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23 靴職人令嬢、洗われる

 結局、リルジェシカは葡萄を全部踏み潰すまで桶の中で娘達の足を観察していた。踏み潰された葡萄の汁は、このあとたるに入れられ、熟成される。


 娘達が桶を出て、最後に出ようとしたところで、足早にフェリクスが近づいてきた。


「す、すみません。お待たせして……」


 待たせすぎて怒らせただろうかと思いながら謝ると、不意にフェリクスの腕が腰に回った。


「ひゃっ!?」


 何かと思う間もなく抱き上げられ、そばの椅子に座らされる。ちゃぷん、と洗い桶に足を入れられたかと思うと、膝の上に、ふわりと大判の布地がかけられた。


「あのっ、これは……!?」


「きみが葡萄踏みをしている間に、村のご婦人から買い取った。こうすれば、不用意に足を晒さずに済むだろう?」


「あ、ありがとうございます……っ。あ、あのっ!?」


 答えたフェリクスが、立ち去るかと思いきや、片膝をついて屈む。止める間もなく、洗い桶の中に入ってきた大きな手のひらに片足を掴まれ、リルジェシカはふたたび悲鳴を上げた。


「ひゃあっ!? あのっ!? あのあのあの……っ!?」


 予想の埒外らちがいの出来事に、あうあうと唇がわななくばかりでうまく言葉にならない。


 その間にも、フェリクスの大きな手が優しくリルジェシカの足を洗う。


「だ、だだだ大丈夫ですっ! 自分でできますから……っ!」


 洗い桶から足を引き抜こうとするが、長い指先にしっかと掴まれて抜け出せない。


「他の者達だって、洗ってもらっているだろう?」


 フェリクスの言葉に目をやれば、確かに他の娘達も母親らしき婦人達に洗ってもらっている。


「で、ですが! だからといってフェ……っ、こ、こんなことをさせては悪いですっ! 洗ってもらうなら他の――」


「だめだ」


 思いがけず、強い声で遮られる。


「たとえ女性でも、きみの足を他の者にふれさせられるものか。おとなしく洗われなさい。入る前に約束しただろう? 出たらわたしの指示に従う、と」


「や、約束しましたけれど、でも……っ」


 フェリクスにひざまずいて洗ってもらうなんて、申し訳なさすぎて、消え入りたい気持ちになる。


「も、申し訳なさすぎます……っ」


「わたしがしたくてしているんだから、気にしないでくれ」


 言いながらも、フェリクスの手は淀みなく動く。長い指先が肌をすべるたび、くすぐったさに声が洩れてしまいそうで、リルジェシカはぎゅっと唇をみしめた。


 秋の水は冷たいはずなのに、フェリクスの手がふれてくれているところが、どんどん熱を持っていく。


 恥ずかしいのに、同時にフェリクスの心遣いが嬉しくて、不思議な気分だ。


 リルジェシカはそっとひざまずくフェリクスを見やる。いつも見上げるばかりで、こうしてリルジェシカのほうが視点が高いのは初めてだ。


 伏せた凛々しい面輪は意外とまつげが長くて、鼻筋が通っているのがひと目でわかる。秋の陽射しを受けてきらめく金の髪は、まるで黄金を融かしたようだ。


 不意に『あの素敵な人、あなたの恋人?』と無邪気な問いかけが脳裏に甦り、リルジェシカはぶんぶんとかぶりを振って追い払う。


 いったい、何を見てそんな誤解をしたのか。フェリクスはただただセレシェーヌの命でリルジェシカの手伝いをしてくれているだけだというのに。


 そもそも、変わり者と蔑まれているリルジェシカと、非の打ち所のない近衛騎士のフェリクスが、なんてありえるわけがない。


「よし、これくらいかな」


 満足そうな声をこぼし、フェリクスが顔を上げたのは、しばらくしてからだった。膝にかけていた布で濡れた足をぬぐわれる。


「あ、ありがとうございました……っ」


 恥ずかしさに顔を上げられず、うつむいて早口に礼を言って靴を履く。


「あの、布の代金を……」


「気にしなくていいよ。わたしが勝手に買ったものだからね。それより、葡萄踏みをした甲斐はあったかい?」


「はいっ! とっても勉強になりました! やっぱり、人によって微妙に形が違うんですっ! 甲が薄くて足の幅が広めの方とか、指の形もこう……っ!」


 両手をぶんぶんと動かしながら、興奮気味に伝えると、くすりとフェリクスが笑みをこぼした。


「そうか。きみの靴作りの経験に活かされるのならよかったよ。きみの足は小さくて可愛らしかったね」


「ふぇっ!?」


 ぼんっ、と顔が爆発しそうに熱くなる。


「そっ、そそそそそんなこと……っ」


「まあ、きみ以外の足にふれたことなんてないから、比較対象はないけれど」


 くすくすとからかうように笑ったフェリクスが、「じゃあ、そろそろ帰ろうか」とふたたびリルジェシカの手を取る。


 こんなに狭い村の中で迷うはずがないのに。それとも、子どものように頼りないと思われているのだろうか。


 そうかもしれない。急に葡萄踏みをやりたいと言い出すなんて、きっと呆れられたことだろう。


「あ、あの……」


「うん?」


 呆れてらっしゃいますか? と問おうとした言葉は、フェリクスの柔らかな笑みを見た途端、喉の奥へと逃げていく。


 いったい、どうしてしまったのだろう。自分のことなのに、どうなっているのかまったく全然わからない。


 そうこうしているうちに、革なめし工房の前に着き、行きと同じようにフェリクスに抱き上げられ、鞍の前に横座りに乗せられる。


 木の幹にくくりつけていた手綱をほどいたフェリクスが、身軽に鞍にまたがり、そっとリルジェシカを抱き寄せる。


「どうだい? 進ませても大丈夫かな?」


「は、はいっ。フェリクス様のおかげで、慣れましたから……っ」


 こくんと頷くと、フェリクスがゆっくりと馬を進める。


 行きと違って、もう馬を怖いとは思わない。なのに。


 来た時よりもずっと、自分の鼓動が速い理由を、リルジェシカは見つけられなかった。


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