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漆.岐路 前


 風凛(ふうり)の力が解放された直後、窪地を覆いつくした白い光。その奥がどうなっているのか定かではないまま、良夜(りょうや)薫路(こうろ)の隙をついて窪地の中へ跳び込んだ。

 光の中、窪地の斜面を半ば滑るように夢中で駆け下りて行く。氷刃竜(ひょうじんりゅう)が落下した、その地点を目指して。


 氷刃竜は、妖術陣から放たれた血色の光に貫かれた。

 たとえ氷刃竜がまだ存在していたとしても、それは氷冬(ひとう)であって氷冬ではないもの。彼の前に姿を現したとしても、それを良夜だと判別できるかどうか。

 さらに『魂の竜』はこの世界に在るだけで力を消費し続ける。受けた傷により、すでに力を使い果たしていたら――。


 それでも、良夜は走らずにはいられなかった。


 それより早く至道(しどう)も。光の嵐の中、思うように動かぬ身体を叱咤し歩を進めていた。

 不思議と力は戻りつつある。まるで動くことのできなかった先刻までの状態が嘘のようだ。しかし失われた右腕は、もはや戻ることはない。

 たどり着いた先、光の中地面に横たわる影を見つけた。それは良く知る氷冬の姿だった。


「氷冬!」


 至道が歩み寄ると、氷冬は意識を取り戻し身体を起こした。同時に大量の血が彼の口から吐き出される。

 幾度か咳き込んだ後、枯れた声がつぶやく。


「何故だ――身体が……」


『魂の竜』を開放するために滅した肉体は、二度と戻るはずがないのだ。

 風凛の言葉を、至道は思い出す。“星を遡り”と……。

 彼女の施した術が、時をわずかに巻き戻したということなのだろうか。氷冬の身体に取り込まれたはずの氷刃冬牙(ひょうじんとうが)も、彼のかたわらに落ちている。

 それを手に、氷冬は立ち上がろうと力を込める。



「氷冬、それ以上――」


 とめようとした至道の言葉は、新たな人物の出現にさえぎられた。

 氷冬を脇から支えるのは、氷冬の腹心である羽玖(はく)だった。驚く至道に、氷冬は自嘲とも取れる笑みを浮かべて言った。


「戦いの結果がどうあれ、俺の命はここで尽きるはずだった。氷刃竜のまま散れれば、屍を晒さずに済んだものを――」

「氷冬……」


 誇り高き氷の竜は、古き友にすら――いや、古き友だからこそ、その死に姿を見られたくないのだ。

 死を覚悟した氷冬は、あらかじめ羽玖に命じていたのだろう。自らの命が尽きる瞬間を、誰にも見せぬように、と。


 今まさに命を奪おうとする病に苦悶の汗を浮かべながら。氷冬はこれまでにないほど穏やかな表情を至道へ向けた。


「魔竜士団には士団長が戻ってきたのだ。良夜の指示を仰げ」

「良夜は、夜天(やてん)とは違う道を行くはずだ」

「構わんさ……もはや夜天の志を叶えることは出来まい」


 せめて、夜天の仇討ちだけは果たしたかったが――。


「俺の命あるうちにそれが叶わなかったのも、また運命なのだろう」


 静かな氷冬の声に、至道は沈黙を返すほか術がなかった。


「至道、これからは良夜が皆を導く。だが良夜には、お前の助けが必要だ」


 まっすぐに向けられた冬海色の瞳。差し出された氷刃冬牙を、至道はしかと受け止める。このときのために氷冬が至道に託していた言葉を胸に、おもむろにうなずいた。


「お前との約束、この竜神の魂に誓って決して違えたりはしない」


 至道が、残された左腕に握った氷刃冬牙を自らの胸に当てる。


 氷冬は瞳を伏せるように表情を崩す。

 至道なら、そう答えると……そして必ず実行してくれると、問わずともわかっていた。

 志半ば――後を託すのがこの男なら未練はない。


 氷冬は迷いなく踵を返す。


「では、さらばだ」


 明日また会うかのようなごく自然な言葉で、今生の別れを至道に告げた。

 氷冬を支える羽玖が、空いている腕で風を呼ぶ。

 一陣の風が吹き抜け、ふたりは至道の前から姿を消した。


 周囲の光が収まりゆく中、至道の前に良夜が走りこむ。

 星を散りばめた満点の夜空さながらの黒髪を揺らし、朝陽を凝縮した金色の瞳が正面から至道を捉える。


「至道――氷冬は?」


 目の前に駆け寄ってきた良夜に、至道は無言のまま首を横に振った。

 幼さを残した良夜の顔に、やりどころのない怒りと悲しみが去来する。頭を垂れ、そのまま崩れ落ちる良夜の身体を、至道の左腕が支えた。

 対になる腕が失われているのに気がつき、良夜は至道の左腕に添えた手に力を込めた。


「みんな……みんなどうしてっ……」


 夜天は、竜神の故郷である魔界への道を開くために戦いを挑み、その戦いの中で死んでいった。

 そんな夜天の遺志を果たすために、氷冬は――。


 夜天とは、魔界のことで何度も衝突した。

 魔界なんて、行けなくても良かった。夜天が、兄弟である良夜と紗夜(さや)のためにそれを望んでいると知ってなおさら。

 そんなことのために、命を失って欲しくなどなかった。


 氷冬も、夜天の遺志を託されたがために……。

 遺言として残された言葉を、託された者はなんとしても果たさなくてはならない。それが竜人族の掟。

 だとしても。誰かが不幸になる掟ならば、従うことは本当に正しいと言えるのか。


 至道は、うなだれる良夜を黙したまま見つめた。

 先代の士団長・夜天が、副士団長であり親友でもある氷冬に託したもうひとつの遺言。


 良夜と紗夜をたのむ。


 それは今、氷冬から至道へと受け継がれた。

 妖魔たちが双月界へ侵略して来れば、良夜や行方の知れぬ紗夜に危険が及ぶ。それを阻止するためにも、氷冬は魂を開放してまで妖魔たちの術を破ろうとしたのだ。

 夜天の仇である翠竜(すいりゅう)稀石姫(きせきのひめ)を討てなかったことに遺恨がないと言えば、嘘になるだろう。だが、氷冬がそれに固執せずにいたのは、夜天の無念を晴らすことが良夜の悲しみに繋がるとわかっているからこそ――。

 だが、その事実を知れば良夜は自らを責めるだろう。


 至道は良夜の手をそっと引き離し、その肩に左手を乗せた。


「氷冬は、奴なりに本懐を遂げたのだ。悲しむことはない」


 良夜は至道の黒い瞳を見返す。

 至道は良夜が出会う前から氷冬を知っている。その悼みは良夜のものより深いはずだ。

 だが今、彼の瞳には強い意思の光だけが宿っていた。


 周囲を取り巻いていた白い光は、霧が晴れていくように空気に溶けていく。

 東の方から光が差す。夜の領域を押し開くその暁光は、良夜の金色の瞳に凝縮される。


 良夜は奥歯を噛みしめ、両の手を拳に握り、己の心を奮い立たせた。

 夜天も、氷冬も、己の信念に従って己が道を歩み続けたのだ。


 では、自分が行くべき道は――良夜が成すべきは、何だ?


 振り向いた視線に飛び込んできた、遠くに立つ少女の後姿。金茶色の長い髪は、陽光に透けて淡い金に輝いている。

 良夜はその後姿を目指し、ゆっくりと歩き出した。



【魂の竜】竜神の名を冠した武具で身体を取り払うことで、祖竜神の姿へと変じた魂。身体が失われているため、力を使い果たしたあとは消え去るのみ。実際にこの姿になったのは氷冬ただひとり。

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