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漆.岐路 後



 少女の後姿が近づくにつれ、高まる緊張と鼓動。

 良夜(りょうや)は拳を堅く握りしめ、意志の力で押し隠す。

 詰まった距離は残り二(けん)ほど。気配を察したか少女は振り向いた。


 光を透かした髪の、金糸の輝きが舞う。

 朝陽をうけてほのかに暁色に染まっている白い肌。

 しなやかな強さと凛とした意志が秘められているとは想像もつかないほど、小さく華奢な身体。

 星見巫女(ほしみのみこ)を哀悼する雫がこぼれる紫水晶の瞳は、驚きに見開かれる。


「あなたは――」


 記憶の中と寸分違わぬその姿、その声に、良夜はまぶしげに瞳を細めた。


 片や珠織人(たまおりびと)(ひじり)として。片や魔竜士団長として。互いに背負うもののために刀を交えたあの決戦。双方負った傷は深く、突如襲った謎の光により意識を失った。

 これまで栞菫(かすみ)はどうしていたのか、良夜には知る由もない。ただ、無事で生きていてくれた。その事実に、心の奥底から熱いものが湧きあがる。


 進み出た良夜の前に、ひとりの青年が割って入る。向けられた銀の長槍。鳴神槍(なるかみのやり)であることはすぐにわかった。

 竜谷で眼にしたときとはずいぶん印象が違うが、この男が翠竜(すいりゅう)か。

 良夜は暁光色の瞳を彼に向けて言った。


「手負いの同士を連れ戻しに来ただけだ。戦うつもりはない」


 (みどり)は黒緑玉の瞳で良夜の視線を無言で受け止めていた。が、ゆっくりと鳴神槍を引き戻す。

 かつて翠竜でいた頃も、良夜と接する機会はなかった。が、良夜の理知的な瞳に嘘があるようには思えなかったのだ。


 良夜は改めて栞菫に視線を定める。

 紫水晶の瞳は落ち着きを取り戻していた。その奥に見えていた戸惑いは沈み、意志という名の光が浮かびあがっていく。


「私――」


 栞菫の声が、口を開きかけた良夜の言葉を止めた。

 彼女はまっすぐな――怖れを知らぬ子供のように純然な真摯さで良夜を見つめて言う。


「私の――ううん、『栞菫』の記憶の中に、あなたがいる。でも、『私』はあなたを思い出すことができないの」


 沈黙のまま耳を傾ける良夜に、小さく絞り出すような言葉が紡がれていく。


「でも、あなたのことを思い出したい。あなたがどういう人なのか……『栞菫』にとってあなたは」

「俺は」


 良夜の凛とした声が、少女の声を遮った。

 栞菫であって栞菫ではない少女――はるかに向かって、良夜は告げる。


「魔竜士団の士団長。名は良夜だ」

「魔竜、士団……長」


 はるかは良夜の肩書きをくりかえす。

 ようやくわかった。

 数日前、意識を失っている間に感じた記憶。

 魔竜士団との決戦を控えた暁城(あかつきのしろ)で、栞菫が抱えていたもの。稀石姫(きせきのひめ)としての逃れられぬ天命とやりきれない心の痛み。

 大切な人と、倒すべき者との一致。それが彼女を苦しめていたのだ。


「魔竜士団はこれより守護石を脅かさぬ。だが、これまでの行いを否定はしない。我等は正しい道を進んできたと、いまでも信じている」

「そんな! そのせいであっしら草人(くさびと)は竜人族に……」


 勢い良く発せられた冴空(さすけ)の声は、良夜の視線を受けて見る間にしぼんで聞き取れなくなる。良夜は表情ひとつ崩さずに答えた。


「同士を失ったのはこちらとて同じこと。守護石破壊を断念するのは、魔竜士団の目途が変わっただけだ。我等が敗北したわけではない」


 そう。魔竜士団は夜天(やてん)と志を共にして戦ってきたのだ。

 志半ばにして命を落としていった数多の者たち、そしてこの場におらぬ残された同志たちの想いを、誇りを、土にまみれさせるようなことはできない。


 良夜は、うつむいてしまった冴空からはるかへと視線を戻した。


「稀石姫――あなたと俺の戦う理由も、今はなくなった」


 はるかは良夜の視線を静かに受け止めている。

 言葉の真意を探るでもなく。

 その先に続く言葉を勘繰るでもなく。

 ただ、良夜の言葉をその身に受け止める。


 良夜は、しばし無言で眼前に立つ少女の姿を見つめていた。

 金の瞳に捉えた栞菫の姿を、焼付け、封じ込める。彼女が生きていたことへの祝福と共に。祈るように、瞳を閉じた。

 再び瞳を開いた良夜は、はるかへ伝える。


「もう会うこともないだろう。息災で――」


 それを最後に、良夜は背を向け歩き出す。

 遠ざかる後姿に吸い寄せられるように、はるかは足を踏み出した。


「待って」


 緋焔(ひえん)に穿たれた心臓の痛みが、はるかの足をもつれさせる。

 横合いから伸びた翠の手によって転倒を免れながらも、はるかの瞳は良夜の背中を追い続けた。

 良夜の背中は速度を緩めることもなく遠ざかっていく。


 完全に稜線を抜けた太陽が投げかける朝陽の中、良夜は進む。振り返ることなく。

 至道の横をすり抜けながら目配せをし、共に傾斜を上る。良夜の中に、砦での薫路の声が蘇っていた。


――あの子はねぇ、稀石姫として過ごしていた頃の記憶がまるでなくなっているのよ。全てを忘れて自由に生きる機会が訪れたの。


 薫路は何故、栞菫がそれを望んでいたことを知っているのか。


――あなたといたら、きっと彼女は辛い戦いの記憶を取り戻してしまうわ。現に今、過去に触れたものにもう一度触れることで、少しずつ記憶を取り戻しているんですもの。


 心配そうな表情を浮かべながら、薫路の瞳には良夜を試すような光が見え隠れしていた。


――だから、ね。あなたは『稀石姫と会ってはいけない』と、いうわけ。どう? 守れるかしら?


 それが良夜を砦から逃す代償としての約束。

 薫路は緩やかに波打つ銀髪を片手で後ろに流し。十歳そこそこの少女とは思えぬ艶やかさで微笑んで見せた。


 窪地の上で待っていたのは、まさにその笑顔だった。


「稀石姫の様子は確かめられた?」


 薫路の呼びかけには答えず、良夜は無言のまま少女の横をすり抜ける。その後に続く至道が通り抜けた後、薫路は小走りに良夜に追いつく。

 良夜はそれでもかまわずに、根元から折れ、吹き飛んだ大樹の残骸を抜けて戦災を逃れた木々の間へと進んでいった。

 足早に歩く良夜の後に軽い足取りで続く薫路は、半歩前を歩く良夜を見上げる。


「だから言ったじゃない。あたしとの約束、守ってもらうことになっちゃうって」


 謎掛けの答えを言い当てた子供の無邪気さで笑いかけていた薫路の足が止まる。

 良夜が歩みを止めたからだ。

 次の瞬間、薫路の笑顔はたちまちにして凍りついた。


 夜の闇を切り裂くまばゆい暁光を宿す金色の瞳。その中に宿る底冷えのするような殺気が、視線と共に薫路を射抜いたためだ。


「勘違いするな。俺は俺の信ずる道を行く。それがお前の約束とやらと一致していた。ただそれだけのことだ」


 再び良夜は歩き出す。皆の待つ、風翔国(かぜかけるくに)の砦へと。

 自分は、魔竜士団は、これから進むべき道を見つけなくてはならないのだ。


 ふたりの竜人族の遠ざかる姿が、立ち並ぶ巨木に遮られて見えなくなっていく。

 薫路は髪をかきあげるようにしてこめかみを伝う汗を拭った。


「竜人族最強を誇る黒竜族。その中でも一、二を争う戦士……というのは伊達じゃないのね。本当の身体じゃなくてもあれだけの闘気を発するなんて」


 幼女には似つかわしくない妖艶な笑みが口元に浮かぶ。


「ますます欲しくなっちゃった」


 小さな呟きを洩らし、薫路は背後を振り返る。

 痩身の男が一人、たたずんでいた。木々の影に、朱で彩った白い狐面がほのかに浮かび上がって見える。その様は幽鬼のような不気味さを感じさせた。


「あんたもこっちに残ってたのね。そりゃあそうか、あの巫女の術、『あるべき“星”へ』って言ってたんですもの」


 薫路は肩まで露出した両の腕を胸元で組み、左手を口元へやって考えこむ。

 他の妖魔たちは双月界の下へと引き戻されたのだろう。

 魔竜士団は目的を失い、どう出るのか――。

 そして、心臓の真芯を貫かれても死ぬことのない稀石姫……それが指す事実は、ひとつ。


「これは面白くなりそうだわ!」


 楽しくていてもたってもいられない様子で、薫路ははしゃいだ声を上げた。

 彼女が指を鳴らすと、湿った土と苔だけの地面に黒い闇が広がる。薄い布を広げたように。

 闇は薫路の周囲全てから波のように立ち上がり、ふたりを包んで沈む。

 後には、森の中独特のひんやりとした空気と静寂が残るばかりだった。



けん】距離の単位。一間は約二メートル。


ひじり】珠織人の長の位。珠織人の寿命三百年に対し五百年を生き、珠織人を生み出す『珠織の儀』を継承する者。先代の呉羽が戦死する際、娘である栞菫に力を受け渡している。


【翠竜と良夜】魔竜士団として出陣してからは、良夜は別の地域に出陣していた。戦中に翠竜は陽昇国に離脱しているため、ふたりは顔を知っている程度の認識。


風翔国かぜかけるくに】緑繁国とは隣国となる、元・斎一民の統治国。魔竜の乱で最初に守護石を破壊され、山中に魔竜士団の砦が築かれた。

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