領域は、今や見るも無惨な姿に変わっている。もとは銀色の花が咲いたように美しかった精霊たちの白銀城は、悪魔の侵入によって焼き払われ、無残に崩れ落ちていた。高塔は断ち切られ、浮橋は崩れ、銀白の建造物は地へ墜ちるたびに黒灰を巻き上げる。残されたのは、地上を埋め尽くす焦げた瓦礫と残骸だけだった。
精霊たちと、その元素の眷属たちは、本来であれば最も包囲されにくい種族である。複数元素の巧緻な連携。機動力。遠距離制圧。そのすべてに長けているはずだった。
だが今回は違った。
悪魔たちは正規の進軍路を辿ってきたのではない。潜伏した病のように、風の領域全土で同時に爆発したのだ。空も、森も、城壁も、航路も、あらゆる場所が裂け、あらゆる場所が燃えていた。
美しく高潔であるはずの白銀都市は、濃煙と炎の中で最後の輪郭すら失っていた。
その戦場の中心で、風帝・鋼の竜・ヴェルトラスは、自らの力を限界まで引き上げていた。
それは単なる迎撃ではない。
むしろ、決然たる“切除”に近い。
あの巨大な金属巨龍が巻き起こす暴風は、もはや精霊たちが日頃知る軽やかな風ではなかった。天災そのものとしか呼びようのない、白銀の破滅の颶風である。悪魔に汚染された土地も、崩れ果てた廃墟も、その風に根こそぎ剥がされ、空へ巻き上げられていく。逃げ遅れた悪魔も、すでに黒霧に侵された大地もろとも、その白銀の暴風に引きずり込まれ、徹底的に引き裂かれ、砕かれ、虚無へ還されていった。そしてウィルトラス自身の姿も、もはや硬質な銀白の甲冑に覆われた巨龍ではない。灰褐色の大地にも似た皮膚の裂け目から、灼熱の金属質の溶岩があらわになり、眩いほどに熱く、致命的な光を放っていた。
パーリセウスは、一目で理解した。
風帝は、もはや“すべてを守る”ことを諦めているのだ。
汚染された土地を切り捨てる。
救えぬと判断した区域を切り捨てる。
取り返しのつかなくなった部分を、容赦なく切り離す。
それは敗北から生まれた狂乱ではない。
何が残酷であるかを知りながら、それでも帝王として選ばざるを得なかった決断だった。
さらに次に映し出されたのは、炎の領域。
だが、この光景を前にしてパーリセウスが感じたのは、単なる惨劇ではなかった。
それは、ひどく冷たく、そしてあまりに滑稽な裏切りだった。
かつてソロムネスに忠誠を誓い、破壊と征服の道を選んだリザードマンの軍団が、今や悪魔たちによって一方的に屠られていた。
悪魔たちは、彼らが逆世に従った過去に何の情けも見せなかった。同じく破壊を信奉していたからといって、仲間として扱うこともなかった。それどころか、そのリザードマンたちを殺すときの態度は、他の敵を屠るときよりもなお軽蔑に満ちているようにすら見えた。初めから、彼らは一度たりとも“味方”として認識されていなかったのだ。
戦友でもない。
従属者でもない。
道具ですらなかった。
彼らはただの備蓄でしかなかった。悪魔たちが塵世をさらに征服する前に、ついでに食い潰すための糧にすぎなかったのだ。
リザードマンの戦士たちは巨斧と巨槌を振りかざし、怒号とともに反撃している。だが、本来なら敵を引き裂いていたはずの剛力も、逆世の“本物の悪魔”を前にしては、ただ鈍重で哀れなものにしか見えなかった。ファイア・ドルイドたちは、ある者は悪魔へ攻撃を放ち、ある者は両手を広げて死を受け入れ、またある者は塵世と逆世そのものを呪っていた。彼らは、自分たちが従っていたのが破滅の王であり、進んでいるのが征服の道だと信じていた。だが最後に彼らが知ったのは、真の破滅は彼らの忠誠など最初から認めておらず、その先にあったのは想像すらしていなかった空虚そのものだったという現実である。
炎はなお燃え続けている。
だが今、その炎はもはや栄光には見えない。
踏み潰される寸前に漏らされた、最後の悔しげな喘ぎのようだった。
そして最後に開かれたのが、雷の領域。
ここで最初に押し寄せてきたものは、血でも、火でもなかった。
ただ、息が詰まるほど濃密な絶望だった。
雷の領域では、すでに帝王が戦死している。新たな後継者は、まだ立っていない。本来なら帝王の意志と軍紀によって繋ぎ留められていた広大な領域全体が、今やほとんど瓦解寸前の砂の城のようだった。各地の軍団はなお戦っている。城塞はなお持ちこたえている。哨戒塔もなお轟いている。だが、そのすべてから、皆を一本の槍へ束ねていたはずの“何か”が決定的に失われていた。
それでも雷虎騎士たちは勇猛だった。
彼らは整然と突撃し、雷光をまとって悪魔の群れへ切り込み、群体戦に長けたその戦法で、一撃ごとに広範囲の敵を薙ぎ倒していく。稲妻は長槍にも、戦斧にも、戦車にも奔り、列を成した悪魔たちを次々に焦がし、砕き、吹き飛ばしていた。正面戦闘力だけを見れば、他の領域以上に凶猛にすら見える。
だがパーリセウスには分かった。
彼らは勝利を求めて戦っているのではない。
ただ、悪魔に抗うという“職責”だけを機械のように遂行しているのだ。
一筋の雷が落ちるたび、崩壊はほんのわずか先送りにされるだけだった。騎士たちはそれぞれ命懸けで軍列と士気を繋ぎ止めている。だが、帝王はすでに死に、後継は定まらず、未来は見えない。その事実だけが、暗雲のようにすべての兵の頭上へ垂れ込めていた。
なお雷虎に跨って突撃する者もいる。
なお敵を屠っている者もいる。
だがすでに、空の向こう、本来なら望めたはずの主星を見上げ、途方に暮れる者もいた。
目の前の悪魔には勝てても、この戦争そのものに勝てるとは、もう信じられなくなっている者もいた。
悪魔は裂隙から次々と這い出してくる。
だが、その大地を覆い尽くしたのは、悪魔よりも先に訪れた絶望のほうだった。
五つの領域の惨状は、時空の権能の展開とともに、順に収束していく。
だがパーリセウスは、長いあいだ声を失っていた。
電光石火のわずかな時間のうちに、彼はすでに二柱の守護神とともに、本当の戦場へ移されている。
彼はつい先ほどまで、自分のすべきことはただ一つだと思っていた。
ソロムネスを追い、あらゆる元凶であるあの存在を、このまま永久に封じること。
だが、今になって初めて理解した。
たしかにソロムネスは重要だ。
だが、もはやそれだけが問題ではない。
塵世そのものが、すでに世界ごと砕け始めているのだ。
トリヤは彼を急かさなかった。
ガリシュもまた、何も言わなかった。
息が詰まるほど短く、それでいて永遠にも感じられる沈黙の中で、パーリセウスはようやく悟る。守護神の口にした“切り捨てる”という言葉は、決して高みからの冷酷な判断ではなかった。世界がすでに裂けてしまったとき、全体を辛うじて残すために選び得る、ただ一つの方法だったのだ。
だが、その真実を実際に目にした後でなお、それを受け入れることに少しの軽さもありはしない。
それでも――
これ以上の悲劇を食い止めるためには、立ち止まっている時間はない。
もはや感傷に沈んでいる余裕などないのだ。
速やかに、そして確実に、決着をつけなければならない。




