無知は罪、罰は死刑
無知は罪である。なので法で裁かれる。
ボクは朝から勉強していた。すでに社会人。生涯勉強が謳われてから年を重ね、今時知らぬことは犯罪である。働くもの云々ではなく、知らぬ者は生きるべからず、なのだ。
資格、英語、とにかく雑多に吸収する。テキストは新しい。これで何冊目か。出版社が煽った文言に誘われてしまう。「知らないことは死刑です」ボクはまだ死にたくない。
ひと通り勉強を終え、無知罪で死刑になったというニュースを閉じ、出勤開始。年月を思わせるアパート。その一室から出ると、ご近所さんとばったり出会う。ふくよかな彼女は上品に口に手をあてた。右手にはゴミ袋。
「あれ、今日は燃えるゴミですよ。出さないんですか?」
とそう言ったあと、顔が死相が如く白くなる。必死に周囲を見渡す。あくどい監視者でもいやしないかと。ボクは困りつつ、笑顔で誤魔化した。
「今日は出さないんですよ」
ご近所は緊張が緩む。安心したようだ。ゴミ出しは本当に忘れていたのだが。今時、忘却が正当な理由にはならない。
郊外とまでは呼べない町を行く。まだ知らないことの多い町だが、辺りを目で探らせてはいけない。知らないことがあると思われる。
最近、政府が無知罪を作った。文字通り、無知が罪になったのだ。誰もが知るとおり、知らないことが犯罪の世界だ。知らないことを知ることさえ、無知として裁かれる。教養本を見る言い訳は、知っているけどもう一度読みたい、となる。ボクが買ったテキストも同じ理由にした。そんなこと、誰もが既知のこと。
スマホのニュースには無知の犯罪者達の速報。統計が告げ口でもしたように、数だけが記される。この数字に含まれている人は処刑される。無知故に。
こんなことを導入したのは名だたる教育者達。彼らは近頃の人は物を知らなすぎると世にはばかった。己の権威を傘に人々を罵倒。当然たる反感も、バカをバカのままにしていいのかと叫び返す。話の斜め下にある正論だとしても、正論に変わりはない。マスメディアは彼らの威光の影となり、無知罪を煽った。
誰だってこんなことおかしいと考えた。もしかしたら記者達も本気にはしてなかったかもしれない。だが、政府はわずかな数の圧力に屈し、法整備してしまった。反対する者の無知を責め、反知性であるとした。賢くないとされる者はいつも弾圧の対象だ。
ボクは会社に着いていた。メンバーと挨拶を交わし、自分のデスクへ。社会生活において、会話は慎重にやらないといけない。少し間違えると相手は何も知らぬ愚人として、この世の命をあの世へ明け渡す。
社員についての会話を聞く。社長は遅れるそうだ。もちろん建前上はみんな知っている。だが、ボクに話しかけてきた男は違う。
「やぁ君。今日もご苦労だね」目を開き、口角を汚らしく上げている。「ところで知っているかい。あの漫画。最近有名だよね」
彼はM。人に突っかかり、何でも質問する男。人の無知を暴き、通報して優越感をすすっている。卑劣を隠しきれない飛び出た目がボクを離さない。
漫画とは。読む余裕はない。だが、漫画を知らないというのも無知。今時創作をやるものは少ない。知らないことを書くなんてリスクを負いたくない。
だからある程度絞ることができるのだ。
「あぁ知っているよ。とても面白い」
けれど名前は言わない。ここでボクが漫画の名前を聞く、というのはできない。下手したらボクの無知が知れ渡る。または彼がミスをする。いくら人を追い詰める悪漢だとしても、いや、だからこそ追い詰められない。何をするか解ったものではないからだ。
Mがさらに問い詰めようとして、始業。彼は去った。隣の新人が見てくる。さっぱりした短髪を揺らし、過大な羨望を抱いて。
「先輩、流石ですね」
ボクははにかむだけにした。
仕事中、隣を見る。新人は見るからに緊張していた。無理もない。このご時世、新人であることが質問の免罪にはならない。若いとか関係なしに成人すれば無知は罪。質問は己の知識不足を明かす印籠になってしまう。
新人は顔の鋭い女性上司のもとへ行く。彼の心臓の音がここまで届くようだ。
「部長、ここはこれでいいですか?」
上手い。これは質問というより確認だ。どちらも了解済みであると無言で共有、扶助の空気を生んでいる。部長は、
「あぁ、ここはそうだね。間違ってない」
彼女は指先であいまいに指示した。その動きから、新人がミスをしたことが窺える。彼も察した。部長の気遣いに喜び、席に戻ろうとした。
「おっと君。もしかして解らないことでもあるのかい。聞いてくれよ」
Mが下劣にも口を開いた。新人は知らないことが当然だ。だが、その事実は建前にならない。この問いに「ない」と答えれば、謙虚が必要なことを知らないとされる。「ある」と答えれば無知を晒す。どちらも言えない。見るからに焦っている。
見かねた部長がMを叱責。だが法的に悪事なし。注意程度で場は収まる。危うく人間一人の人生が潰えるところだった。
緊張が錆び出して昼休み。ようやく社長が着く。彼は前歯で下唇を噛んでいた。何があったかは聞けない。罪になる。
Mはわざわざ部長の席まで行く。猫背をさらに曲げ、餌をついばむ鳥のようになった。
「部長、社長があんなになったのに心当たりはありませんか? 貴方なら知っているでしょう」
さっきのお返し。なんとも大人気ない。だが部長は余裕の表情を崩さない。遂にサディスティックな顔さえ出した。
「そんなことを聞くということは、貴方は知らないの?」
「もちろん知っていますとも」Mも負けない。「部長が知っているのかと確認しているだけですよ」
「ふーん。私が社長が遅刻した理由を知っているのを知らないんだ。そういうことだよね」
言われて、黙る。Mは口が上手いワケではない。なのに首を突っ込むから愚鈍なのだ。これ以上言い争うのは不味いと判断。「用事を思い出しまして・・・・・・」とそそくさと退散。オフィスから出ていった。対比になるのは落ち着くボク達。新人は悪党をやっつけた己の上司を尊敬した。
「頭の回転速いですね。自分、てんでダメで」
「私の回転の速さ、知らなかった?」
新人は青ざめたが、ボクらの目線で戻る。彼女はそれとなく注意しただけだ。「もちろん、知っています」彼は赤面した。
この空気は、わずかな喧騒で崩された。
最初は誰かが階段を登る音。随分と忙しい衣擦れ。みんなが騒ぎの方向を見る。オフィスの開いた扉の先。ボク達のもとへは来ず、おそらくは社長室へ向かった。
気になったボクは廊下へ出てみる。ひと目で解る。警察だ。便乗して出てきた人も、悪寒で目を回した。社長が何かしたのか。
部屋から社長が現れた。警察に捕まり、うつむいて歩く。諦観の極地にある表情に色はない。まだニュースでしか見たことのない光景に圧倒され、道を譲った。
部長は怯まず状況確認をする。
「お忙しいですね」
「無知罪です」空気を読んだ質問と解釈した警察官が事務的に答える。「アラームをつけていなかったことを知らなかったようで。子供が通報しました」
一応は犯罪者を捕まえたというのに、明るくはなく苦々しい。彼は去った。入れ違いにMが戻ってきた。卑しい顔つきで歯を見せる。
「まさか社長が無知罪とは。あそこまで昇って、それでも知らないことがあるんですねぇ」
明日は我が身とこの男は知らないのか。それに、社長が寝坊したことをお前は知らないだろう。そう責めたいが、自分にも返ってくる。何を言おうと犯罪に繋がりかねない。なんて非道な社会だ。
社長は逮捕された。緊急であるとして、すぐに仕事を終わらせた。下手な言葉は身を滅ぼす。愚痴なんてない。そんな中、Mが部長に呼ばれた。どうも小さいミスをしたらしい。
関係ないと帰り支度。しかし耳に入らずを得ない言葉が発せられた。
「いやいや、そんなの知りませんよ」
Mの声。人をバカにする声色。知りません。
今聞いた口語は真実かと目を向ける。部屋の視線がMに集中している。部長も、我が耳を疑っているようだ。当人たるMの足が震え、腰を抜かし、へたりこんだ。嫌な予感がして新人に目を向けた。彼は今にも追求しそうだ。この時代、間違った行いではないが、それをしたら後には引けない。
部長が咳払い。ただ一言、言った。
「すまない、外の音がうるさくて聞こえなかった」外はいつもの日常音。「みんなも聞こえなかったようだ。新人君もね」
彼女の目が新人を貫く。平常を取り戻したか、ボクの目にも気付く。膝に拳を置き、息を吐いている。
「では、以後注意するように」
彼女はそう言って切り上げた。Mは何が起きたか理解できないまま。もし、もしも。それがボクの頭から離れない。自身の未来を憂う。
帰宅中。街路は昼の笑顔を隠さない。明日には一面のニュースを飾る会社を思う。
その考えは子供の声に打ち消される。一人の男子が路上で泣き叫んでいた。人は関わろうとしない。そばにいるのは両親らしい男女のみ。話を立ち聞きすると、さもありなん。
「眠りたい、眠りたいよ!」
「何を言っているの! まだ知らないことばかりでしょ!」母親が叫び返す。
「知らなくてもいい! もうやだ!」
「知らないことは犯罪なんだよ! お前は犯罪者になりたいのか!」父親が威圧する。
子供のかたわらに転がるのは勉強道具だけではない。マンガが表示されたスマホ、小説の文字が映るタブレット、数多のゲーム機。無知とは、日々の流行にも適応される。彼が眠りたいと思うのも無理もない。ゲームも漫画も勉強なのだろう。
嫌な思いのまま家の中。絶えず勉強は続く。耳を休ませないため、ネットでニュースを流し聞き。アナウンサーがニュースを読み上げた。
無知罪を導入した教育者達の話だった。彼らは政界に躍り出た。人々が勉強に精を出していることを喜んでいるとのこと。精ではなく命をかけているんだ。ボクは一時勉学を忘れ叫びたかった。記者が質問する。自殺率と犯罪率が急増していることへの対策を聞いている。対する教育者は、知らないから質問しているのか? と逆質問。そうでないなら質問していない。けれど記者は引き下がった。こんな当たり前も、許されない。
休みだと思ったのだが、翌日も仕事はあった。職場にはMもいる。昨日までとは違い、誰にもちょっかいをかけない。実に真面目であった。新人は彼の変化にビクビクしている。
Mのオドオドした姿は知らなかった。ボクは今日一日、そう思った。