第三十八話 絶望の化身
セミトスはおそらく死んだ、徹底的に。
いまだにセミトスの身体から魔力の痕跡は一切拾えない。だが、アルサイドら兄弟の能力を得た今のアルボルシューなら、セミトスの残骸に“生”が残っているかどうかを感じ取れる、そしてそこには、微塵の生気すらなかった。
当面、他の悪魔を警戒する必要はない。問題は目の前だ。言語化しがたい恐怖の気配を放つ一本の円柱。黒い土砂のようなものを纏い、巨大な灰色の直方体の星体にも見えるそれは、たった一本でありながら、滅世帝・ソロムネスの覇気にすら劣らない圧を放っていた。
そして、その円柱がこの宇宙へ深く侵入してくるほど、円柱体の暗い光に照らされるようにして、セミトスの魔力核の爆発で生まれた空間の裂け目が、ますます大きく開いていく。
また新たな悪魔か?
否、悪魔ではない。こんな気配を放つ悪魔など、太古より一度たりとも存在しなかった。
虹神は脳内で、太古から今に至るまで斬り伏せてきた悪魔の記憶を高速で反芻する。例外なく、彼らは毀滅の力に依存していた。吐き気を催す腐臭、感覚を廃するほどの辛辣さ、そして黒霧――滅びの黒霧こそが逆世の“作動原理”だった。
だが、目の前の巨物には滅びの黒霧が一片もない。それが虹神の不祥の予感をいっそう深くした。黒霧に依存して運用される逆世の悪魔が、どうして突然、自らの力の源から離れられる?
ならばこれは、毀滅の力そのものなのか?
否、それもあり得ない。逆世宇宙の魔力中枢は「毀滅の剣」であるはずだ。創世帝パーリセウス様が守護神より授かった「創造の剣」と同じく、“剣”こそが中核――宇宙の重量と魔力を背負う載体であり、唯一の神器。柱のような存在に置き換わる理屈がない。
まさか、これが逆世の守護神か?
これ以上考えてはいけない。
今すぐ消さねばならない!
虹神は思考を続けながらも、身中の力をすべて凝集し始めた。虹神は宇宙そのものの魔力を直接調律できるが、凝集には時間が要る。しかも一度に動かせる総量には上限がある。それでも虹神は決めた。自らの奥義――全力の一撃【轟天】を放つ。空間内の魔力を完全に爆発させ、その威力で一つの種族の領域すら丸ごと平らにする。
その頃、遠方。虹神へ合体する前のチェルヴァンは、暗の領域の縁にいた。風神・ボエトルからは「できる限り遠くへ退け。だが、異変を見届けられる位置にいろ」と告げられている。チェルヴァンは虹神との魔力の繋がりを通じ、あの不祥の気配と、虹神の魔力が世のすべてを粉砕する勢いの奔流となって臨界へ達していくのを感じ取っていた。
突然、白光が走った。チェルヴァンは悟る――虹神が奥義【轟天】を放った。しかも今回は全出力だ。
彼は即座に変身する。刀剣翼・龍銀喰魂|騎士。来たるべき衝撃波に備えつつ、加速して後退する。だが、思ったほど距離は稼げなかった。白光が消えたあと、彼が予想した“爆発”が来ないのだ。
チェルヴァンは驚き、思わず振り返った。遠視魔法の視界に映ったのは、生涯忘れ得ぬ光景だった。
先ほどまで一本だった円柱が、瞬時に数十倍へと膨れ上がっている。しかも、それだけではない。円柱は増えていた。幾本も、幾本も。
いや、違う。落ち着け。
チェルヴァンは目を凝らした。今の視力なら、あの円柱の“貌”を追える。虹神の姿そのものは見えなくとも、ドラゴン族の眼は魔力の流れを読む。虹神はなお、宇宙を翔ける神格級の奔流として存在していた。だが、その虹神の圧倒的な力でさえ、あの円柱の前では、まるで子どもの玩具の球のように見えてしまう。
今すぐ支援に行くべきか?いや、虹神の力に比べれば、己の力は取るに足らないものだ。
チェルヴァンは自分と虹神の差を痛いほど理解している。目の前の巨物は、到底自分が敵う存在ではない。ならば戻るべきは龍の領域だ。創世帝が滅世帝を討つための助力となる――少なくとも、ソロムネス相手なら自分にも出来ることがある。
そう判断すると、チェルヴァンは呪文を詠唱し、龍の領域へ転移した。パーリセウスとソロムネスが戦う場所、《剣心境界》へ。
一方、虹神の前では、状況はさらに厄介さを増していた。虹神の【轟天】は一瞬で空間の裂け目に吸い込まれ、異空間へ消えていく。そして空間の裂け目からは、さらに巨大な五本の円柱が伸び出してきた。
事ここに至っては、攻め続けるしかない。轟天が吸われるのなら、力を純粋な物理へ変えて、あの円柱を断つ。
虹神は【轟天】の力を放たず、圧縮したまま自身の身体に蓄えた。そうして速度を上げ、円柱へ突進する。
その途中で、虹神は突然、ついに円柱の正体を見破った。
なんと、腕だった。
最初に見えた一本など、あの腕先の指の一本に過ぎなかった。
何というばかでかさ。指一本で惑星など圧し砕ける。軽く振れば恒星すら弾き飛ばすだろう。こんな存在が、魔力増幅だけで身体をここまで膨張させられるはずがない。存在そのものが、宇宙の尺度を冒涜している。灰白の腕を覆う黒いものは、鎧にも見え、刺青にも見え、呪文がびっしり刻まれた刻印にも見えた。
その腕は空間の裂け目を押し広げ続けている。――“あれ”が、まもなく入ってくる!
虹神はさらに加速し、一本の腕へ全力の拳を叩き込んだ。その一撃には、圧縮した【轟天】の全威力が載っている。岩が断ち割られるような音が走り、腕は手首のところから宙で断ち切られた。
よし、効く――虹神・アルボルシューは内心で安堵し、さらに多くの腕を砕こうとした。
だが、遅かった。
空間の裂け目が突然、盛り上がった。周囲の空間が押し潰されたスライムのように歪み、何かが空間の裂け目そのものを破ろうとしている。もちろん、腕の主だ。
この宇宙に来させてはならない!
虹神は判断を変えた。今は攻撃ではなく封鎖へ。自身の魔力で空間の裂け目を全力で抑え込み、縁を締め付けて小さくしていく――完全に閉鎖へ。抑制の影響で空間の裂け目はたしかに一瞬、止まった。
だが、すでに塵世へ伸び出している腕の手元に、突然さまざまな武器が現れた。短い法杖、刀、弓。どれも腕と同じ不祥の気配を帯びている。
空間の裂け目を縛っている“何者か”を感知したのか、法杖を持つ腕がアルボルシューを指した。
目がないのに、我々が空間の裂け目を制していると分かるのか?
アルボルシューは空間の裂け目を抑え込みながら、法杖の腕へ反撃を準備した。だが失敗した。指が向けられた瞬間、灰色の光が彼を包み、彼の魔力は一斉に塵世宇宙との接続を断たれた。まるで糸の切れた凧のように、拠り所が消え、ただ無力が残る。
その刹那、他の腕が空間の裂け目へ干渉し、縁を破り、門をこじ開けた。腕の主が、ついに空間の裂け目を越えて“完全に”侵入してくる。
それはまさしく、絶望の化身だった。
全身から淡い灰白の光を滲ませる、形容しがたいほど巨大な“男”の裸身だった。逞しい躯体の各所には、烙印のようでもあり、欠け落ちた傷口のようでもある、形の揃わぬ符文が刻まれている。露わな下肢には、鎧のごとく硬質でありながら、時に自由に揺らめく裾、あるいは半分だけ残ったマントのようなものが纏わりついていた。
その顔かたちは、見ただけで本能が怯える。両眼は固く閉ざされ、目尻の両端から黒い涙のように、上から下へ四本の深い溝が刻まれている。鼻梁は巨大な山の峰のように高く、唇は存在せず、口の代わりに大きな裂け目だけが走り、その奥には尽きることのない闇が横たわっていた。顔の全体が仮面のようで、背後にある真の素顔を見透かすことができない。短い髪はあるが、それは硬すぎて、兜帽が頭に張り付いているかのようだった。さらに頭の背後には、時計めいた輪盤が浮かんでいる。だがそれは液体で形作られているかのようで、塵世の時計のように規則正しく回るのではない。脳神経の隆起が互いに触れ合うように蠢き、接触の“伝達”が四方へ走っていく。
背には二対の巨大な翼がある。だが翼もまた躯体と同じく、誰かが彫り出した石像のようで、微塵も羽ばたかない。足はない。切り落とされたのか、引き裂かれたのか、そのまま宇宙に漂っている。そして最も目を奪うのは、六本の腕だった。体躯に釣り合う巨大な武器をそれぞれ手にしている。長槍、太刀、短杖、一本の弓、星系のように環を連ねてきらめく輪盤、そして短い鎌。
「お前は何者だ!」
灰白の光で組まれた牢獄に閉じ込められたまま、虹神は吼えた。これほどの存在を前にしては、領域級の王者ですら、ただ視線を交わしただけで魂が抜け、反射的に顔を背けて逃げ去るだろう。戦うという発想そのものが生まれない。だが塵世最後の防壁であり、退路も後退も許されぬアルボルシューは、なお檻の内で脱出を試みていた。
しかしすぐに悟る。先ほどあの腕を断ち切った【轟天】の力が、この牢獄の中では徹底的に抑え込まれている。迂闊に発動すれば、傷つくのは相手ではなく自分――そういう感触がある。これは魔力でも、毀滅の力でもない。むしろ単純な物理法則、あるいは宇宙に刻まれた絶対の法則――定則に近い。
ならば相手の正体は、ほぼ確定する。こうした法則の力を駆るのは、宇宙の守護神、あるいは“宇宙そのものの意志”と呼ぶべき存在だけだ。虹神の胸に、かすかな絶望が滲んだ。
巨人は答えない。ただ、太刀を握る腕を持ち上げ、牢獄ごと斬り落とすように振りかぶった。
もう他に手はない、今すぐこの牢獄を壊さねば!
虹神は、塵世宇宙との繋がりを断たれながらも、自身の内に残る豊かな魔力を必死に凝縮し、声高く詠唱する。
「――ああ、守護神よ! 卑しき僕はここに、奇跡の降臨を乞う! 七色の天よ塵世を照らせ! 我は疾風! 我は浄水! 我は霊木! 我は大地! 我は黒闇! 我は光明! 我は烈火! 神の長子アルボルシューである。我は虹神! 闇よ、破れ。光よ、創れ! 虹神・轟天!!!」
アルボルシューは、身体に残る最後の魔力まで搾り出し、一息に牢獄を打ち破ろうとした。最大出力の【轟天】は、牢獄内の空間をほとんど蒸発させた。まるで巨大な魔力が圧縮され、内部の“空間”という概念そのものを消し去ったかのように。
だが牢獄に触れた瞬間、牢獄は僅かに形を歪ませただけで、なお頑強にアルボルシューを封じ続けた。
巨人の一刀が、いよいよ牢獄へ落ちてくる。そこに込められた魔力は多くない――むしろどこか軽やかですらある。だが狙いは、虹神を寸分違わず貫く軌道だった。




