46 靴職人令嬢、不意に気づく
「リルジェシカ嬢!」
ぐいっ、と力強い腕に後ろから抱き寄せられる。
振り返るより早く、たたらを踏んだ身体を支えてくれたのが誰なのか、声だけでわかる。
「フェリクス、様……?」
信じられない気持ちで見上げたリルジェシカの視界に映ったのは、荒い息を吐き、刃のように鋭くダブラスを睨みつけるフェリクスの凛々しい面輪だ。
「何もされていないかい?」
「は、はい……っ」
気遣わしげにリルジェシカを見下ろしたフェリクスの問いに、あわててこくんと頷く。
抱き寄せられた腕の力強さにほっとしているはずなのに、ぱくぱくと動悸が収まらない。
「よかった」
ほっ、と息をついたフェリクスが、ふたたびダブラスに険しい視線を向ける。
「ダブラス殿。『元婚約者』のあなたがリルジェシカ嬢にいったい何の御用ですか? もし、ふたたびリルジェシカ嬢を利用する気なら……。わたしも黙ってはいませんよ」
フェリクスの視線が抜き身の刃のように鋭くなる。気圧されたダブラスが、「ひぃっ」と小さく悲鳴を洩らした。
「り、利用とは人聞きの悪い! わ、わたしはただ、マレット男爵家の窮状を憐れに思ってもう一度……っ」
「もう一度、何でしょうか?」
ダブラスの声が、フェリクスとは別の礼儀正しくけれども冷ややかな声に遮られる。
「ドルリー……っ!」
フェリクスが苦々しげに呟くのと同時に、抱き寄せられた腕にぎゅっと力がこもる。
「何だ!? 商人風情が! お前には関係のない話だろう!?」
ダブラスが歩んでくるドルリーを振り返って怒鳴る。フェリクスとダブラスの不快げな視線などものともせずに、ゆったりとした足取りで歩み寄ったドルリーが、かかとを合わせ、優雅に一礼した。
「皆様、ご機嫌麗しく存じます」
緊迫した場面に似合わぬ挨拶を整った面輪に微笑みを浮かべて告げたドルリーが、ダブラスに視線を向ける。
「関係ならば、おおありございます。わたしは、リルジェシカ嬢に求婚しているのですから」
ねぇ? とドルリーが同意を求めるようにリルジェシカに甘やかな笑みを向ける。
「舞台から降りるべきは、《《元》》婚約者のダブラス様のほうでございましょう? それとも、未練を断つために、リルジェシカ嬢がわたしの求婚を受けられるところをご覧になられたいですか?」
「ふざけるなっ! リルジェシカ嬢がお前などと婚約するわけがないだろうっ!」
誰よりも早く苛烈に反応したのはフェリクスだ。
フェリクスの口から飛び出した『婚約』という言葉に、ばくんっ! と心臓が轟く。
そうだ。リルジェシカを抱きしめる頼もしい腕も、いたわりに満ちた言葉も、本来は全部、他の令嬢のもので――。
「あ……」
視界が暗く、狭くなる。
身体の震えが止まらない。
「リルジェシカ嬢?」
気遣いに満ちた声に、反射的にフェリクスを見上げる。
いまにも雨が降り出しそうな曇天の中、そこだけ陽射しを残したような碧い瞳を見た瞬間。
――フェリクスに恋をしているのだと、不意に悟る。
「わ、私……っ」
なんて愚かなんだろう。
婚約者がいるフェリクスを好きになってしまうなんて。
フェリクスはただ、セレシェーヌ殿下に命じられて、リルジェシカを気遣ってくれていただけなのに、それを勘違いしてひとりで舞い上がってしまうなんて。
いますぐ消えてしまいたいくらい恥ずかしい。
もがき出ようとすると、ためらいがちにフェリクスの腕がほどかれた。離れてゆくあたたかさに反射的にすがりたくなった衝動を、歯を噛みしめてこらえる。
勘違いしてはだめだ。このたのもしい腕は、他の令嬢のものであって、決してリルジェシカのものにはならないのだから。
フェリクスのためにも、こんなに人目のあるところで、誤解を招くようなことをさせてはいけない。
気を抜くと、涙があふれてしまいそうだ。
そんなことになれば、またフェリクスに余計な気を遣わせてしまう。
「私……っ! 今日は失礼しますっ!」
「リルジェシカ嬢っ!?」
叫ぶと同時に、身を翻す。
フェリクスやダブラスの驚いた声が聞こえたが、止まってなどいられない。
脇目も振らず、王城内を駆け抜け――。
リルジェシカは門前で待ってくれていた貸し馬車に飛び乗った。