第三十九話 ラグナロク
ここは塵世と呼ばれる宇宙。この宇宙にある一寸の空間さえ、守護神の意志によって在る。空間も時間も、目に見え手に触れられる“形”も、無形で変転する魔力や霊体も――そして、戦いの栄誉を崇める者も、正義の教えに従う者も、その根本にあるものは同じだ。塵世のあらゆる生命、ひいては神霊でさえ、肉体から魔力に至るまで例外なく守護神に由来し、守護神に属する。守護神とは宇宙の意志であり、宇宙の最高法則そのもの。まさしく全知全能の存在である。
オズマの戦死と、瀕死のサイドハック――その損耗ゆえに、虹神は本来の全力を発揮できなかった。それでもアルボルシューは、他宇宙の守護神を相手に、持てるすべてを尽くしたと言っていい。だが、守護神同士が相争えば、宇宙の破滅は時間の問題となる。ゆえに守護神は、軽々には塵世へ姿を現せない。宇宙最強の領域帝王が守護神に選ばれ、創世帝となるとはいえ、守護神を直接目にした者はあまりに少ない。だからこそ、「守護神は本当に存在するのか」と疑う者も現れた。炎の領域が信仰を捨て、より原始的な闘争欲へ傾いたのもその一つであり、光の領域に偽りの神を奉じる教派が生まれたのもまた、その揺らぎの表れだった。
しかし今――パーリセウスとソロムネスがなお鏖戦を続ける中、虹神は全力を尽くしても逆世の守護神の侵入を止められず、ついに真っ二つに斬られようとしていた。
その刹那、逆世の守護神の巨人が穿った裂隙の正面に、巨人と同等に見える白き大門が出現した。門は金色に閃き、神聖な気配を濃密に放つ。その輝きは、パーリセウスの大殿に並ぶ黄金の像を連想させるほど、凛として揺るがない。
金の光が瞬いた一瞬、逆世の守護神は定められたかのように硬直した。太刀を振り下ろす腕が、遅々として落ちてこない。灰白の魔力牢獄の中で、反射して戻る【轟天】の自傷を抑えながら、虹神はその光景を見上げた。思わず笑みが漏れる。守護神は、自分を捨ててはいなかった。だが同時に、悔恨も胸を刺す。自分が責務を果たし切れなかったがゆえに、逆世の守護神を塵世へ招き入れてしまった――この聖地を、汚してしまったのだと。
白門がゆっくりと開く。門の奥は金色の光で満ち、何も見えない。逆世の守護神は即座に防御の構えを取った。
ひゅっ、と白い影が走る。
それもまた巨人だった。だが、逆世の守護神よりは半分ほど小さい。その白き影は、灰白の巨人へ一直線に突っ込んでいく。あまりの速さで、あらゆる魔力の流れすら読める虹神の双眸でも、その姿は捉え切れなかった。
逆世の守護神は左側の三本の腕を伸ばす。一つは長槍で迎撃へ突き出し、一つは弓を構え、ただ一本の腕だけで弓弦を引き絞る。弓身は他の腕で支えられていないにもかかわらず、宇宙に固定されたかのように微動だにせず、魔力が矢となって番えられ、放たれる寸前まで膨れ上がる。もう一つは輪盤を掲げ、輪盤の閃きが巨体へ黒い膜を塗り重ねた。盾のような“皮膜”が、その表面を覆う。
だが白い影は、それらすべてを置き去りにして一気に懐へ踏み込み、逆手の一刀で逆世の守護神の左半身へ斬り込んだ。
「剣心・剣影」
白い影の言葉は、波紋のように宇宙へ広がる。次の瞬間、ドゴォーン、と空間が鳴り、逆世の守護神の左半身――三本の腕が同時に断たれた。無数の白い斬撃が壁のように空間へ打ち込まれ、そこに“斬り目”を固定する。だが斬撃は、巨体を過ぎて遠くへ伸びることはなく、一定の距離を越えたところで一斉に霧散するように消えた。
虹神は昂る胸を必死に押さえ、祈るように手を組んで頭を垂れた。
「正義と信念の神・フルガ様……!」
この瞬間、塵世の守護神――フルガが、ついに逆世の侵入者の前へ立ったのだ。
しかし三本の腕を斬り落とされた逆世の守護神は、表情らしき揺らぎすら見せない。余計な動作もない。ただ斬撃の直後、右側の三本の腕で即座に攻勢へ移った。同時に左半身が灰白に発光し、断たれた腕が再び生えてくる――しかも本数は四本へ増えていた。
フルガは銀白の双剣で、同時に振り下ろされた太刀と鎌を受け止める。だが次の瞬間、短杖の力でフルガの位置が“宇宙に固定”された。アルボルシューと違い、巨大な牢獄に閉じられたわけではない。だが動けない、まるで縫い留められたように、微動だにできない。
そのまま逆世の守護神は、再生した腕と、まるで身体と同時に生え出すかのように現れた武器で、追撃へ移ろうとした。
だが、その時逆世の守護神の背後に、もう一つ白き大門が開いた、フルガが現れた門よりもさらに大きい。ほとんど眼前の逆世の守護神と同等の規模で、金色の光を同じように瞬かせている。
その光の中から現れたのは、フルガの鎧に似た銀白の巨人だった。だが姿は半人馬のごとく、四本の剛健な脚を持ち、全身を硬質な鎧で覆っている。
銀白の兜の内側に顔はなく、ただ一塊の光明だけが揺れていた。まるで光そのものが、この半人馬形の鎧を操っているかのようだ。背の翼はフルガより多く、鉄扇の親骨にも鎧にも見えるが、やはり羽ばたかない。鎧の周囲には金色の光輪が浮かぶ。だがそれは単なる輪ではなく、金の剣の柄同士が連なって環を成したような異形の冠だった。
四本の腕は、それぞれ形の異なる長大な武器を握る。長槍、方天画戟、ポールアックス、薙鎌。いずれの刃先も、青白い輝きを噴き上げている。
「戦争と征服の神・卍グラス様まで……!」
虹神は、危機にあったフルガが救われたことに胸を撫で下ろし、思わず息をついた。
卍グラスは巨槍と方天画戟、ポールアックスと薙鎌――四つの長武器を、別々の角度から同時に叩き込むように振り下ろし、突き入れた。
逆世の守護神は身を捻って応じる。左腕の太刀と短鎌で二つの長武器を捌き、さらに左半身に新たに二本の腕を生やす。そこには巨大な両手剣と盾が握られ、残る二つの攻撃を正面から受け止めた。
同時に右半身では、長槍と片手剣の腕がフルガの双剣を押さえ込む。フルガの剣が振り抜かれなければ、あの無数の剣気は生まれず、逆世の守護神の巨体を断ち切る“壁”も立たない。局面は一時、膠着した。逆世の守護神は、塵世の二柱の守護神の挟撃を同時に抑え込んでみせたのだ。しかも他の腕はなお余っている。矢も術も撃てる、塵世守護神を削る余地が、まだ残っている。
虹神が再び不安を覚えかけた、その時だった。
逆世の守護神の頭上、真上に―さらに巨大な白き大門が現れた。規模はフルガの背後に開いた門と同等。金色の光の中から姿を現したのは、純白の躯体だった。
それはまるで大理石の彫像のような身体、そこには逆世の守護神に似た符文が刻まれている。だが、逆世のそれが乱雑で荒れた刻みであるのに対し、この白の符文は整然として精緻で、秩序の気配を帯びていた。
その存在が現れた瞬間、虹神の胸から不安と緊張が一気に洗い流される。残ったのは、意外なほど純粋な歓喜だけだった。
「まさか……智慧と剛毅の神・プルドリセ様まで、ご降臨なさるとは……!」
プルドリセは十数本の腕を伸ばした。次の瞬間、その背後が発光し、光の中からさらに多くの腕が顕現する。拳となる腕、掌となる腕、独特の印を結ぶ腕――それらすべてが逆世の守護神へ向けて伸び、叩き込まれる。
触れた刹那、逆世の守護神の身体にびっしりと神秘の文字が刻み付けられ、同時に巨体は弾き飛ばされた。
三柱の塵世守護神は、打ち飛ばされてなお急停止した逆世の守護神を、居高臨下に睥睨した、次の合力攻撃を放つために。
その時、灰白の巨人の“溝”のような眼に、ついに赤い光が灯った。血のように濃く、だが日食のように不安を煽る紅――沈黙の奥で、何かが確かに動いた。
同じ頃、《剣心境界》にて。
六芒星の魔法陣を切り裂くように顕現し、ゆっくりと歩み出たチェルヴァンは、濃霧に覆われた天空の浮島に立っていた。本来なら、見渡す限り金色の草原が広がるはずの下界は、極限まで濃い魔力霧に呑まれ、ドラゴン族の血統をもってしても戦況を探れない。
それでも、耳を裂く刀剣の衝突音が絶え間なく響く。視えずとも分かる。黒と金の二つの影が、凄まじい速度で交錯し、離れてはまた交わる。金の影の攻勢が明らかに強い。四方八方から、執拗に黒の影を追い立てている。
「……パーリセウス様がなお優勢か。創造の力で満ちたこの聖地では、ソロムネスも我らドラゴン族を下僕へ堕とすことはできまい。ならば――」
チェルヴァンは決意を固めた。
「吾父、龍帝・ルドインに代わり、全てのドラゴン族の勇士を招集する。パーリセウス様を助勢し、局面を徹底的に封じ切る……!」
そう言い切ると、チェルヴァンは甲高く、耳を刺す龍の咆哮を放った。その咆哮は引き金となり、浮島で吐息と魔法により助戦していた巨龍たちも、次々に咆哮を重ねる。波のように連なる龍の咆哮は、さらに遠方へ、さらに遠方へと伝播していった。




